青山の女王 前編
渋谷区の東、東京の真ん中に位置する港区の西の端っこ。ビルと街路樹が彩り、青山の都市に広がる、緑生い茂る空間に建つ家。
秋の夜風に木々が、花々が揺れ、そこにそびえ立つのは家というよりも古き時代から今に至るまで立派に残されてきた一つの洋館。
二階建てながら、青山の広大な敷地の森の中央に建つそれはこの敷地の大半を占めていた。街の方はサボテン針のようにコンクリートの柱が建ち並ぶ中、森が広がるこの場所だけは自然という聖域に包まれた特別な庭園のように存在する。洋館の裏、奥にはこの街の一種のシンボルたる、そっと時を刻む時計塔があるのもこの場所の特別感を際立たせる。
二階に位置する、夜風吹くバルコニーのある一室。赤い絨毯が敷かれ、天井のシャンデリアが部屋を照らし、アンティークな丸いミニテーブルと椅子に腰掛けて、彼女は一人、上品に紅茶を片手に一冊の本をめくっていた。
エメラルドに輝く丸い石のアクセサリーで左の横髪を留め、名前通りの翡翠色の双眸、のんびりとした気品ある顔つき。濃緑の長袖の服にエメラルドのロングスカートから伸びる水色ヒールを履いた足。上品かつ上から目線に組んで鎮座する、この地の女王と呼ばれる人。
コンコン。
廊下の方のドアが軽くノックされる音がした。
「入りなさい」
彼女が視線を向けた先のドアに向けてそう言うとそっとドアが開かれた。
「翡翠さぁーん、マンティス勝、ただいま戻りました……」
「クイーン……同じくシンドローム、アイムバック!」
「あら」
ドアから猫背で全身みすぼらしい姿で入ってきたのは血で服が汚れたマンティスと、サングラスにヒビが入り、腹部には交差した赤い斬撃の傷を抱えるシンドローム。
そのだらしない姿をふんぞり返り、眼下に見つめる。そう、彼女こそが滝沢翡翠。この青山の裏社会の頂点に君臨する女王であり、この森に囲まれた洋館を所有するちょっとした有名人でもある。
「お二人揃って、随分と──みっともない姿ですわね。で、私の大切な石動ちゃんをあんなにした初月諒花と黒條零は仕留めてきたの? 死体はどこ?」
「そ、それが……」
穏やかだが威圧感のある声音。マンティスは重苦しい心境を抱えたまま、意を決して発する。
「シンド頼む!! 報告は任せた!! 俺は翡翠さんにこんな無様な姿を見せられねえ!」
「お、おい! ク、クイーン、おれとマサルはシルバーガールに二人で返り討ちに……」
せめて報告はしなければいけないと身体を引きずってでも来た二人。にも関わらず土壇場で、責任転嫁するようにマンティスは相方にたまらず泣きついた。目の前にして言うのが怖い。言えば息の根止められる。その想像が加速して、止まらなくて。
翡翠の顔が崩さない笑みを浮かべながらも目元が昏くなっていく。
「……そ。お二人揃ってやられちゃったわけね。今の渋谷の状況は? まさか裸足でノコノコと逃げ出して捜索打ち切ったんじゃ──」
「ち、ちちち違います! クイーンから預かった兵隊は、現在も渋谷にてダッシュで捜索中。おれらは兵隊にレスキューされ、先に車で引き上げてきましたー。一時期は街中でウルフガールの目撃もあったんですが見失ったようですねえ」
慌てて早口で報告を行うシンドローム。
「現地には引き続き捜索を続けるように言っておきなさい」
すると翡翠はそっと立ち上がった。読んでいた本をミニテーブルに置き、シンドロームに下がるように手のひらを前に出して振り合図した。
「勝さん、よくぞ戻ってくれました……!」
「いいいっ!?」
翡翠はマンティスに近づくと跪く、女から見れば巨体であり、一見持ち上げることも出来なさそうなその差を嘲笑うように、身体の胸ぐらをその華奢な腕で掴んで立たせる。そうして両手を広げて小さな身体でしがみつく。
自分の顔をマンティスの胸部に密着させ、今にも眠ってしまいそうな口調で語りかける。
「ひ、翡翠さん……! こんな失態をした俺のことを……!」
「勝さん。あなた達、ハーモニーインセクターズは滝沢家最強の親衛隊ですわ。青山にはつまらない男どもばかり。でもあなたは違う。同じ異人として私のことを真剣に愛してくれるから……」
「じゃあこの戦いが終わったら、俺と今度こそ結婚を……次こそはあの女どもを仕留めて──」
「ふふっ、そうね──勝さん、あなたは……」
その声は本人だけに聞こえるようにそっと囁かれる。主の身体が密着してくる。その天使の微笑みも相まってマンティスをたまらない甘い空気に包み込んでいく。
そこに奥の入口のドアが開かれた。
「翡翠姉ー、ちょっと話あるんだけどいいかな?」
現れたのは紫水だった。
「ヘイ、シスター。クイーン、今、マサルと純情タイムよ」
「また始まったか。石動さんいないから、マンティスは好きなだけ翡翠姉とラブラブ出来るよね」
両手を腰に当て、呆れた困り顔でその様子を見つめる紫水。
「チッチッ、あのバトラーがいなくてもそうはいかねーよ」
シンドロームは指を立てながら言った。普段は滝沢家の当主たる翡翠の世話役であり、常に傍らにいるガードの固い執事はいない。
「グほォぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
突如、断末魔が響く。無情の痛烈なビンタ──もはやビンタと言うのは生ぬるい殴打──によって豪快に絨毯の上に叩きつけられるマンティス。
「ホラな」
と、紫水にふるシンドロームの声も追い打ちとなる。
「ひ、翡翠さん……! そんなァ……!」
絨毯の上に膝をつき、右手を伸ばすも顔面に容赦ない蹴りが炸裂、ドアの横の壁にぶつかるまで吹っ飛ばされた。
「対象も殺せない、死体を引っ張って来いという任務も遂行出来ない……私が許したと勘違いした挙句、隙あらば求婚! ダーメ、ダメ、ダメダメ! おまけに相方も身代わりに使う。ごまかされて、私がスルーすると思いまして? 正直になりなさい」
「グッ……(翡翠さんやっぱりステキだ……)」
その上からの言葉がまるで矢となって降り注ぎ、心に突き刺さるも、マンティスは痛みと同時にもっとやってと言わんばかりの高揚感も溢れていた。
「やれやれ……マサル……」
「いつものパターンだね……翡翠姉、厳しいよ……」
この状態になるといつも完全に外野に追いやられる二人はいつものことだと苦笑する。ラブコールしても実らない冴えない男、マンティス勝。対する好意を受けながらもあしらう女王。この関係は今に始まったわけではない。