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その一

 愛は恐ろしい。それは狂気の一形式にすぎない。

 ヘルカイ村の農夫、エレステン・ガイングがわたしのところへやってきたのは、降魔月(ごうまづき)十二日の昼頃だったと思う。

「それで、裁判所は決闘による神明(しんめい)裁判で判決を下すことを決定したわけですな」

 わたしは念を押すつもりでたずねた。

「そうです」エレステン・ガイングはうなずいた。「そのさい、代人をたてる権利を認めて下すったんで」

「それでわたしに?」

「へぇ、あなたは経験があるとうかがって。見ればどうして、お強そうでらっしゃる」

 わたしの名前はヒューム・レイザー。

 法廷代理人である。弁護士のことだ。

 年齢は四十に近い。わたしは大柄で、体重があり、壁のように張った肩の上にいかめしい顔をつけている。だいたいの者がわたしに威圧感を覚えるようだ。わたしはそれを利用することもある。顎が四角く、背中まで伸ばした髪は黒、口ひげは手入れを怠らず、つりあがった眉毛は野太い。


 事件というのはこうだ。

 寒風吹きすさぶ畜殺(ちくさつ)月十五日、早朝——まだ朝日が見えていない時刻。

 ヘルカイ村農夫ローフ・ジムソンは冷たい土間に裸足をつけ、藁で作った寝台に腰かけた。刈り入れが終わったばかりだ。なのにまた畑を掘り起こし、種を蒔かなくてはならない。冬麦の準備である。休む暇はなかった。

 ローフは老いた牝ロバに鋤をつなぐべく靴を履き、泥でできた住居を出ようとした。

 扉が開かない。

 もともと立付けの悪い扉だ。ゆがんでいて、少し持ち上げてから押さないと地面につっかえてしまう。

 しかしその朝の開閉の不調は、いつもとどこか違う。扉が重い。

 それでいて押せないわけではない。

 意志のない何者かが外から抑えているような感触だ。

 ローフはいくぶんうんざりしながら無理矢理に扉を開いた。

 昇りはじめた朝日が、喉を切られて戸口に仰臥する若い男を照らしていた。

 血しぶきがローフの家の壁に半円形の模様をつけている。


 死体はヴィジーク・ガイング、まだ十五歳だった。

 ヘルカイ村の農夫だ。

 ガイング夫妻はひとり息子の死亡に狂い泣き、憤慨した。

「おれは、訴える、訴えるとも。これを黙って見逃すものか!」

 と、父親のエレステン・ガイングが息子の亡きがらを抱いて息巻いた。

 村人たちはそろって悲しみを述べ、夫妻に同情を惜しまなかった。しかしみながみな、訴えるのは辞めたほうがいい、と忠告を忘れなかった。

 犯人の目星はついている。

 ドロッパー一家の誰かだ。

 ヘルカイ村とほとんど接するところに、通称「蜘蛛の森」と呼ばれる広大な原生林が覆っている。ゼフ・ドロッパーは蜘蛛の森を根城にする盗賊団の首領だ。付近一帯を荒らす悪いやつだった。

 大親分には、目に入れても痛くない可憐な一人娘がいた。

 エナ・ドロッパー。

 殺されたヴィジーク・ガイングと同じ十五歳。

 エナとヴィジークは仲良しだった。その年齢にしては、少々度を越して仲良しになりすぎた。

 ゼフ・ドロッパーはヴィジークを憎んでいたらしい。

 娘をたぶらかされたと考えていたようだ。

 すなわち事件の真相というのは、娘を傷物にされた父親が、ヴィジークのところへ刺客を送ったか、あるいは自ら出向いて喉を裂いた、というものに違いない。

 相手はなにしろ盗賊の首領である。裁判に訴えても無駄であったろう、それどころかガイング夫妻に危険がおよぶのが目に見えている。

 だが、父親のエレステン・ガイングはドロッパーを訴えた。


 人が一人殺されて、誰が何をしてくれるのか?

