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ニライカナイ

作者: 篠原ろんど

 事故だった。

 崖から勢いよく打ち上げる浪はまるで冥界か、若しくは生き物のように手招きをして引きずった。欠け落ちる土くれの端々が吸い込まれるようにざぶん、と音を立て、そのまま息をしなくなった。

 彼女はまるで海そのものが欲しがったように、あっという間に、息を呑む暇さえなく、そしてその日。伸ばした右手は空を切り、一人の少女は――死んだ。



「まいった」


 慌てて近くの海岸まで駆け出し、辿り着いた時には、彼女はスカートの裾を絞っている最中だった。めいいっぱいに染み込んだ海水が砂浜に落ちて跡を作っている。

 彼女は笑いながら、肩で息をするぼくの方を見て、一言。


「死んじゃった」


 そのまま穏やかに揺れる水面と太陽を背に水を払う。目の前で氷になっていく彼女に、ぼくは何も返事をすることが出来ずただただ息を呑んだ。



 ――全ての死者に、後悔が無いように。



 神さまはそう言って、死者に三日間の仮初めの命を与えたという。

 ある者は死後、残された遺族に感謝を伝え最期の時を過ごした。ある者は自分を殺した犯人を捕まえ、その恨みを果たした。

 世界はそういう風に出来ていて、当たり前のように動いている。

 今や瑞々しさを失った、夜の海のように艶やかだったその黒髪。輝きを失った、揺らめく炎のようにに力強かったその瞳。何よりノースリーブの青いワンピースから覗く日焼けをして健康的だった肌が、雪のように真っ白に染まっている。

 紛れもなく死者だと感じさせる冬の化身も、やはり日常茶飯事の当たり前で片付けられているのだ。

 だから狭い田舎の学校ですら一つ残らず習う、次の行動も淡々と移すことが出来る。


「死後処理をしなきゃ」


 しかし思わず震えて焦ったような声が出て、ぼくは自分で吃驚する。この少女が幼馴染みだから尚更だ。平生を保とうとしていても、ぼくの心は揺れに揺れていた。

 彼女はそれが適切な行動だと言わんばかりに頷きかけ、しかしやめてしまった。


「親には、やっぱり言いたくないな」

「何故?」

「怖いから」


 彼女は無表情で告げた。

 告白したところで彼女の両親はどう思うだろうと思考を巡らせそうになったところで首を横に振る。今はそれより死後処理が優先であった。


「じゃあぼくの家から持ってくるよ。待ってて」


 こくりと頷いて、彼女はその場に静かにしゃがみ込んだ。それを見てから浜辺に近い自宅へ真っ直ぐ駆けていく。

 死後処理キットは国が指定した物だ。防災グッズと同じような物で、各家庭に必ず一つは有るようにと規定が設けられている。

 内容は至って簡単。筋肉緩和剤や裁縫具、包帯などの辺りは救急箱みたいに思える。

 彼女の死因は崖から転落、海に打ち付けられた衝撃だ。つまり裁縫具や包帯などは要らない。外傷と言えば大きな打撲だと思うし、それこそ動かなくなるまでに隠しきれるだろう。

 必要なのは筋肉緩和剤。これは死後硬直を和らげるものである。カプセル式の錠剤なので、簡単に飲むことが出来る。死後硬直までには二、三時間以内が目安、余裕で間に合うだろう。

 手早く押し入れに仕舞われたそれを手に取ってリュックに仕舞い、再び浜辺へ駆ける。

 母さんも父さんも仕事なので誰にも見られずに済んだ。唯一、家で飼っている愛猫が死後処理キットを手に取ったぼくに向かってにゃあ、と鳴いた。父さんと母さんには黙ってるんだぞ、と頭を撫でると気持ち良さそうに顔を擦りつけてきた。

 正直ぼくの内心は彼女の死への衝撃よりもずっと強い、ある一種の好奇心で満たされていたと思う。

 死者の話は何回も色々なことを聞いたし、知っていた。ニュースでも聞いたことがある。だがそれはあくまで知識の範囲であり、経験したことは無かったのだ。不謹慎だとは思うが、まだ動いている死体を前にした時、誰だってそうなると思う。

 持ってきた、と彼女の背中に声を掛ける。振り返った彼女越しに、何か砂浜に書いていたようだが波にさらわれて分からなくなったのを見た。


「……ありがとう」


 ゆっくりと立ち上がる。膝に付いた白砂がぽろぽろと落ちた。彼女は素直にそれを受け取って、中から錠剤を取り出して飲んだ。その様子を見据えて、ぼくは問うた。


「これからどうするつもり」


 これから先の、三日間の短い人生。唐突に死を突きつけられた彼女は一体、何をするのだろう。もし、自分に出来ることがあるのならば、何かを成し遂げたいであろう彼女の力になりたいと思った。

