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一話

 リリリと不愉快な音が突然鳴り響く。

 電話の着信だった。何時だと思ってるんだ。文句の一つも言ってやろうかと反射的にスマホを掴んで、ようやく気付いた。カーテン越しに明るい光が差し込んできている。

 手に持ったスマホに目を落とせば、時刻は四時。勿論、午後だ。この時期の朝四時など日も昇っていない。

 だが、だとしても不愉快だ。

「……物好きが」

 我知らず吐き捨て、スマホを投げる。布団の上に投げたつもりだったが、少し外れて枕に衝突した。転がって床に落ち、硬い音が鳴る。まぁでも、画面が割れるほどじゃない。

 気にしないでいたら、リリリリリリリと五分以上も着信音が鳴り続けていた。

 そして切れる。

 それでいい。相手が誰かなど、表示を見るまでもなかった。アサギだ。

 上半期はそれでもかけてくる奴がいないではなかったが、下半期に入って早三ヶ月、年度も折返しとなるとよほどの物好きでなければ俺に電話などかけない。

 俺はニートだ。

 そこそこ良い大学を、そこそこ良い成績で卒業して、そろそろ半年。

 にもかかわらず、ニートだ。

 笑えよ、と誰にともなく呻きたくなる。

 去年の俺は馬鹿だった。景気が良くなって、人手も不足して、就職氷河期なんて終わったと信じ込んでいたのだ。

 それに、自信もあった。

 学歴も成績も悪くはないし、むしろ平均と比べれば良い方だ。人を見下してお高くとまることしか脳のない高学歴様より、人付き合いに慣れていて飲みニケーションも大歓迎な俺みたいな学生の方が受けも良い。

 というか、そもそも俺だ。

 別に有名企業を志望したわけでもない。そこそこの大学を出た、そこそこの新卒が、そこそこの企業に入社する。平凡だが、堅実。大企業に行った奴に見下されるのは癪だが、それくらいは我慢してやろう。そんな気持ちで、受かって当然の企業に履歴書を送った。

