第145話
剣を失い、花予の名前を聞いて苦しむ歩美。
『歩美。姉ちゃんを生き返らせたいんだろ?』
『おれの言う通りにしろ。初月諒花と黒條零を斬れ!!』
『剣にパワーを集めろ!! そうすればこのパワーを媒体に、おれ様が姉ちゃんをリバイブさせてやろう』
また聞こえてきた、闇からの暗示の声。歩美にかけられたレーツァンの洗脳は依然として残っている。少しずつその洗脳が弱くなってきた今、花予の名前を聞くと閉ざされた歩美の本来の心が戻ってこようとして錯乱状態を引き起こすのかもしれない。苦しいかもしれないが、花予に関する思い出や記憶が歩美を元に戻す鍵だ。
「剣はもう無い……! どうすればいいの……? それに花予って誰? わたしにはもうどうすればいいか分からないよっ!」
「歩美……帰ろう、一緒に。花予さんのこと、もう一度私が教えてあげるよ」
反撃で剣を下ろしてくるかもしれない。そっと恐る恐る、語り掛けながら歩を進めて近づく。
「その名前を聞くと凄く気持ちが乱れるの……なんでなの!」
零はそっと歩美の背中に手を回し、包み込む。
「歩美。花予さんはね、湖都美さんに代わってあなたの事をずっと見てくれたお母さんのような人」
「はっ……!」
歩美の目が丸くなった。まるで初めて自分の出生について知ったかのような衝撃が彼女に迸る。本当ならば当たり前の事だ。だが今の忘れてしまった彼女にとっては生まれて初めて聞くようなもの。
「私と諒花、それから歩美。みんな花予さんの世話になってる。諒花は花予さんのお姉さんの子供。私はそんな諒花と仲良くさせてもらってるから。そして歩美、あなたのお姉さんは花予さんと友人関係だった」
「ああっ……!」
大きく開いた瞳から一滴の雫がそっと頬をなぞり落ちる。
「歩美。お姉さんの葬儀に一緒に行った人、覚えてる? それは花予さんだったんだよ。花予さんはずっとお姉さんの分もあなたのために傍にいてくれてた」
その場面を見たわけではない。花予から聞いた話を思い出しながらそっと少しずつ言葉を紡いでいく。
「葬儀……そうだ……」
やっと思い出し始めたようだ。洗脳で黒塗りだった部分の思い出が鮮明になってくる。
「歩美、私達は友達。さっきは否定していたけど、今ならば、意味分かるよね?」
「そうね……わたしは……」
すると歩美は零を急に押し飛ばした。
「何するの歩美!」
まだ洗脳が強く残っているのか? すると歩美はその場で立ち上がり、
「全部思い出した。今のわたしは本当のわたしじゃない……わたしは本当のわたしの願望を叶えるべくして生まれたもう一人のわたし」
「……洗脳で心を操作された事で出来上がったもう一つの歪な人格……」
一か月前に歩美が出会い──その時いた花予がたまたまいないタイミングを見計らったのだろう──力を貸してと上手く懐柔したレーツァンのかけた洗脳。それは姉を失い、悲しみを抱える歩美をある意味変えた。
洗脳で元々あった心に植え付けられ、上書きされ、汚され、形作られたのが今の歩美だ。本当の歩美ならば花予の事を忘れるはずがない。レーツァンを妄信していたのもそのためだ。
洗脳によって心を操作され、内に悲しみを抱える歩美を姉のために戦う戦士へと変えたそれは、本来の歩美とはまた違うもう一つ人格が形成された。レーツァンの命令には従うも、その時点でもう一つの魂、意志が出来たとも言える。
「花予って名前を聞いて苦しかったのは、わたしの意識が崩れる事でわたしの中にあるもう一人のわたしが外に出ようとしているから。あなたの思い出話もあって、わたしの知らなかった光が差してきた」
洗脳により、恐らくレーツァンも意図せず副産物的に生まれた人格が欠けている部分を突かれる事で突如として乱れた。そして、己の存在を保つことが不安定になってきた、という所か。