 しかし答えはぼくが思っているほど難しくはなく、至ってシンプルだった。


「何もしないよ」


 首を傾げる。


「……それでいいの?」

「いいの」


 彼女は渇いた笑いをぼくに投げた。

 それから彼女は本当に何もしなかった。

 街へ出掛けるのは学校のみだし、別段やってみたいこともやらなかったし、あの様子じゃ、本当に誰にも死んだことを言っていないようだった。まるで子供のような秘密ができたと思ったが、それ以上に不安で仕方がなかった。

 二日目の午後、彼女はぽつりとこんな事を言ったのだ。学校帰りで眠気の差すぼくの脳に、何故かストンと落ちた言葉。

 ――神さまがご慈悲を与えてくださる前の世界。死は突然に起こるものだったという。

 三日間なんて甘えた時間など一切無く、別れは急にやってきて、人と人とを引き裂いた。


「私が何も言わないのも、多分同じようなことだと思う」

「……じゃあ君は、神さまのご慈悲は要らないの?」

「そういうわけじゃないけど……」


 曖昧に頷いて、彼女は考えた。


「一番の理由は恐怖だよ。お母さんが泣くのも、お父さんが怒るのも怖い。いつも通り接してほしいの」

「……」


 そうして屈託のない笑みを浮かべて、死者の少女はこの世に有り続けた。

 残りの時間、腹に入れても腐ることしかしない親のご飯を嘔吐感と共に口に詰め込んで、錠剤でも抑えきれていない、動かない筋肉を無理矢理動かして遊んだ。

『何もしない』なんて彼女は言ったけど、ぼくは多分、『普通に過ごす』ことが彼女の三日間の過ごし方なんだろうと思った。そういう過ごし方をする人は少なくない。きっと普通に過ごすことは死者にとって、とっても難しい。変わってしまった自分の身体に『今まで通り』だなんて酷な注文だ。

 そして最期の日は、彼女はぼくを崖へ誘った。


「神さまは酷いひとだったよ」


 突然そんなことを言い出した彼女は、やはりいつも通り笑っていた。

 何故かを聞くと、ぼくが考えていた通りの答えを返してきた。


「普通に、なんて出来っこなかった」


 快晴の青空は、彼女が動かなくなる日にしてはとても似合うものじゃなかった。

 大空を自由に飛ぶ鳥も、はらはらと舞う花弁も、髪を優しく攫う風も、今日一人の少女が動かなくなるなんて思いもしないのだろう。


「ご飯はまるで土を食べてるみたいに不味かったし、食べ終わったあとは酷い嘔吐感に苛まれながらトイレに篭ったのよ?」


 眠気は一切無いから、眠ることが楽しくなかった。夢だって見なかった。心臓は止まっているから、走っても走っても疲れないし、転んだ時の怪我は治らない。筋肉はもうそろそろ動かなくなってきて、一歩踏み出すのでさえ辛い。唇は乾き、自らの身体がゆっくりと腐っていくのを肌で感じながら、それでも親を騙し続けた。

 それと、


「涙が出ないのは、本当に困ったなあ」


 へにゃりと崩れるその顔は、その言葉を聞いたあとのぼくにとってはいつもの笑顔とはどうしても取れなかった。

 憐れむべきか、励ますべきか。どれもこれも次の行動には最適ではなく、口籠もってしまう。


「ふふ、ごめん、困らすつもりは無かった」

「いや」


 首を振る。それを確認するように、彼女は海を真っ直ぐに見た。

 その人差し指は天を指し、そして彼方を指す。


「ニライカナイ、って知ってる?」

「なに、それ」


 彼女は得意気にその場でごろんと寝転がる。次いでぼくも同じようにした。

 草木の爽やかな匂いが鼻をくすぐって、とても気持ちがよかった。

 一人の少女は得意げにふふん、と鼻を鳴らして、言った。


「遠く海の彼方に存在する楽園。天国のようなものでね」

「それがどうしたの?」


 彼女がぼくを見る。力強い瞳はまるで死んだとは思えなかった。


「私は海で死んだでしょう? まるで手招きされているように海に落ちたわ」

「……」

「死んだ直後よ。海の中がこの世のものとは思えないほどに美しく輝いた!」


 それはドボン、と海に落ちた後。強烈な痛みを他所に目を開けた彼女の隣を、一匹の魚が通り過ぎた。一瞬のうちにそれを目で追いかけると、遠い昔に祖母から聞いた御伽噺を彷彿とさせる程の、豊かな海の楽園が広がっていたという。色鮮やかな魚の群れ、木の枝の様に複雑な模様を描く珊瑚、光に当てられてキラキラと輝く泡。波の影が底を揺らし、彼女の瞳を釘付けにしたのだ。