 領主は領民の安全を保障する義務がある。

 教会は信徒の魂を導くべく葬式を執り行う義務がある。

 ところが、人が殺された、という事実だけでは誰もなにもしてくれない。

 僧侶に祈ってほしければ教会に金を払って頼む必要がある。依頼があって、はじめて教会は腰をあげる。

 裁判も同じで、殺しがあった、というだけでは犯人捜しさえも行われない。放っておかれる。被害者の親族から訴えがあってからでないと、司法は機能を開始しない。

 ガイング夫妻は決意をもっていた。

 盗賊たちからの脅しや圧力は十分に予想していたが、それでも仇を討ちたいと切実に願っていた。

 畜殺月二十日、訴えが受理され、裁判がはじまった。

 同月二十三日、ゼフ・ドロッパーはヴィジーク・ガイング殺害を認めた。盗賊団の首領、恋人の父親自らが手を下していたのだった。

「しかしね、理由があるんですよ」

 ゼフ・ドロッパーによると、畜殺月十四日の深夜、ヴィジークに会い、娘と別れるよう求めたが、断られたのだという。なりゆきで互いに武器を取ることになった。ヴィジークは鉈を、ゼフ・ドロッパーは短剣を。

「それで殺っちまったのは間違いねぇ、ですがね」

 ドロッパーは無茶なことをいいたてた。殺人だとしても、娘を守るために仕方なくやったことだ。娘は自分のものである。ヴィジークはいわば、自分の財産をちょくちょく盗みにくる泥棒だった。それを退治したにすぎない、と主張した。

 自分の財産をまもるための、自衛を目的とした殺人だった、という。

 驚くべきは、裁判所がそれを受け入れたことだ。

「被告ドロッパーの主張には考慮の余地がある」裁判長をつとめるのは宮廷司祭だ。「よって裁定は決闘によってくだすものとする」

 決闘をおこない、勝った方の主張を認めるのである。戦いによって判決を定めるのは、めずらしいことではない。その大きなものが戦争である。勝ったほうの主張が通る。だからこそ、われわれのような稼業が成り立つのだ。


「お願いです、あたしらのためにぜひ、決闘の代人になっていただきたい」

 エレステンはいった。

「ふむ。しかし、わたしはちと高いぞ」

「いかほどで?」

 わたしは微笑を浮かべて酒杯を飲み干した——酒場にいたのだ。酒はほとんど呑まないが、それでもほぼ毎日酒場には顔をだし、杯にして二十から三十ほど呑む。飲酒は悪癖である。わたしは世の飲み助が酩酊のすえに行った馬鹿馬鹿しい犯罪をたくさん見てきた。わたしのように樽ひとつ空けられるのを、我慢して二十杯でおさえる努力が必要だ。

 それはそうと、神明裁判というのはまったく素晴らしい制度であろう。神は正義あるものを勝利者に選ぶ、という世界の大前提、一大真実を司法が応用するのはまったくもって喜ばしい限りである。

 神が悪に力を与えるわけがないのだ。

 よって、どんなもつれた事件でも決闘をおこなってしまえば真実はおのずから浮き上がってくる仕組みだ。

 正しいのはどっちか?

 勝ったほうである。

 力の強いほうである。

 わたしは僧籍にあったこともあり、法律は詳しい。

 だがそれ以上に、腕の方に覚えがある。

 おりしも、不幸なるエレステン・ガイングとわたしが話し合っている横で、酔っ払いが嘲笑した。

「盗賊ならあんたの同類だろ、ヒューム」

 振り返って相手を見ることさえなく、わたしの鉄拳は横やりを入れた酔っ払いの不埒な顎を正確に捕らえていた。酔っ払いはふっとんだ。背中をそらせ、なだらかな海に跳躍した魚のような軌跡を描いて。

 やはりだ。

 やはり、正義は常にわたしにあるらしい。

「とりあえず、あなたの村へいきましょう」と、エレステン・ガイングをうながした。

「……というと、引き受けてくださるんで?」

 うむ、と答えるや否や、エレステンがわたしの首に飛びついてきた。顔をなめまわさんばかりにキスを浴びせてくる。

「おお、おお、どれほどその言葉を待っていたか。もう何人にも断られてきたんです! ヒュームさん、あなた、天使のようなお方だ!」

「わかった、わかった。任せておけ」麗しいとはいい難い農夫の口臭に辟易しながら、わたしはなんとかエレステンを落ち着かせた。

「あの、ヒュームさん」酒場の亭主がおずおず話しかけてきた。「お支払いのほうがだいぶ滞ってます、その、もし……」

 機峰をくじくその発言に、わたしはとまどった。これから正義を執り行う男に対してあまりに些細なことをかれはいいすぎたようだ。

 とはいえ、そこは男と男。

 わたしは黙ってかれを見つめた。

 思った通り、男同士、通じあうものがあったようだ。

「いえすみません」亭主は帳場の奥まった隙間まで下がった。「忘れてくださいまし、ある時払いでけっこうですんで」


 恥を忍んでをいうと、わたしはこの時、莫大な借金を負っていた。詳細については語らないが、万の単位におよぶ金を、あちこちから借りていたのだ。

 そのうえ、わたしはこの半年ほど、仕事にありついていなかった。

 盗賊を相手に決闘?