「わたしはお姉ちゃんを生き返らせたかった。けど、それはもう無理。目的が果たせなくなった」
自らの存在理由でもある目的。姉を最終的に生き返らせるという道はもう無い。森に消えた剣を見つけようにもこの緑炎に包まれた中を探しに行くのは無茶な話だ。
「わたしはもう、わたしでいられない……帰りたい……」
「今のあなたは湖都美さんを失った歩美から洗脳によって生まれた、もう一人の歩美。でも、帰る場所は元のあなた……?」
歩美はそっと頷いた。
「本当のわたしと、一つになろうと思う」
「三軒茶屋のビルの屋上。あの段階ではまだ、前日に生まれたのもあってわたしの存在はあやふやだった。だから一瞬意識が消えて、本当のわたしが出てきてしまった。あの後、また彼に会って調整を受けてからそれもなくなったけど」
三軒茶屋で飛び去った後、やはり全ての黒幕レーツァンは、洗脳した歩美に何か措置をしていたようだ。一瞬いつもの歩美に戻ってこちらにヒントを残してくれた後、更に急変して再び元に戻って、誰かに呼ばれたように飛び去って行くその姿に当てはめると、しっくりとくる。
「あの時は自分の中にもう一人違う何かがいる感じがした。けど、それが何なのかは分からなかった」
彼女からすれば、自分の知らない不気味な存在に他ならない。
「でも、あなたと戦って自覚した。わたしの中に全く別のもう一人の本当のわたしがいることを」
一ヶ月前。姉、湖都美を亡くした歩美はその時点で耐え難い悲しみに蝕まれた。その中で発生したのが姉を生き返らせるものならば生き返らせたい、また会いたいという寂しさ溢れる小さな願望。
そして密かに接触してきた裏社会の帝王レーツァンによって懐柔され肥大化していき、洗脳によって今の通常はあり得ない存在であるもう一人の笹城歩美が誕生した。冷たき鎧に身を纏い、信じるままに操り人形となって彼の意のままに敵を斬るだけの存在に。
その歩美は本来の歩美の中に潜んでいて、本来の歩美の心の奥底に静かに眠る願望という概念そのものが具現化したものだ。純粋な二重人格とはまた違い、普段は口には出さないけれども密かに眠っていたそれが彼の洗脳によって引き出された。
今まではそんな事などこちらは露知らず、日常の中に現れた歩美はいつもの元気な彼女そのもの。だが実際は裏側で最愛の姉との死別を経験した彼女の心の奥底には姉を失った深い悲しみが溢れていた。
それを慰めていたのは、姉を生き返らせる事が出来るかもしれないというレーツァンから見せられたまやかしの希望だろう。そして今の彼女は姉を生き返らせたいという願望そのものが洗脳によってもう一つの人格となったのだ。
今の歩美は本来の本当の歩美を置いて、願望が独り歩きしている。それが今、再び元に戻ろうとしている。
「零さん。元に戻る前に一つだけ頼みがある。さっきまで殺し合いしていたのにバカみたいだよね」
「そんな事ない。今の歩美も、戦いを通した今ならば、私の知っている歩美の一部だから。言って」
「わたし、元の場所へ帰りたいけど少し怖い。だからそれまでの間、本来のわたしが大好きな、あなたの温もりを頂戴」
「えっ……ちょっ」
そう言うと、歩美は両手をこちらの背中に回し、顔を右肩に置いて背中をさすってきた。泣きつくように抱きついてきた、さっきまでは鎧に覆われていたその体はとても暖かい。
顔を覗き込むと歩美はそっと安らぎに満ちた顔で眠っていた。彼女が元の場所に帰れるように背中をそっとさすってあげる。彼女が帰る事で歩美は元に戻れる。
静かに眠る歩美を見守る中、辺りからは緑炎が燃える音以外は何も聞こえて来なかった。その時。
「……零さん」
眠っていた歩美が優しい声音で呼んできた。
「歩美」
「……ありがとう」




