第123話
「紫水ちゃん──」
怒りの視線を奴に向ける紫水に、そっと後ろから両肩に手を置いたのは翡翠。そしてその横をそっと諒花は通り抜けていく。
──不愉快だ、これ以上させるか、ぶん殴ってやる。
美しい紫水晶の如き双眸がじっと彼を見つめる。
「フヒャハハハハハハ!! 良い目をしている。第二ラウンドを開始してくれって顔だな? 諒花!!」
「あぁ、さっさと始めるぞ!! これ以上お前の好きにさせるかよ!!」
右足を大きく踏み込んで跳び、真っ直ぐにレーツァンへと突っ込む。右手を毛深い人狼の拳へと変え、奴にその一撃をぶつけようと突撃した────その時。
「好きに……ねぇ」
奴が不敵な笑みとともにそっと余裕に左手を上げ、親指と中指で輪を作って滑らすと、そのパチンという音が響き渡った。何かを仕掛けたその音からは異様な不気味さが伝わってくる。
その策略ごと打ち破ってやる──意識をすぐに修正して右手の拳で最初の一発をお見舞いする寸前、それは目の前に現れた。チカラを込めた人狼の拳が、その得体の知れない黒いローブに身を包んだ何者かの握る一刀の剣が盾となって完全に防がれたのだ。
「なんだっ!? コイツ──」
拳が刃と相殺したのを目の当たりにすると、空中で身を丸ごと後ろに翻し、視界が一周し、諒花は離れた位置に綺麗に着地した。
以前戦った透明男──樫木麻彩の顔が過る。いや、あの黒い幽霊の格好をしたメガネは剣など使っては来なかった。
その正体はもう明らかだった。まだ解決していない問題があった。考えているうちに、これ見よがしにそっと頭を覆う布は払われた。
「諒ちゃん……」
「歩美……!」
それは、女騎士となってしまった幼馴染。前髪を分ける赤いヘアピンも相変わらず。あの三軒茶屋から飛び去って以来の再会だ。その目は鋭く、こちらを威嚇するかのように敵視している。
「なあ、歩美。そこどいてくれよ! 後ろの変態ピエロをアタシ達はぶっ倒さないといけねえんだ!」
突っ込んでいった先程までとは一転、途端に躊躇いがグチャグチャと滲み出て、人狼少女の戦闘意欲を奪う。
「ならば、尚更ここを通すわけにはいかない……!」
そう呟くと歩美は剣を両手で握り、身構えた。
「くっ……!」
戦いたくない。だが戦うしかない。このまま何もしないとやられる。だが相手はあの歩美だ。幼馴染み。
殴って、もしも、もしもの事があったら……まだ心の準備が出来ていない。これが嫌らしい不意打ちである事を実感する。
黒いローブを着た歩美は一刀の剣先を向け、容赦なく勇猛果敢な掛け声とともに、こちらに突撃──
が、その剣先が割り込んできた二刀の黒剣によって防がれる。
「零!!」
「諒花は──私が守る……! 歩美、もうやめて……!」
交差した黒剣で一刀の剣先を押し込み、歩美をよろけさせる。無論、それだけで歩美が引き下がるわけもなく、再び零に向けて斬りかかり、火花を散らす。
「歩美。あなたはレーツァンに操られている。目を覚まして!」
「そうか……!」
先ほどの屋敷内でのその当人によるネタばらしを思い出す。歩美より前に女騎士だった円藤由里は奴の催眠によって操られ、意のままに動かされていた。つまり、歩美も同じ状態にある。
そもそも三軒茶屋の時からこちらに剣を向けて斬りかかってきた時点で普段の歩美ではない。あの時から歩美は既に奴の操り人形だった。一瞬だけ、いつもの歩美に戻ったのも、催眠の効力が一時的に弱まったからだ。
「零さん、斬られて!! お姉ちゃんのためにも!!」
激しく両者の剣がぶつかり合う。歩美は一刀に対して、零は二刀。零の方が有利だ。だが、今までの敵と違って相手は歩美。本気で倒そうものならば、最悪歩美の命を奪ってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
剣と拳。正面から戦うと分が悪い。となると。
気づかれないように、諒花は零と歩美が互いに打ち合っている所の横へと素早くその身で飛び込み、前転して上手く後ろをとる。歩美に強い攻撃を放つことは出来ない。しかし、これなら──
一刀の剣で零を相手に応戦している歩美の動きを見る。その構えは両手で剣を握るスタイル。そう、剣道の構えだ。斬りかかる激しい動作の後、止まったほんの数秒、背後より近づいて──
「よし……!!」
脇の下にそっと手を回し、若干力強く引いて、動く余力を奪う。勿論、剣を背後に振ることなんて出来ない歩美は体を震わせ、逃れようとジタバタと暴れるが、必死に抑えこむ。
「離して!! 離してよ諒ちゃん!!」
──今、手を離すわけにはいかない。
三軒茶屋の時とは違い、鎧姿ではない。正面から殴るのではなく、後ろからの拘束が極めて有効だ。
「零!! 峰打ちだ!!」
「諒花!」
拳では直接殴って気絶させることが出来るが、歩美を殴りたくない。敵だったとしても、殴らないで相手に痛い思いをさせないで解決出来る手段があるとするならば、それは零の剣術による峰打ちだ。
斬ってるのに血を流さず、かつ殺生なく敵を倒す。峰打ちがどういう仕組みかもよく知らない諒花も目を見張るしかない、とても真似できないスゴイ技。
だがそんな期待に反して、零は動かない。
「どうした零!! 早く!!」
「諒花!! 後ろ!!」
「えっ……! うっ──!」
言われて振り向こうとした直後、背中に激痛が走った。
熱く、そこから走る急激な苦痛が体の自由を効かなくし、歩美を拘束していた腕もスルリと滑り落ちた。




