第79話
「オッケー。じゃあ留守番よろしくねー」
注文をとった紫水はそう言い残してシーザーとともに階段を降りて買い出しに出かけた。カウンター奥に厨房の見える一階は既に行列が出来ている。注文して支払いをして、メニューが出来上がって運んでくるのに時間はかなりありそうだ。
それなら早速と諒花の方から切り出していく。
「さて、さっきの話の続きするか?」
「うん、聞かせて。諒花はあのレストランに足を運んだのは初めてじゃなかったんでしょう?」
「ああ────」
ここを訪れる前は記憶の遥か彼方にずっと眠っていた記憶。それがあのエレベーターに乗って上に向かっている時に急にひとりでに勝手に動き出したのだ。そうして頭の中にある一つの場面が蘇り、バラバラに映し出されたシーンの一つ一つが繋ぎ合わさり、やがて一つのフィルムとなった。
冷え込む空気。人でごった返すオランジェリータワーの真下の広場に立つのは幼き日の自分。それは今から七年前。小学一年生の頃だ。
その隣で白く暖かい手で、自分の小さな手を繋いでくれているのは叔母──いや義母である初月花予。暖かいコートを着込み、この頃から長い黒髪にトレードマークの桃色のふちのメガネも健在。
一方、その正面、人の行き交う奥からこちらに歩いてくる二人の人影。大人と子供だ。一人は件の笹城湖都美。そしてもう一人がその妹の歩美。
始まりは同じクラスで友達になったことだ。とても優しくて、一緒に帰ったり遊んだりする仲だった。そうしているうちに歩美が家に遊びに来たり、逆にこっちが歩美の家に遊びに行くといった交流が次第に出来始めた。
歩美が家に遊びに来た時は花予がお菓子を出してくれて、外が雨の日は三人でコントローラーを握って日本列島を熾烈に奪い合うゲームをしたり、夏休みは三人で映画館に行ったり。
そしていつも最後、歩美を迎えに来るのは湖都美であった。仕事で忙しいが、それでもいつも歩美を迎えに来てくれる。そんな湖都美がある日、帰り際に四人で食事をしたいと持ちかけてきたのだ。
そうして実現したのがこのディナー。この日は予てより四人で約束をしていたのだ。都心にそびえ立つオレンジの巨塔、オランジェリータワーの上にあるレストランで。
この時、印象的な言葉があった。湖都美はこう言ったのだ。──歩美の母親代わりだと。
最初は湖都美が歩美の母親と思っていたが、それを口にしたら笹城姉妹から揃って笑われて恥をかいたのも、今となっては懐かしい思い出のひとつだ。
だが、素性が明らかになるその言葉は、もの凄く刺さる一言だった。本当の母親は歩美を産んだ後に他界したという。花予が自分を守ってくれるように歩美もまた、湖都美が守ってくれる。
そういうことか。と、それまで湖都美が歩美の母親と思っていた自分が一気に崩れた。
白いテーブルに置かれていく豪華な料理。普段のリビングで食べてるものとは明らかに違うもの。お酒の代わりにグラスに注がれるのは果汁たっぷりのオレンジジュース。
歩美、湖都美、花予と学校の話や楽しいゲームや映画の話まで、楽しいと思える話をひたすらしながらその夜を過ごした。
笹城姉妹も交えたそんな楽しい日はいつまでも続くとこの時は思っていた、が。
小学二年を最後に歩美は大阪へと身を移すことになった。理由は単純。湖都美の仕事の都合だ。
それからは湖都美と会うことはなく、たまに学校から帰ってきた時、花予と二人きりになった時に電話で話したと教えてくれるぐらいだ。とても忙しいらしく、小五になって帰ってきた歩美とともに東京へ帰って来ることもなかった────
家の都合で引っ越しを余儀なくされた歩美の引越し先は他にも候補はあったという。が、最終的に歩美の希望に沿って東京になったと花予から聞いたことがある。
事情があったとはいえ、湖都美の手を離れてもやっていけるだけの何かがあったに違いない。
話を一通り聞いた零はそっとこう言った。
「……諒花と歩美、二人は私よりも付き合い長いのは勿論だけど、そんな過去があったなんて……」
零が転校してきたのは小四の最初であり、この頃は当然いない。その頃、零はどこで何をしていたのか。それは諒花も知らない。
零はとても圧倒されている様子だった。二人の裏側にそんな事実があったことに。
「湖都美さんについてはハナに二人きりの時しか話すなとも言われてたんだ。アタシもなんか引っ掛かって、なんでかって訊いたら家族と問題のあるお前を傷つけたくないって言われて──納得して、今まで黙ってたんだ。悪かったな」
頭を下げて誠心誠意、謝罪をこめて伝える。傷つけたくないのは歩美も同じで、とにかく花予と二人きりの時にしか湖都美の話題を出すなと禁じられた。改めて申し訳なさが心の底から滲み出てくる。
それまで当たり前に隠してきた確固たる姿勢が、突如として揺らいだ。
湖都美が死んだ。歩美が女騎士となって動いている。そして歩美の口から出たのは自分が今まで隠し通してきた存在そのもの。知らない所で分からない何かが起こっている現実。
零はこちらの右肩にそっと触れて、首を横に振った。反射的にその優しい笑みを浮かべる顔を見た。
「諒花は悪くない。お陰で一つ分かった。花予さんは何か隠してる。諒花も、私も知らない秘密を」
「ああ、そうだな」
そう、湖都美についてもはや隠す意味はない。零の言葉に諒花は強く頷いた。
本来、友達の間柄ならば、ただ名前は出さずにさりげなく姉がいるということだけは教えても特に問題はないのではないだろうか。
にも関わらずだ。それはここまで隠され、歩美はお金持ちの実家から離れて暮らしてる一人っ子であると零に間違った認識をさせてきた。
まるで姉の存在自体を零だけでなく、外に知られることがマズイと言わんばかりに。同時に今まで自分が正しいと思い、守ってきたことに急に違和感が湧き立つ。
傷つけたくないと、零への気遣いに見せかけたそれも都合の良い方便。今回の事件は湖都美が深く関係している。今こそ、それを明らかにする時だろう。