 で、落ちた。

 書類選考すら通らなかった。

 そこで気付けばよかったと、今なら分かる。

 けど去年の俺は馬鹿だった。馬鹿すぎて笑えないくらいに馬鹿だったのだ。

 手続きにミスでもあったのか、そうでなければ人事が無能なのか。まぁ落ちたなら仕方ないと就活を再開した。……冬になってから。

 その後どうなったかなんて、言うまでもない。

 よく一緒に騒いでいた同期生が会社の食事会だとか言って飲み会を断るようになった。

 まぁ留年するよりはマシだろ、と笑ってはみたが、一度は引退したサークルに復帰した奴はなんのかんのといじられながらも後輩だった同級生たちと馬鹿みたいに笑っていた。

 それどころか、就活もしないで趣味に現を抜かしていた奴が夢を掴んだ。なんでも応募していた絵が賞を取ったとかなんとかで、趣味を仕事にしたらしい。

 馬鹿みたいだった。

 入社前から飲み会に呼び出してくるような会社がまともなわけがない。

 大学生活は楽しかったが、大金を払ってもう一年やるかと聞かれたら断るに決まっている。

 どうせイラストレーターなんて一枚幾らで買い叩かれて、ネットで下手だなんだとやっぱり叩かれるだけだ。そんなのを夢にするなんて終わってる。

 直接は言わないが、何度も馬鹿にして、お前らは現実が見えてないんだと笑ってやった。

 そうやって笑っている自分が誰より下にいるのに気付いて、吐き気がした。

 ニートになる前の日まで、まさか俺が、と思い続けていたのだ。

 卒業後、思い出した頃に飲み会の誘いがあって、それを無視したら連絡は来なくなった。

 スマホも連絡に使うよりゲームに使うことの方が多くなっている。

 学生の頃は、ただポチポチとタップするだけのゲームの何が面白いのか分からなかった。というか今でも何が面白いのか分からないが、気付けばスタミナを消化している。

 カレンダーではなく、スマホゲームのクエストで曜日を確かめるようになった。

 布団に寝転がって、ゲームを起動。

 今日は木曜日だ。曜日クエストを延々周回する。明後日になれば無償石が貯まる計算だった。ただポチポチするだけでも、ガチャで最高レアを引き当てれば少しは楽しいものだ。

 ただ、課金する余裕なんてない。

 当たり前だ。ニートの俺に収入なんてない。バイトもする気になれなかった。かなりの金を払って大学を出て、就職先が時給幾らのバイトなんて馬鹿げている。

 まぁ、自宅警備ならぬ学生向けアパートの自室警備という就職先の方が何億倍も馬鹿だが。

 と、その時、さっきはリリリと不愉快な音を立てたスマホが、今度はブブーと不愉快に鳴る。

 何があったと視線を戻せば、なんてことはない、スタミナが切れているだけだった。

 回復薬で回復しますか、と選択画面が表示されるも、即決で『いいえ』。半日もあれば溢れてしまうスタミナ回復のために百円も払う馬鹿がどこにいる。百円がどれだけ貴重か、開発者は知らないのか。

「あぁ、くそっ……」

 自販機で缶コーヒーを買うことすら躊躇い、コンビニまで行った挙げ句にインスタントを買ってきた記憶が蘇る。一杯百円。学校帰りの女子高生ですら一緒にドーナツを買う値段だ。

 急に惨めになった。

 何もする気が起きない。

 というか、何もすることがない。もう何十回かは読み返した漫画を手に取って、開く前に投げ捨てる。時間の無駄だ。

 寝よう。

 何をしても時間の無駄だが、寝ることだけは無駄とも言い切れない。早く寝て、早く起きる。何もできない今日なんてさっさと切り上げて、何かできるかもしれない明日に時間を回す。

 これぞ論理的かつ合理的な判断というものだ。

 ケーブルを繋ぐのも面倒で、スマホを放り投げたまま毛布を引っ張る。

 直後、そのスマホがリリリと耳元で騒ぎ出した。

 うるさい。

 あれから十五分も経っていないのに、またかけてきたのか。電話口に怒鳴ってやろうかとも思ったが、やめた。代わりに、脳内の日記帳に今日の出来事をメモしておく。

 就寝時刻、午後三時。

 これでいい。

 俺は電話を無視したんじゃない。寝ていて気付かなかっただけだ。

 延々と鳴り続ける着信音を無視し続けていたら、思いの外すんなりと眠りに就けた。


 不意に目が覚めた。

 ほとんど癖でスマホを手に取る。ゲームを起動して、曜日クエストを周回……しようとしたところで、まだ木曜日だったことを知った。

 ようやく時刻を確かめれば、夜の十一時過ぎ。

 七時間も寝たと見るか、それでもいつもよりは短いと見るか。まぁ、どっちでも同じことだ。二度寝しようかとも思ったが、身体を動かさないせいで七時間睡眠でも目が冴えてしまう。

 さて、今日は何をしよう。

 今日はも何も寝る前と日付が変わっていないが、どうせ一時間もすれば明日だ。大差ない。

 そんなことを考えているうちにも七時間分のスタミナが底をついた。

 早くもやることがなくなる。

 やっぱり二度寝しようかと思った矢先、またもリリリと静寂が破られた。なんなんだ、今日は。電話なんて、いくらアサギでも週に一度か二度しかかけてこないはずだろ。

 しかもタイミングが最悪だ。

 なんでこう、俺が寝ようとしている時に限ってかけてくるのか。

「……あ?」

 まさか隠しカメラでも、なんて思ったわけじゃない。

 ふと我に返って履歴を漁れば、そこに答えがあった。

 今朝方に一件、昼頃に一件、夕方……というか午後の四時頃に二件、同じくアサギからの履歴がある。朝と昼の着信は気付いてすらいなかったが、問題はそこじゃない。

 午後五時を境に、着信の数が跳ね上がっている。

 五時台は十分ごとに六件、六時台も六件、七時から九時にかけては合わせて二十件以上。

 十時を回ってからは、もう数えたくない。というか、今もまだリリリリリリと延々鳴っていることから推察するに、これは切ってすぐにかけ直している状態だろう。

 明らかに異常だ。

 恐る恐るスマホを握り直し、息を吸う。吐いて、また吸って、電話に出る。

「バーカっ!!」

 瞬間、怒鳴られた。

 そして通話が切れる。

 なんだ、これ。

 意味が分からない。

 こんなこと言いたくはないが、気が触れたのか?