 両手を広げ、天に突き刺す。青い空はどこまでも続き、途中で天と海が元より一つのものだったかと思わせるように繋がった。


「それじゃあ君はそこに行くの?」


 ぼくの心の底では信じてなどいなかった。

 ニライカナイは御伽噺に過ぎず、しかし死者が蔓延るこの世では、本当にあるかも知れないという期待もあった。

 だから興味本位で聞いた。


「ふふ、どうだろうなあ。そうだといいなあ」


 彼女は笑った。心からの笑顔で空を見上げていた。

 時間は刻一刻と迫っている。彼女の寿命が近づいている。ぼくは焦った。満足そうに笑う彼女にはもう、この世に未練など無いのかも知れないが、ぼくは違う。寧ろ話したいことが沢山あり過ぎて、逆に思いつかないくらいだ。明日は公園へ行って遊ぼうだとか、夏休みを迎えたら遠出しようだとか、今日の夕飯はハンバーグ等と些細なことすら、全て未来を表すことで、未来を持たない彼女には皮肉でしかない。

 ぼくは迷った。心の内から伝えたいことって何だろう。


「やっぱり神さまのご慈悲なんて要らなかったのかもね」


 不意に彼女がそう言った。


「だってどうやって別れたらいいか分からないもの。突然死んだ方が受け入れられる気がする」


 そんなことない、とぼくは咄嗟に口に出した。彼女は驚いてこちらを見る。正に今、どうやって別れたらいいか迷っていた人間が言うべきではないのは確かだが、それでも突然別れるだなんて嫌だった。三日間は甘えた時間で、目の前の人間が死んでいると分かっていながらそれでも尚、死なないで、と願うだけの時間。

 陽が落ちてくる。

 ちらりと持っていた時計に目を向ける。彼女が死んだ時間は午後五時ちょうど。海の青に赤が添えられる時間帯まで、あと十分も無かった。

 いよいよ本格的に焦り始める。時が経つのは本当に早く感じてあっという間だった。まるで彼女が死んだ時のように、待ってなどくれない。

 こんな所で寝転んでいる場合ではない、と咄嗟に飛び起きる。何か、最後に何か。彼女にしてあげられることがあるなら何でも構わない。



 ――瞬間、鳥肌が立った。



 ぞわりと肩を震わせて、それを感じた場所を見る。

 視線の先は手の甲だった。彼女の雪のように真っ白な手が触れている。繊細で、細い指は栄養が足りていないのか今にも折れそうな程だった。

 そんなただの手に、驚愕の瞳を向けた理由を考えて、即座に理解した。

 ――彼女の手は冷たかった。

 ただ冷たいだけではない。こちらの体温が持っていかれそうな程。まるで氷か、それ以上に冷たい。

 彼女が徐に起き上がる。一瞬、悲しげな表情をしてぼくを見た。すぐに元通りの表情へ戻ったが、眉尻は下がったままのように見える。

 ぼくは彼女の手を握り返した。その冷たさは凍えてしまいそうだったが、いっそ温めてやろうと思った。


「熱いね。やけどしそう」


 彼女は苦しそうに微笑んだ。理解する。ぼくが思っているのと同じくらい、生者の体温は死者にはとても熱いのだ。死者が氷よりももっと冷たいと思ったのならば、きっと生者は太陽程に熱い。

 ぼくは謝った。しかし彼女は首を振った。


「いいの。構わない」


 彼女の眼差しは深く海へ向けられて、それは明日を見ているようにも思える。

 風に髪が攫われる。少し前まで青だった空に赤が挿し始めた。彼女の頬にも夕焼けのせいか、紅が挿し、まるで生きているように、まだ心臓が動いているように見えた。

 時計の音が聞こえてくる。刻一刻と数秒の狂いなく、針を進ませては時間を告げる。チッ、チッ、チッ、チッと心臓の音に呼応するように、秒針はやがてその時間を指し示そうとした。

 ぼくはもう言葉など要らないと思った。語彙力の無さとか、掛ける言葉が見つからないだとか、そんな理由もあったけれど、言葉では伝わらないと思った。

 彼女が死んでから初めて触った小さな手は、思わず手を離しそうになる程に冷たい。だけどぼくはしっかりと握った。彼女が動かなくなる最期まで、しっかりと。

 ――そして秒針は真上を指した。



「私のいない明日を、よろしくね」



 風が吹く。僕の頬に温かい水が伝って、風に流されて消えていく。

 彼女は最期まで笑顔を崩さなかった。少し眉尻の下がった笑顔。それが彼女の最期の顔だった。

 隣で草の軽い音を立てて倒れ込む彼女の死体の手を握ったぼく。やがて空に無数の星が浮かび上がるまで、その光景は崩れなかった。



 彼女の魂が永遠の安らぎと共に海の彼方、ニライカナイへと還っていきますように。


「――いってらっしゃい」



 最期の彼女の表情も、声色も、その時感じた感情さえ、ぼくは一生忘れないだろう。

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