 エレステンの依頼には面倒そうな臭いがぷんぷんしている。だが、わたしに仕事内容を選ぶ余裕などなかった。実をいうと、内心飛びつくように、わたしはエレステンの申し出を受けたのである。それどころか、久しぶりの仕事に浮き立っていた。

 わたしはこの時、盗賊がためこんだ宝をぶん捕れるかもしれない、とさえ思っていたのだった。

 旅装をととのえ、剣を鞘におさめると、われわれは出発した。

 道中、わたしとエレステンは話をした。

「いい息子だったんで」と農夫は息子の思い出を語った。「いや、違います。特別いい息子ってほどじゃなかった。しかしね、ヒュームさん。あれは、まぎれもないわたしの子だったんでさぁ。他の何者でもねぇ、わたしたちの息子だった。これがどういうことか、おわかりで?」

 わからない、とわたしはいった。

 エレステンはわたしの返事に寂しいものを感じたようだった。

「息子を持ってください。そうすりゃ、わかりますよ」

 大陸の大動脈、ハイル街道を北上すること半日、そこから脇道に入ってさらに半日。

 ヘルカイ村は雪原のなかに身をよせあっている。

 わたしは威厳をくずさぬよう、半眼で村の中心を観察した。

 間隔をたもちながら並ぶ家々はいかにも貧しいが、丘の上にそびえる城塞の威容は、なかなかのものだ。

「領主の城だな」わたしはエレステンにたずねた。

「さようで。サイラス伯爵閣下の居城です」

 村に入ると、いやでも村びとの冷たい視線に気づいた。みな貧しい農夫である。誰もが、わたしと目をあわせようとしなかった。憎々しげに顔をゆがめたり、顔をそむけたり、あからさまに侮蔑のしぐさを示す若者もいた。よそ者を好かないのは、田舎者の特性だ。

「歓迎されておらぬようだな」わたしはいった。

「あたしのせいです」エレステンは大声を出した。「みんな、おれがドロッパーを訴えるのが気に入らねぇんで。そうだろ!」

「なぜだ? ドロッパーは村の敵であろう?」

「怖いんですよ。みんな、連中に復讐されると思ってるんでさぁ」

 この村は、何年も盗賊たちの脅威にさらされ続けてきたのだと、エレステンは説明した。盗賊に刃向かえば、なにをされるかわからない。エレステンの裁判のせいで、村全体が盗賊の被害をうけるかもしれない。村びとはそれを恐れているらしい。

「そのドロッパーというのは、そのような無茶をするのか?」わたしは尋ねた。

「わかりません。とにかく、あたしらはやるんです」エレステンはわたしというより、村びとに聞かせるように声を張り上げた。「おれは腰抜けじゃねぇんだ。誰かがやんなきゃいけねぇんだ!」