 アサギは、まぁわけの分からん奴だったが、頭はおかしくないし言うほど非常識でもなかったはずだ。俺より二歳下で、今年三年生になった男子大学生。いや、成人男性を男子と言うのも変な話か。

 ともあれ、まともな教育を受けた、まともな成人である。

 それが延々電話をかけ続けてきた挙げ句、出たら出たでバーカと罵って即切りとは。

 意味が分からない。

 思わず二度も繰り返してしまったが、それが効いたのか、またリリリとスマホが鳴った。

「……なんだ?」

 すぐに出て、耳を澄ます。

 荒い息遣いの向こう側に、ガヤガヤとした喧騒があった。おーい、とおっさんの声が聞こえる。どこにいるんだ、と聞こうとして、らっしゃいせー、と威勢のいい声が聞こえてきた。

 居酒屋か。

「センパぁイ」

「んだよ、気持ち悪ぃ声出すな」

 間延びした猫撫で声は、つい今しがたバーカと子供じみた悪口を投げ付けてきたのと違いすぎる。

「ンパイがいけないんれすよ」

「あ? なんつった?」

「センパうぉっぷがいけれええんすよ」

 もう何を言っているのかも分からない。あと電話越しに後輩(男)の空嘔吐きを聞かされた俺の心的外傷はどこに訴えればいいんだ? 救急でいいのか?

「……で、なんだったんだ、いったい」

 電話の向こうが落ち着くのを待って、取り敢えず訊ねる。

「なんだじゃないれすよ、なんらら」

 いっそ切ってやりたい。

 切ってやりたいが、しかし切れなかった。別に何を思ったわけでもない。ただ何かが喉元に引っ掛かったような気がして、気持ち悪かっただけだ。

 まぁその小骨も、すぐに取れるのだが。

「今日、僕のたんろうひなんれすけど」

「たんろうひ?」

 なんだ、それ、新しい造語か何かか。

 一瞬、というか数秒、本気で分からなかった。テレビで偉そうな先生が言葉の乱れだなんだと言うように、また大学生が謎言葉を発明したのかと真剣に考えてしまった。

 だが数秒後、俺は俺自身の過ちに気付く。

 誕生日か。

 そういえば、そうだ。アサギの誕生日は秋だった。去年の今頃、成人したてのアサギのために飲み会をセッティングした記憶が蘇る。そうか、もうそんな時期か。

 あの飲み会は楽しかったな、と珍しく不快感とは無縁の思い出が脳裏をよぎった。

 そしてそれは、電話口のアサギも同じだろう。

 悪いことをしたかもしれない。

「……なんろもかけたんれすよ」

「何度もかけたんですよ?」

「おうっ! おうれうっ! あがら! はあくきれ――」

 前言撤回。

 呂律が回らなすぎて最早何を言っているのか推測もできない言葉を並べられた挙げ句、半分吐いたような音を耳元で聞かされた俺の気持ちが分かる人類など、この世に何人いようか。

 どうせ明日には記憶なんて消えているに違いない。

 俺も何も聞かなかったことにして、二度寝しよう。

 しようしようと思って結局しないのが、ここ半年の俺の悪い癖だ。ニートの習性とも言う。

 電話越しにおっさんの声が聞こえた。大丈夫か、とやけに鮮明な声が介抱のために近付いてきていることを教えてくれる。これで道端で夜を明かすこともなくなっただろうが、だからこそ不安が胸に広がった。

 他の男なら、安堵だけを抱えてぐっすり二度寝できただろうに。

 電話口のおっさんはまだ何か言っている。なぁ姉ちゃん、とアサギに向けて言っているのが聞こえた。こいつも酔っ払いなのかもしれない。酔って目が見えなくなってるだけならいいのに。

