第41話
上官との対話後、息抜きに外の空気を吸いたくて、黒條零はベランダに出た。既に日は沈み、渋谷はすっかり夜になっていた。
このマンションは監視対象である初月諒花の家から歩いて約十分ほどの距離。歩美の家はここから歩いて十五分ほど。諒花、歩美の家と同じく駅から離れた西の住宅街にあるが、四階建ての二階に位置するこのワンルームは非常にこじんまりしている。
マンションの正面から住宅街の通りを一望出来るここは、監視活動用で何もないこの家にいる間の数少ない安らげる場所である。歩いて左に真っ直ぐ行った先の、ビルに挟まれた路地を通ればそこは騒がしい都会の大通り。そこから吹いてくる都会の風が気持ちいいのだ。
目を閉じて、流れる秋の夜風を浴びる──何やら声がした。目を開けてその方向を見下ろした。
「お嬢からの情報によれば、奴らは必ずこの渋谷駅周辺のどこかにいる。近くに住んでいるはずだ。手分けして捜索しろ!」
ちょうど下のマンション前の路上の青白く光る街灯の下に大勢の黒スーツの男が集まっていた。その数はおよそ十五人ぐらい。全員がサングラスをしていたりボタンを外したワイシャツから胸元を出していたりと整っていない。獲物を狙うハイエナのようにその集団は各所に散っていった。静かなこの通りゆえにその声はよく聞こえた。
この距離からは街灯に反射して黄金に輝く丸いバッジを確認出来るだけで精一杯だ。どこの組のヤクザかはそれを見れば一目瞭然なのだが分からなかった。彼らの言うお嬢とは一体、何者だろうか。
──寒い。
冷たい風が吹いた。クロゼットにある茶色いコートに袖を通し、支度をして部屋を出た。念のため、ヤクザが何者か調べる必要がある。諒花を守るために。
マンションを出ると先ほど散らばっていったヤクザのうち、右の方向──住宅街の奥──に向かったグループの背中が街灯に照らされ、遠くにあるそれらは黒粒となって見えた。
あちらの方角には諒花の家がある。この周辺に暴力団事務所はない。彼らはどこから来たのか、何者なのか。尾行して探らなければならない。
「ヘイ! そこのシルバーガール! 止まれよぉ?」
背後から飛んできた陽気な男の声。踏み出した足を止めて振り向いた。
荒々しく独特なリズムに乗ったイントネーションの声。英語を混ぜたその口調も風貌も先ほどのヤクザの群れとは全く異なる。
「……なに?」
その姿を見て、目を細めた。
「ヘイ! ユーのことは既に調べ済み! 名前は黒條零! ならば放ってはおけない! お嬢のために! ユーを仕留めちゃうぜぇ!」
ラップ調のリズムをとりながら語るその男。暗闇の中で街灯がちょうどスポットライトのように彼を照らしていた。
稲妻の柄が入った黒いジャケットに黄色く染まったチクチクした髪、ヘッドホンに丸いサングラス、指先の出たグローブの両手の親指を立て、上げ下げして一人リズムに乗っている。
「大勢で押しかけて、この街に何の用? シンドローム!」
XIEDのデータベースで見たことのある異人だ。先ほどのハイエナの群れを束ねているのもこの男に違いない。同時にあのハイエナの群れの正体もすぐに分かった。
「イエス! おれはシンドローム! 青山最凶のMC! ここでユーを見つけたのはラキラッキー! おれ一人で充分! おれも異人、ユーも異人、でもユーに負ける気しないぜぇ!」
青山の裏社会を支配する滝沢家。シンドロームはその配下に加わってからは幹部として幅を利かせているようだが、こうして出くわすのは初めてだった。
「それぐらいにしてくれる? 聞いててイライラする」
「オーウ! おれのハーモニー、そんなにイヤ?」
水を差された気分か、右手を顔に当てて大袈裟にショボンと落ち込んだそぶりをし、最後に両手人差し指をこちらに向けるシンドローム。陽気な即興ラップを歌うのは噂通りだ。あのヘッドホンで常に音楽をかけ、リズムをとっているのだ。
「話を聞くつもりはないようね」
左手を横に振るい、黒剣が瞬時に白い光の粒とともにいつもの黒剣を──と、その手を止めた。ここは家の前。しかもマンション以外にも辺りには雑居ビルなどが建ち並ぶ住宅街。
一見、明らかにふざけたラッパーとしか思えないこの男。とはいえ、ここで戦うのは状況的にも相手が相手である意味でもあまりに危険過ぎる。なぜならこの男のチカラは──
「ウェウェイト! ユー、逃げるつもりかコラぁ!」
ラップ調の声を背中に受けながら走る。考えてはいられない。とにかく人気のない場所へ。自宅のある場所から住宅街の奥地へと駆け出した。夜の住宅街は各所にある街灯によって視界はある程度保たれている。走っているうち、街の向こうにある一際高い高層ビルの影が目に付いた。記憶が正しければ、確かあの近くには人気のない空き地があったはずだ。
「ヘイ! ボコすぞコラ! 逃がさねえぜコラ!」
背後を見るとシンドロームが追ってきている。そしてやはりラップ調は変わらない。その声を振り切るようにして走り続けた。
すると確かにそこには記憶通り人気のない空間が広がっていた。通りから右折して狭い路地を通り、そこから見える坂道を下った先にあるのは高層ビルの最底辺に広がる空き地だ。
正面には重くそびえ立っているビルの付け根にあたるコンクリートの壁。明かりは殆どなく、夜も相まって更に深い闇に覆われている。
自販機と金網状のゴミ箱が置いてあり、コンクリートの壁際にはいくつもの吸殻が落ちている。隠れた休憩所だ。
ここならば戦える。しかし問題はここからだ。シンドロームがいるということは、恐らく近くにもう一人もいることが脳裏に過った。片方を潰せば心配はなくなるのだが。
──もう一人が来るまでに早く片付けなければ……!