 家々の窓に浮かぶ人影、通りの人々の顔が不穏にはりつめた。だが、特別なにかをいってくる者はない。エレステンは腫れ物扱いされているらしい。  

 かれの家まで小一時間も歩いたろうか。

 土でできた、わらぶき屋根の家だった。煙突から細々と煙が立っている。周囲は雪をかぶった麦畑で、家屋の他に納屋と家畜小屋が属していた。

 エレステン・ガイングのかみさんは、シーマ・ガイングといった。ぽちゃっとした小柄な女性である。

 炊事場でわたしを見て「まぁ……」と絶句した。

 両手でもった素焼きの鍋からおいしそうな湯気が立ち上っていた。

 農家ではどこでも、日暮れとともに就寝する。だが、その日、われわれは蝋燭を灯して遅くまで夕食をかこんだ。

「あの……」エレステンはテーブル越しにわたしをみた。「まだ料金のことをうかがってません」

「料金?」わたしは鼻を鳴らした。「払えるだけ払うがよかろう」

「それでは困りますよ」

「では、八ギラン」

「安いですね」

「では二〇〇ギラン」

「そんなにするんですか?」

「いくらなら払える?」

「いくらでもお支払いします。二〇〇ギランでも。その倍でも支払います」

「ふむ。失礼だが——」

「もちろん、今すぐには無理です。しかし一生かけても払う覚悟です」エレステンは挑むようにわたしを見た。「ただし、決闘に勝ってくれたら」

「なに、軽々と勝利を決めて見せるわい。正義はわたしについている」

「ヒュームさん、実はそれほど簡単じゃないんで」

 エレステンの説明によると、ドロッパーは最初から盗賊だったわけではない。元はといえば、傭兵団の頭領だった。戦争が終わり、お払い箱となった傭兵が、ゴロツキに成り果てるのはありがちなことだ。裁判にも、盗賊としてではなく、傭兵隊の隊長として出席したのである。

「だからどうしたのいうのだ?」わたしは尋ねた。

「むこうは、闘いの熟練者を用意できるってことです」

「エレステン・ガイングよ」わたしは嘆息した。「わたしは負けない。何がどう間違おうと、負けようがない。わたしが正義だからだ。まぁ見ておれ」

 実際、この時までわたしは本気でそう信じていた。正直にいうと、わたしはさっさと決着をつけ、盗賊どもから金を取ることしか考えていなかったのである。


 翌朝——。

 村の広場に演説台が準備された。人が集まっている。できる限りの厚着をした人々の群れは、毛糸の玉が身をよせあっているようだ。牛馬がうなったり、村びとがささやきあったりするところに、白い息が立ちのぼった。騒がしいのは、この裁判が前代未聞のことだからであろう。

 わたしとエレステンは演説台に一番ちかいところにいる。

 エレステンが、みょうに落ち着きないので理由をたずねると、かれは群集の一画を指さした。「ゼフ・ドロッパーです」

 見ると、抜きん出て巨大な人間がいる。

 わたし自身、熊のような体格の所有者だ。だが、かれはなんだろう。化け物だ。鬼のごとき顔、丸太のような腕、背中はゆったり寝られるベッドくらい広く、お尻は子供の一人二人ペシャンコにしてしまいそうだ。それが腕組をして立っている。

 神か超人のようなその姿は、なるほど無頼の徒をまとめあげるにふさわしい。

 かれのほうもわたしに気づいたようだ。こっちを見ている。度胸のない者なら小さくなって消えてしまいそうな怖い目つきだ。

 わたしはさも軽蔑したような笑みを返す余裕があった。だが内心は、かれが近づいてきたらどうしよう、と考えていたことを白状せねばなるまい。

 そう、昨日までの自信に揺らぎが生じたのは、この時だった。

 恐ろしく肥満した男が、丘のほうから侍童を連れてやってきた。

 宮廷司祭のモドック師です、とエレステンが小声でわたしに説明した。

 モドックはだぶだぶに太った体で演説台によじのぼり、静かに、と呼びかけた。

「静粛に……えー、ええと! 今からドロッパー対ガイングの決闘をここに告知する。畜殺月十五日に発見されたヴィジーク・ガイングの遺体を、同月二十三日の裁判において、ゼフ・ドロッパーが自分の手によるものであることを認めた。同時に、ヴィジークが、ドロッパーの娘エナと不誠実な関係を持っていたことも認められ、当裁判所は決闘による裁定に従うこととした。原告、被告ともに前へ」

 エレステンは背筋をのばして演説台の前へいった。

 小山のようなドロッパーもゆらりと揺れて前へ出ていく。

「両人、決闘による決着に異論はないな」

 ふたりともうなずいた。

「では明日、同じ時間、同じ場所で決闘を執り行う。三回勝負の裁定とする。三回の勝負すべてを勝ち抜いた者が勝者だ。わかるか?」

 ふたりがまたうなずく。

「よろしい。両人に代人の権利を認める。代人と立てる場合、申告は今おこなうように」

「司祭さま」エレステンが手をあげた。「わたくしはヒューム・レイザー殿を代人に立てます」

 ようやく出番がきた。わたしは首をまわしながら前へ出て、はじめてお目にかかります、と挨拶した。

「うむ、よろしい。被告ドロッパー、代人を立てるか?」

「もちろんです、司祭さま」

 耳障りな声だった。この化け物じみた風貌から発せられる声はこれしかない、というくらいの、つぶれた声だった。

「シャッケル・スナイジーを」

 わたしはぎょっとした。シャッケル・スナイジーといえば、裸足のスナイジーの異名を持つ腕利きの傭兵だ。会ったことはないが、噂は聞いている。剽悍無比、俊敏さで優る者なく、長い手足で効果的に敵を追いつめるらしい。戦場においては、十人抜きで敵陣を突破し、また十人殺して味方のほうへ帰ってくるのだそうだ。