「おい! おい、アサギ!」

 思わず飛び起きて叫ぶと、遠く声が聞こえた。

「……んれすか」

「どこの店だ、そこ」

「へへぇ、来てくれうんれすかぁ」

「黙れ、いいから店を教えろ!」

 もう一度叫び、そのまま部屋からも飛び出そうとしたところで、今の今まで寝ていたことを思い出した。肩と耳でスマホを支えながら服を探して、話を聞きながら着替える。

 アサギは『駅前の店』にいるらしかった。

 馬鹿か、と怒鳴れば、また呂律の回らぬ声が返ってくる。部屋を出た辺りでようやく、『センパイが連れていってくれたところ』と情報らしい情報が追加された。

 俺が連れていったことのある駅前の居酒屋。

 アサギの行動圏まで考慮すれば、十分に絞り込める。

「今から行くから、ちゃんと起きて待ってろよ! 聞いてんのか、おい……って、くそ」

 通話が切れていた。

 一方的にかけてきて、一方的に喚いて、あと吐いて、挙げ句に一方的に切るか。

 とはいえ、切れてしまった電話口に怒鳴っても虚しいだけだ。今は冷静に、建設的に、大人として行動しよう。まずは終電までにどれだけの余裕があるのか調べるところから。

 ……と、検索しようとして初めて気付いた。

 スマホの充電が切れていたのだ。


 飛び乗ったのは終電だったが、上りだったお陰か車内は空いていた。

 電車に揺られる間は暇だ。暇すぎて、嫌ことにばかり目が行く。一番は息切れだった。ニート歴たった半年なのに、もう体力が落ちている。足も悲鳴を上げていた。

 なんで俺は、こんな必死になっているのか。

 分からなかった。笑えてきた。でも笑わない。終電に飛び乗って一人で笑っているニートとか、うっかり通報でもされたら言い訳ができない。世間はニートに厳しいという。職質はまだされたことがないが、もしされたらなんと受け答えすればいいんだろう。

 いやまぁ、それは今考えることじゃないか。

 どっと疲れが溢れ出た。

 何もかもアサギがいけない。大学でも上手いこと立ち回っていたのがアサギという男だ。しかも女にモテる顔立ちをしている。誕生日なら尚更周りが放っておかない。

 なのに、どうして一人で飲んでるんだ。俺に電話なんかかけてきて。

 ていうか、そもそも、そんなに電話をかける前にメッセージを送れよ。メールでもショートメッセージでもいい。とにかく、繋がらない電話を延々かけ続ける意味が分からない。

 いや、分かってはいる。

 たとえメッセージが送られてきても、俺は読まなかっただろう。既読無視どころかただの無視だ。そうやって大半の奴からブロックされてきた。

 だが、アサギもアサギだ。

 なんでそんな奴に飽きもせず絡んでくるのか。

 これで居酒屋に行ったら馴染みの面子が揃ってて、夜の十一時に呼び出されてのこのこ走ってきた俺をみんなで笑う。――そんな展開が待っていた方がよほど理解できるくらいだ。

 だが、そうじゃない。

 知っている。

 演技でもあそこまではしないだろうし、そもそも……いや、どうでもいい。

 電車が駅に着いた。そろそろ十二時になる。営業時間は覚えていないが、看板を下ろす頃合いだ。ちょうど終電を過ぎて閑散としてきた駅を走り抜け、夜の街をぐるりと見回す。

 あった。

 雰囲気が良いとか、安いとか、美味いとか、大学や家から近いとか。そんなことは一切ない、まるで特徴のないチェーンの居酒屋。看板を見れば、ラストオーダーを過ぎていた。

 一瞬躊躇ったが、選択肢がない。店に入る。

「あ、……あの、お客様! 申し訳ありませんが、ラストオーダーは――」

「いや、客じゃないです。後輩を迎えに来ました。酔っ払ってる学生はいませんか」

 駆け寄ってきた店員の言葉を遮り、店内を見回す。

 店員も店員で心当たりがあったのか、すぐに店の奥を見やった。視線を追って、見つける。

 まぁ、見つからない方がおかしいか。

 ラストオーダーも過ぎた店内はがらんとしている。こういう居酒屋の必然として、客の大半はおっさんだ。おっさんじゃなければ、おっさんに連れてこられた若い兄ちゃん。

 そんな中に一人、ぽつんと座って頭をフラフラさせている男がいた。

 遠目には女にも見えるその男こそ、アサギだ。

 アサギが不意に顔を上げ、俺を見つける。

「あ、センパイ!」

 電話口にも聞いていた声だが、直接聞くと余計に頭が混乱する。本当に変声期を過ぎた男のものか分からない。いや一緒に銭湯に行ったこともあるから、男なのは疑う余地もないが。

 ともかく、散々店に迷惑をかけたであろう酔っ払いの引き取りが必要だ。

 店員も俺とアサギの顔を交互に見やって、営業スマイルを投げてくる。俺は客じゃないが、営業を終えても居座りそうな厄介者を連れて帰るのだ。スマイルもマニュアルのうちだろう。

