第75話
「青山を固めたのはナイス采配だ。どこから出るか読めねえからな──それじゃ用が済んだからおれは行くぜ。グッドラック……」
餞別の言葉を残し、レーツァンはソファーから腰をそっと上げ、立ち去ろうとした時。
「お待ちなさい」
背後から落ち着いたやや威圧を含んだ声をかけられるとレーツァンの足は止まる。不気味に赤く膨れ上がった右の眼が翡翠のいる方向を睨みつけた。
「なんだ? 今、関西の連中に邪魔されるわけにはいかねェんだ」
「一つ訊いてみたかったことがあるんですの。同盟を締結した時、女騎士最有力候補である初月諒花たちの情報と一緒にくれたあの資料──本当にあなた方が作ったものなんですの?」
翡翠は首を傾げ見つめた。
「なんだあの紙のことか。あれはおれ達じゃねえよ。ちょっとしたコネだ」
そう手短に言って身を翻して去っていく彼。そのコネはどこなのか。この男にどれだけ追及しようとそれは話そうとしないだろう。
帝王たる者、コネを沢山持っているのは必然で、まさに魔法の言葉。今はその背中を見つめ、じっと見送る他ない。
あの資料――そう、初月諒花に関する情報が所狭しと書かれたあの紙束だ。彼女の履歴書と言うべきか。
実の家族を事故で失い、現在は叔母の初月花予と二人暮らしという家族構成、人間関係だけでなく経歴、幼き頃より稀異人であるがために潜在する脅威的な戦闘力といった情報がきめ細かくまとめられている。
マンティスに渡した、初月花予に関する情報もここから引用させてもらった。相手の弱みを握った心理攻撃にはこれほど最適なものはない。住所や連絡先は書かれていそうで書かれていないものの、諒花の顔だけでなく、花予の顔についても何かしらの学校行事の写真の切り抜きを流用する形で記載されている。
それにしても本当の親子に見える顔である。黒髪、紫水晶の如き双眸。一族で似るものなのか。
生活模様という外からはとても知りえないプライベートな情報もある。例えばよく食事をしたお店、よく行ったカラオケ店、修学旅行や社会科見学などの学校行事で行った先やそこでの出来事。もはや彼女の生活記録ともいうべきものがこの紙束にはあった。
特にきめ細かくまとめられているのは、諒花が十歳になってからの項目。情報量は多い分、今はどうでもいい情報も多い。逆にそれ以前の九歳からその前については、その年にあった出来事を要点だけを絞ったような短い書き方をされているのだから余計に顕著だ。
こんなものを作れるほどの情報源が彼にはあるのか、正直疑わしい。今や帝王と呼ばれる彼の下で情報に秀でた者が仕事すれば相応の利益を得られる者は多いだろう。だが、それにしても途中から細かく濃い内容なのが気になる。
まるで彼女からも信頼の置かれてるほどの近しい人間が書いたような。
しかし、そうなると九歳からその前の情報量が極端に少ないのはなぜなのか。そこにあったのは彼女の志す、夢の始まりを意味する経緯。それが短く記されていた。
彼女はなぜ、空手でオリンピックに出場し、金メダルをとりたいと思うようになったのか。翡翠の頭の中には既にある。
実に書き手の気になる胡散臭い資料だ。だがこれのお陰で彼女の秘密を知ることが出来たのも事実。初めはあの女騎士に石動を病院送りにされ、怒り心頭になった。
だが、その後あの帝王に同盟を持ちかけられた時、チャンスと言わんばかりに応じたら、結果的にこんなでかすぎる副産物がくるとは夢にも思わなかった。最初はこの界隈で強大な存在たる彼との関係維持も込めて応じただけなのに。
全く、思わぬものを手にいれてしまったと興奮が止まらない。そしてその秘密を知った途端、ある一つの可能性が浮かんだ。彼女は、あの子と同じかもしれないと。
初月諒花。彼女が女騎士なのか否か。まずはそれを真に確かめなければ始まらない。
既に資料から答えは予感しているが、そう思ったものがはたして本物なのか。あの紙束にある情報は偽りではないのか。女騎士は彼女か黒條零だと言う帝王の言葉は嘘なのか。
この目で見極めなければならない。昨夜の500人の刺客にやられていたとするならば、所詮はその程度で期待外れということ。だが彼女はそれを見事に切り抜けた。
一方、彼女の相方である黒條零。こちらは諒花と対照的に障害となる。経歴が一切不明なのである。
紙束は諒花のレポートであって零の記載は殆ど無い。せいぜい花予と良好な関係を築いていることを推測させる程度。
あの帝王曰く、零は常に諒花に張り付く盾であり、諒花に手を出そうものなら避けては通れない。二刀という得物から女騎士の可能性も極めて高い。諒花が違うなら彼女で間違いないだろうという具合に。
この屋敷へ来たら、二人とも盛大に歓迎をしてやろう。最も、用があるのは人狼少女だけ。翡翠は強く意気込む。ここならば、引き離すのは造作もない。
──すべては妹の、私たち姉妹のため。あの子──妹の幸せは姉の夢でもあるのだから。