 額から頬にかけて、醜い傷のある男が演説台の前にやってきた。

 まずいのを相手にする。

 わたしは、顔には出さなかったものの、心からそう思った。ドロッパー、なかなかいい手札をそろえている。一枚目がこれなら、残りは絵札であろう。わたしの予想は裏切られた。田舎の決闘騒ぎだ、たいした使い手は出てこないだろう、というのがわたしの読みだった。

 負けるかもしれぬ。殺されるかもしれぬ。膝のほうが震えはじめたようだ。

「ヒュームさん?」と、エレステンの声がする。「大丈夫ですか?」

「大丈夫か?」大丈夫なわけなかろう、と思いながら、わたしは笑顔を見せた。「なにを心配する。きのういった通りだ。正義があれば必ず勝つ。安心せよ」

 告知の集会が解散になり、人々はおのおの、畑へ帰っていく。

 われわれもエレステンの家の方角へ足を向けた。その時である。

 スナイジーが周囲に聞こえるよう大声を出した。

「ヒューム・レイザーなんて名前は聞いたことがねぇ。それより、今夜は飲ませてもらうぜ。ドロッパー、この村に酒を飲ませる店はあるんだろう?」

 その失礼千万な言葉を聞いた時、わたしに天啓がおとずれた。

 わたしは雷に打たれたように立ち止まり、勇気が凛々と湧いてくるのを感じていた。

 噂によれば、ひとつだけ、裸足のスナイジーに弱点がある。スナイジーは恐ろしく気位が高く、どんな場合においても自分が負けることを許さないらしいのだ。

 その噂が本当なら、わたしは勝ったも同然だった。


 夜がきた。わたしはエレステンをともなって、村の酒場に顔を出した。

 エレステンは浮かない様子だ。

「ヒュームさん、大丈夫なんで?」

「なにがだ?」

「決闘は明日でしょう? 酒場になんかきて平気ですか?」

「エレス、お前にだけはいっておくが、わたしはザルだ。飲めば飲むほど機嫌がよくなる。決して前後不覚におちいったりはせん」

 ヘルカイ村に唯一存在する居酒屋は、名前を〝ふるさとの店〟といった。広めの農家にテーブルを五、六脚ならべたような店である。床は石畳だったが、われわれのついたテーブルは足の長さがふぞろいらしく、やけに揺れた。

 そのテーブルに、葡萄酒とカゴが置いてある。カゴの中身はトウガラシだ。

「なんでそんなものを食べるんです?」

 エレステンはわたしの行動のひとつひとつが気に喰わないらしい。

 酒もあまりすすんでいないようだ。

「これは、香辛料の一種で、食べると辛いのだ」

「知ってますよ」

「食べるか?」

「いりません」

 わたしはトウガラシを、すでに三本ばかりかじっていた。体じゅうがカッカと熱く、とくに胃のなかは燃えるようだ。流れる汗が、口髭にしみこんでいく。顔はもう破裂するほど紅潮している。それでも無理して食べた。

 ほどなくして、出入口の扉が開いた。そうやってドアが開くたびに、わたしは扉へ目をやっていた。シャッケル・スナイジーと、その取り巻きらしい二、三人の無頼漢が店に入ってきた。

「さてと。いってくるぞ。お前はここにおれ」

 そういい残し、わたしは立ち上がると狂ったような馬鹿笑いをあげた。

 笑いながら皮帯をゆるめ、剣の重みでずり落ちそうになるズボンを引っ張りあげながら、よたよたと歩いていく。頭の上に鉛でも乗せたように、あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、足を交差させながらスナイジーの目の前まできた。

「おうおうおう! どっかで見た顔だこりゃ! おう!」

 と、ためつすがめつ、酒臭い息を吹きつけるように敵を眺めまわす。

 裸足のスナイジーは斜めに走った顔の傷跡を白くさせて、憮然としている。後ろの取り巻きも同じような表情だ。

「どきなよ、邪魔だぜ」スナイジーはいった。

 わたしは両腕を広げて、大声を張り上げた。「こいつは、シャッケル・スナイジーだぜ、おう! みなの者!」たちまちズボンが落ちていく。

 哄笑が湧きおこり、わたしはズボンをあげた。

 スナイジーの目に、わたしはどう映っていたろう。トウガラシで顔を赤黒くした騒々しい男——それが酔っぱらいでなくてなんであろうか?