 まだ空になっていないグラスとジョッキを何個も挟んで、アサギの向かい側に腰を下ろす。

「ちぇっ」

「随分な対応だな」

 心配して損した。

 アサギは、まぁ見ての通り、中性的な顔をしている。真っ赤な顔で正体をなくしたように睨んでくる姿は、ひどく酔っ払った女と見分けが付かないほどだ。声も顔も、勿論そうと知っていれば男のものなのだが、女だと思って遠巻きに見ていれば女に見えなくもない。

 しかもたちの悪いことに、アサギは髪を伸ばしていた。

 伸ばしていると言っても首筋が隠れるくらいなのだが、髪型まで中性的なせいか、女と勘違いされることも間々ある。大抵は鼻の下を伸ばしたせいで目が馬鹿になった男だ。

 だからまぁ、ある程度は心配していたのだが。

「こっち座ったらどうなんれすか、センパぁイ」

「気持ち悪い喋り方するな。あと飲まねえよ、絶対飲まねえからな」

 アサギが突き出してくるのは、中身が半分ほどに減って、泡も消え温くなったビールジョッキだ。左手でジョッキを突き出し、右手でサワーか何かのグラスを呷る様は見るに堪えなかった。

 しかし現状、俺に注文はできない。

 悩みに悩んで、残っているうちは帰る気がないな、と判断。ジョッキを受け取る。ヒヒッ、と気味の悪い声で笑うアサギに見られながら、一息に飲み干した。不味い。

「なんれもっと早く来てくれなかったんれす?」

「寝てた」

「嘘れすねぇ」

 今度はニヤニヤと笑うアサギ。だが目の奥が笑っていない。本当に酔っているのかも怪しく思えてきた。

「れも、寝れらってこぉは、僕のたんろうひ」

「あぁ、忘れてたよ。悪かったな。だから黙れ。……って、おい、もう飲むなよ! くそっ」

 こいつはどこまで酔う気なんだ。

 手にしていたグラスを奪って、また飲み干す。不味い。炭酸が抜け、生温くなったサワーはただでさえ不味いのに、更に男の飲みかけだ。アサギは女みたいだが、あくまで『みたい』でしかない。

「ほら、もういいだろ。忘れてたのは謝るから、さっさと帰るぞ。もう閉店の時間だ」

 店員や他の客の視線が痛い。

 どうせスマホ片手に延々酒を飲み、呂律の回らない口で電話しているところも見られていたのだろう。酔っ払いの集う居酒屋といえど珍しく、さぞ目立ったに違いない。

 ……いや、気のせいか。

 大学を卒業してからこっち、どうにも人の視線に敏感になっている。

 ともあれ、もう酒はないし注文もできない。ここに居座る理由もなくなったわけだ。

「うぅ……」

 吐き気でも堪えているのか呻き声を上げるアサギは無視して、伝票を取る。

 腰を上げ、レジに向かう途中でUターン。覚束ない足で立とうとしていたアサギに伝票を渡し、肩を貸す。ニヒヒと気持ち悪い笑い声が耳元で聞こえた気がするが、これも無視。

 しかし、どれほど飲めばこんな風に酔うのか。

 確かアサギは、強いというほどではないにしても弱くはなかったはずだ。少なくとも同じペースで飲めば、先に潰れるのは俺だった。悪酔いするたちでもない。

 まぁ一人酒に慣れているわけでもないし、飲むペースを間違えたのだろう。

 閉店間際にもかかわらず飲んだくれているおっさんになんやかんやと言われながらレジに辿り着き、アサギの手から奪った店員に伝票を渡す。

 しばらくして、謎が解けた。

 どうしたら一人でこんなに飲めるんだよ。言葉にならない声を上げながらフラフラしているアサギに支払いなどできようはずもなく、俺が立て替える羽目になった。

 一気に財布が軽くなる。何連ガチャ引けるんだ、これ。俺が一ヶ月コツコツと貯めてきた石くらいは余裕で買える。

 あざっさー、というアサギ(大学の後輩)でもしないような挨拶を背に店を出る。

 涼しいを通り越して若干寒い夜風が、今は心地良かった。

 来た時と同じ道を戻ろうとして、終電を過ぎていたことを思い出す。道理で静かなわけだ。飲み屋街なら違うんだろうけど、一日の役目を終えた駅の周辺は眠りに就こうとしている。

