第117話
もう見てはいられない。これ以上、奴の蛮行を見過ごせない──!
思い立った零は隣に立っていた。さっきまでリングの上で戦っていた彼女を見た。
「アイツ……許せねえ」
諒花もまた、口を噛み締め、顔を歪ませ、今にも獲物に飛びかかろうとする、それこそ狼のような形相でレーツァンを見ていた。
「諒花。やるなら私も」
「ああ」
諒花一人では無謀すぎる。守らなければならない。相手は裏社会の帝王と呼ばれる男だ。この関東の裏社会の支配者。するとその時、二人の前にすっと濃い緑色の服の右手が下ろされる。見上げたその手は……
「妹を助けようとしてくれてありがとうございます。ここは私が──」
翡翠はそう言って、リングから飛びかかり、紫水とレーツァンの間に舞い降り、割って入った。紫水を攻撃しようとしたレーツァンの動きも同時に止まった。
「翡翠姉……」
体を張って庇ってくれた翡翠に紫水は目を丸くした。
「あなた、私の可愛い妹を泣かせるのはやめて頂けませんか?」
「おおっと! これはソーリー……しつけの度が超えていたな」
わざとらしく一歩引くレーツァン。
「あなたがここへ来た本当の目的、そろそろ聞かせて下さいませんか? 自ら黒幕だと明かした以上、ただそれだけで帰るようにはとても見えませんが?」
「フヒャハハハハ……! そうとも! おれはただ種明かしで来たわけじゃねェ」
この状況を楽しんでいるとしか思えない実に不愉快な笑い声だ。
「ここまではほんの前振りだ。おれが来た真の目的はな────初月諒花! そうお前だよ」
レーツァンは溜めた後名指しし、そっと彼女を白い指先にある紫色の爪で指差した。
「アタシか! いよいよ仕留めに来たってことか」
出会った時、諒花に『おれの女になれ』と言っていたのを思い出す。あれは一目惚れではない。予め知った上で言っていたのだ。そして今このタイミングで来たのもここまでの戦いで彼女が消耗しているからだろう。
「シーザーを倒した時に直接言ったろ?? おれはお前に挑戦状を叩きつけると」
確かに言っていた。それから樫木麻彩、女騎士、滝沢家と次々に敵が現れた。
「諒花、ここで最後のゲームをしようじゃないか」
「最後のゲーム……?」
「お前がそのチカラでおれを倒すことが出来たなら、これから言うおれの掲げる臨みは全て無しにしてやろう」
「要するに、アタシが負けたらの条件か」
「あぁ。負けたその時はおれの女になれぇ……可愛がってやるよ! それが嫌ならばおれに勝ってみろ!」
その邪悪な笑みは諒花を自分の女にすることで快楽を得る気満々の、大変気色悪いものであった。そんなことは絶対にさせてはいけない。諒花もドン引きしている。
「おおっと、そうだ。もう一個あった」
わざとらしく思い出したように人差し指を立てるレーツァン。
「負けたらおれの女になるのもそうだが、もう一つお前から奪うモンがあるんだ」
「なんだよ、それって」
「フフフ……お前にとって大切な、唯一の家族! その命をもらおう」
──花予さん!?
名前を言わなくても唯一の時点で一人しかいない。その高らかな魔王の宣言とも言えるそれは零にも衝撃が走った。
「アタシの唯一の家族って……」
するとレーツァンはよく聞けと言わんばかりにその名前を出した。
「初月花予。お前のパパとママが死んだ後、ガキだったお前を引き取って育てた義母であり、叔母だろう? おれは知っている。お前がガキの頃からな。諒花、良い女になったよなァ……」
その口調はイヤらしいが、子供の成長した姿を昔見た姿と重ねて感慨深く見つめるおじさんのようでもある。
「このゲーム、拒否したらどうなる?」
諒花の目が鋭くなる。内側にはこの変態男に対する怒りが秘められているのは明らかだった。
「愚問だな。おれが勝ったことにするに決まっているだろうが。言っておくが、今すぐスマホで連絡してハナを安全なとこに移そうとは思うなよ?」
レーツァンは懐から一枚の丸めた紙を取り出して広げて見せた。
それは優しく微笑むいつぞやの中学の入学式の際に撮った集合写真の写ってる部分を切り抜いて写真を貼り付けたものだった。
「顔はとっくに割れてるんだからな。コイツに懸賞金を書き込んで裏社会にバラ撒けば、カネ欲しさに強欲な猛者どもが群がってくるだろう」
写真の真上にはアルファベットで大きくWANTEDと書いてあり、写真の下にはONLYDEADと書いてある。つまり、死のみ。
「変態ピエロ、その写真をどこで?」
「フヒャハハハハハ! お前のことはプライベートな事も含めて全て分かるようになってんだよ」
でなければ翡翠にメディカルチェックを不合格になった情報を含めて教えることも不可能だ。いかにも小馬鹿にする物言い。これは決して嘘ではない。
──だが、何故……? 何故この男が知っている……?
「紫水もメディカルチェックを不合格になった話は、真実は定かではないが小耳に挟んでいた。諒花の情報はコイツらを釣るエサとして想定外に有用だったな」
当然だがあの花予の写真は入学式に参列した者とその家族でなければ入手することは出来ない。
「妹のデリケートな情報をあなたに漏らしたのはどこのネズミなんでしょうね?」
翡翠は落ち着いているが、それを知れば真っ先に殺しにかかる恐ろしく冷たいオーラが漂っていた。レーツァンは再度問う。
「さあ、諒花。ゲームをするか? しないを選んでハナを守りに行くルートを選んでもいいんだぜ? クッ……フヒャーッハハハハハハハハ!!」
こちらをバカにするしつこい高笑いが癇に障る。零は辺りを見渡す。まず、滝沢姉妹。翡翠は顔色を変えず、平静と何を考えているのかも分からない表情で場を見つめている。紫水は戸惑った顔で言葉を出せず、迷っている様子だ。
する、しない。どちらを進んでも待っているのは地獄だ。前者は今のこの関東の裏社会を掌握する帝王たるこの男との直接対決を意味する。
この男をシーザーや樫木とか、そこらの異人と同列に並べてはいけない。稀異人であり生まれた時からその強力なチカラを秘めた諒花ならば可能性はあるかもしれない。だが危険すぎる。簡単に倒せる男ではない。もしかしたら彼も──かもしれない。とにかく底知れない男だ。
一方、後者の選択は終わりの見えない鬼ごっこだ。一度手配されれば、レーツァンおよび彼に与する者たちだけではない。カネが欲しいと思った者全てを敵に回すことになる。
一般人が標的になった時は警察からXIEDに身柄を移され守られることもあるが、監視役である立場上、そこに助けを求めることは出来ない。
そうすれば諒花達にもいずれ正体がバレてしまうから。今まで監視役をしてこれたのもXIEDを動かせる上官の巧みな根回しがあってこそだ。
仮にもし後者を選ぶというなら、力づくで諒花を止める。確認しなければならない。彼女に向けて、零が助言しようと口をそっと開いた時──
「おい」
「──!?」
ゲームを仕掛けた彼の鋭い視線が向けられ、直後に体に微かな寒気が走った。
「横からのアドバイスは禁止だ」
諒花はレーツァンを見てじっと険しい顔をしていた。考え込んでるに違いない。
仕方ない。今はじっと彼女を見守るしか出来ない。
たった一つの質問によって彼女にこの先は委ねられた。それは果たして──