 裸足のスナイジーは嫌悪と嘲りのシワを口元に浮かべている。

 わたしはかれの胸を指でつついた。

「なにを考えてる? お若いの。まさか飲みにきたんじゃなかろうな」

「悪いか」

「悪いか」と口真似をする。「悪いわい。明日は決闘だぞ! このわたしと。前日に酒を飲むなど、やる気があるのか!」

「おい、おっさん」うんざりしたシャッケルの表情のなかに、ことによれば穏便にすまさない、という決意が見え隠れしている。「あんたこそいい加減にするんだな。おれの異名を知らねぇのか?」

「馬鹿もん! お前こそ、ヒューム・レイザーの名を知らんか!」

「聞かねぇぜ」

 わたしはスナイジーの靴に唾を吐いた。

「話にならんな、小僧。悪いことはいわない。帰ることだ。そして武運を祈れ。子供のくるところじゃないぞ。さぁ、どいてくれ、小便だ」

 脇を抜けようとするわたしの肩に、シャッケルの指がきつくくいこんだ。

「待てよ」

「おいきさま、その汚らわしい手を今すぐどかさないと……」

「おもしれぇ。ここで決着つけるか?」

「よかろう」わたしは昂然と顎をつきあげた。「だが、ここで剣は抜けぬ。酒場だからな……そうだ、酒で勝負するか?」

「酒?」

「おう。飲みくらべだ。先に倒れたほうが負け、というのはどうだ」わたしはしゃっくりをした。「わたしが負けたら、お前の靴をなめてやる。負けないがな」

「フンッ、くだらねぇ」

「ハハハ、やはりか。やっぱり口先だけか。まぁ賢明だな。お前はどうせ負ける」

「おれが? 負ける?」シャッケルは眼を剥いた。「クソ親父。てめぇはもう、ぐでんぐでんじゃねぇか」

「酔ってなにが悪い。もういい。負け犬と話しても埒があかぬ」

「負けちゃいねぇぜ」シャッケルは、なりゆきを見守っている店の亭主に怒鳴った。「酒だ! あるだけ持ってこい。飲みくらべだ!」

 どうやら、噂は本当だったらしい。シャッケル・スナイジーは真性の負けず嫌いだ。

 わたしたちはテーブルにむきあった。蒸留酒を交互に飲み干すのである。

 勝負をはじめてわかったが、裸足のスナイジーは、決して下戸ではない。むしろ強い方だ。次々と杯を空にする。

 そのうえ、意気ごみが違った。

 取り巻きたちが止めても、かれはいうことを聞かなかった。

 二十杯を越えたあたりから、スナイジーは限界まで追いつめられていたはずだ。それでも「参った」とはいわない。五十杯を越えたころ、スナイジーはもう笑いっぱなしだった。

「あははは、おっさん、なかなかやるじゃねぇか。明日、立ってられるかい?」

 という具合である。

 その後、ふたりで『楽しい売女連隊』という軍歌を唄った。シャッケルは唄い終えると、なんだか涙ぐんでいた。

「おっさん、おれぁ傭兵なんかやってるがよ。けっしてこの稼業が好きじゃねぇんだよ。ただなぁ……おっさん、世の中ってのは、はかないよな。そうだろ?」

 七十二杯目で、スナイジーがつっぷし、動かなくなったのを確認して、わたしはエレステンをともない、酒場をあとにした。

 翌朝はすっきり目覚めた。首を鳴らしてから広場へいくと、スナイジーは剣を杖にして、青い顔をしていた。

 結果については、いうまでもないだろう。

 決闘の前に、スナイジーは二度ほど吐いた、とだけいっておこう。

「見たかスナイジー! これが正義というものだ!」

 勝負がつくと、わたしは呵々大笑した。この宣言に野次馬連中は、魂をふるわす感動を味わったことであろう。

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