第4話
四日前。渋谷駅近くの繁華街を歩いていた所、初月諒花はとても見過ごせない現場に居合わせた。
「おい、このガキの母親ならばテメエがクリーニング代を出せ!! 弁償しろよ!!」
「お願いです。申し訳ございません。許して下さい!」
小さな男の子を連れた母親が大の男に怒鳴られている。母親は平謝りするも、容赦なく怒りの感情をぶつける男。太い腕には禍々しい象徴であるハエのタトゥーがあり、その広げられた両方の汚い羽根のデザインがハナにつく。
様子を見るとどうやら男の子の飲んでいた缶に入ったオレンジジュースが歩いていた男の膝に当たり、中身が男のジーパンの膝から下をびしょ濡れにしてしまったようである。
甘い蜜柑の香りが漂っているのがよく分かる男の右膝。
「うるせえ! ガキの責任は親がとるものなんだよ。出さないっていうのであれば、俺らの大いなる神の裁きを食らわせてやる! 死ねや!」
懐から取り出された、銀色に輝く鋭利な刃物。それを見た辺りがどよめく中、頭を下げる母親を貫こうと、謝る頭に振り下ろされる──
とっさに間に入り、男のナイフを握った右手首を抑えて食い止めた。
「……な!」
「やめろよ。何が神の裁きだ? みっともないぜ」
「アァ? なんだよ! お前には関係ないだろ!?」
髭がチクチク生えた頬に痛烈な右ストレートをお見舞いすると一本の白い歯が天を高く舞った。
「警察だ! 何があったのか詳しく聞かせてくれないかな?」
誰かの通報か、駆けつけてきた警官に事情を説明すると、男は連行されていった。更に同じく居合わせた通行人や助かった母親の証言もあり、男は御用となる。
「本当にありがとうございました!」
「いやいや、アタシは当然のことをしただけっていうか……」
助けた母親から礼を言われると、諒花は照れ臭く指で顔を掻いた。助けに入らなければ、母親は間違いなく殺されていただろう。もしこの場にいなければどうなっていたか。
「ほら、お姉ちゃんにお礼言いなさい」
「ありがとう、おねえちゃん!」
ジュースをこぼした男の子は輝きの眼差しを向けてきた。
────や、やめろ凄く照れる……こんな子どもに言われちゃ……たまらないじゃないか……
「も、もうジュースなんかこぼしちゃダメだぞ! お姉ちゃんとの約束な!」
「はーい!」
不器用ながらも腰を下ろし、小指を伸ばしてあげる。
こういうのをなんと言ったか。指切りげんまんってやつだ。
「バイバイーおねえちゃん」
去っていく親子を見送り、振り返って再び歩を進める。
誰かを助けて小さい子どもから礼を言われる。誰もが理想とする正真正銘のヒーローのようなひと時だ。人前なのでチカラは行使していない。が、自分の腕っぷしで悪人を成敗し、それを子どもに称賛される漫画みたいなことなどそうそうない。
近頃この渋谷に現れて、悪事を働くあのハエども。子どもと母親にまで手を出す粗暴で自分勝手な奴ら。止めなければまた同じこと、いやそれ以上に大変なことになるかもしれない。誰かが懲らしめなければそれは止まらないのだろう。打倒したくなってきた。それで誰かが助かるなら。
「いやぁ、ブラボー。これぞヒーロー!」
するとそこに、拍手をしながら奇妙な出で立ちの男が近寄ってくる。
思わず怪訝な目で得体の知れないその謎の男を見た。花のように大きく開いた派手な赤い襟、紺色のコートに輝かない金髪、膨張し充血した緑色の右目に、白と黒で左右に分かれた仮面。どうやら外国人のようである。服装だけでなく、高身長で一際目立つ。
「良いものを見させてもらった。さっきの気合いが入った良いパンチだったぜ……フヒャヒャヒャ」
「あんた、何が言いたいんだ?」
きょとんとしていると、男は気安く右肩に手を置いた。そして横を素通りして正反対の方向に歩いていく。
「<部流是礼厨>というギャングが最近、この街を騒がせている。さっきお前が殴った奴もその構成員だ。闘争に生きがいを見出す、典型的な向こう見ずの鉄砲玉」
ベルゼなんとか。その名前はもう知っていた。ここ最近、目立つ忌々しいゴロツキども。あの悪趣味なハエのタトゥーはもはやトレードマークだ。
「お前ならば、奴らを懲らしめて、大人しくさせることが出来るかもしれないな」
ただ褒めてるだけとは思えない。その道化のような容姿も相まって少々不気味な雰囲気。
「ちょっと待て。勝手に背を向けながら続けるなよ。あんたの名前はなんだ?」
どうしても気になって、その遠ざかっていく大きな背中に向かって訊いた。
「人に名前を訊く時は、まず自分から名乗るのが礼儀じゃねェか? お嬢さん」
「……初月諒花」
名乗るのがどうも抵抗があったが仕方なく名乗ることにした。するとぐるりと男は身を翻し、
「そうだ、それでいい。おれは──いや、おれ様の名前はレーツァン」
その名前は、不思議と一度聞いたら忘れられないような響きがした。
不敵な笑みとともにそう名乗った男は黒く塗られた仮面に覆われた小さな左目でこちらを睨む。
「お前の活躍に期待しているぞ。初月諒花サン」
レーツァンと名乗る男は人混みの中に消えていった。どうして声をかけてきたのか。全く魂胆が読めない。ただの陽気な外国人……なのだろうか。この時はまだそう思っていた。
わざわざ言われなくても、あの連中のことはいずれそうするつもりだ。
自分達の都合のためなら、親子にも手をあげるハエどもを許してはおけない。この手で──右手の握り拳を見つめ、意を決した。