 脳裏にタクシーという選択肢がよぎるも、首を振るしかなかった。金がない。

 帰りは徒歩だ。歩いて帰れない距離ではない。

 呻くようにブツブツと何事か言っているアサギを半ば引きずるようにして、夜の街を歩く。

「んぱぁい」

「なんだよ」

「呼んららけれすぅ」

「お前はなんだよ、彼女か? 俺の彼女か何かか?」

「みひひぃ」

 延々と続く無意味な、というか会話にもなっていないような会話を録音してやりたい。しないけど。ていうかスマホの充電が切れてるからできないけど。

 でも、どうにかしないことには腹の虫が収まらなかった。

 なんでこんなことになってるんだ。

 電話を無視して昼寝したからか? そうだと言えばそうだが、違うと言えば違う。

 そもそも、アサギはなんでこんなことをした。二十一歳の誕生日だぞ。忘れて寝ていた俺なんかより、大学の連中と飲みに行けばよかった。むしろ飲みに行っていないのが不思議だ。

 去年の今日、アサギの二十歳の誕生日にセッティングした飲み会は大盛況だった。アサギの誕生日と聞いて盛り上がる女がいたからだ。なんで今年は取り巻きがいない。

「怒ってますぅ?」

「怒ってるっていうか、ムカついてる」

「おんなじれすねぇ」

「そうかもな。いや、つうか、いい加減自分の足で歩いてくれないか?」

 確信した。

 アサギは見た目ほど酔ってはいない。

 いや、確かに酔ってはいるし、なんなら経験にないくらい悪酔いしているんだろうが、だとしても正体をなくしているわけじゃないだろう。酔った振りをして、甘えているだけだ。

 ニートにたかるなよ、と言いかけて、すんでのところで思い留まる。

 馬鹿か、俺は。

 誰も連絡しなくなった俺なんかに、アサギはしつこく電話してくる。気を遣っているつもりなのか、他の意図があるのか、単に面白がっているだけなのか。

 どうでもいい。

 ただアサギ相手に邪推することだけは、どうしても腹の底が気持ち悪かった。

 邪念を振り払うために、頭を振る。

 と、意識を逸らした瞬間、不意に足がもつれた。

 まずい。

 ……なんて思った時にはもうどうしようもなくて、ただアサギの身を引くことしかできなかった。

 道端の暗がりに背中から転ぶ。

 それでも後頭部は守った。背中は痛いが、代わりにアサギはどこも強打しなかっただろう。

「おい、だいじょ――」

 開きかけた口が、その時、塞がれた。

 一瞬、頭が真っ白になる。

 何が起きた。いや、何が起きている。口の中にそれが入ってきた。どこか苦くて、ほんのり甘くて、何より酒臭い、それ。柔らかかった。喉の奥から吐き気が押し寄せる。

 これは事故だ。

 気付いた次の瞬間には起き上がろうとしたが、無理だった。半年のニート生活はそこまで俺の身体を鈍らせたか、あるいはアサギが思った以上に重かったのか。

 だが、これは事故だ。

 アサギを押し退けようとして、その両腕が俺の肩を押さえていることに今更気付く。

 俺の口の中をそれが……アサギの舌が這っていた。足の間に差し込まれる足はどうにか拒むが、一度侵入された口の方はどうしようもない。されるがままの時間が過ぎる。

 いっそ噛んでやろうか。

 思うだけで、しなかった。

 アサギが笑った気がする。いや、気がする、じゃない。目の前で笑っていた。ようやく口を離してくれたアサギが、俺の上に乗ったままニヤと微笑する。息が止まった。

 今度こそ押し退け、無理やりアサギの下から抜け出す。

「なんの――」

 つもりだ、と怒鳴ろうとして、ふと気が付く。俺の胸で、アサギが寝息を立てていた。

 甘さと苦さの残る口が、夜の冷たい空気を喜んで吸い込む。

「なんなんだよ、くそ……」

 体力が限界を迎えたのだろう。

 寝てしまったアサギは何も答えてくれなかった。

 辺りを見回す。チカチカと安定しない街灯が夜道を照らしていた。少し離れたところを人や車が行き交うが、俺たちに気を留めている者は誰一人としていない。

 ため息が漏れた。

 ――せめて夢であってくれたなら。

 そう思わずにはいられない。

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