‐re:on your side‐
学校に入ったばかりでもないのに期待と不安のような相反する感情が混じり合う始業式の朝。
休み間、学校に行っていない僕はなかなかに緊張していた。物事の始まりには始業式みたいなイベントが必要だと確認するにはちょうどとも言えるメンタルとも言える。
食事を終えて自分の部屋で一つひとつ確認するようにゆっくりと着替えを進める。頭の中ではいつ動作が突然に終わってしまってもおかしくないと思っているけれど、体はきちんと作業をこなしていく。不思議だ。
階段下から母親に呼ばれ急いで降りていくと、僕が一階に降りたと同じくらいに一人の少女が家に入ってきた。
「おはようございます」
真新しい制服を身に纏った少女は丁寧にお辞儀した。
「あら璃音ちゃん、髪切ったの? あんなに長かったのにすっかりおぼこくなっちゃって」
「おぼこい?」
璃音は髪に手をかける。その黒髪には赤いヘアピンが留められている。
「ガキっぽいってことだよ」
「えー」
母親から小突かれた。
「かわいいってことよ。まったく新学期だっていうのにだらだらして。よっぽどあんたの方がガキよ。璃音ちゃんも色々大変なんだからあんたがしっかりしないと……はぁ、こんな時にお姉ちゃんがいてくれたらねぇ」
父が母を呼んだ。
「はーい。じゃ、気をつけていってらっしゃいね」
リビングに下がる母に璃音は元気よく応えた。けっこうなことだ。
実際問題、帰ってきても一緒に学校に行けるわけでもないのに、姉の存在を心強く思ってしまう自分がいるから不思議だ。
「どーんっ」
靴紐を結んでいると、璃音がこちらになだれこんできた。情けないが造作もなくひれ伏された。
「何すんのさ!?」
「ワーン、ツー、スリー」
無邪気というか馬鹿っぽい璃音の声が耳の傍で聞こえる。僕は敵わないことを悟る。
「わかった。負けました」
せっかく敗北を認めたのに勝者がかちどきをあげるなり反応しないと負けた方も所在ない。
「ちょっと?」
朝っぱらから暑苦しいんだけど。
璃音はやはり何も言わずこちらを見ている。そのまなじりから眉間から疲れが見て取れる。僕は一回腕を上に伸ばしてから親指の腹でその眉をなぞった。こそばしそうに璃音は首を振った。まあ、当然と言えば当然だ。
璃音は髪に手を当てヘアピンの位置を確認し、もう一度こちらを眺めてくる。あまりの至近距離に目を逸らそうとしたその時、璃音の頬に涙が伝った。
「泣いてるの?」見ればわかるけれども。
「思ったよりもわたしって丈夫みたい。ばらばらになっちゃうと思ったのに」
璃音は泣きながら笑っていた。
「この泣き虫め」
「うん」
璃音はためらいなくうなずいた。やっぱり敵わない。どうしてこんなにしっかりしていられるのだろう。
意を決して口にする。
「ありがとう」
まともに目を見てお礼ができなかった。どうにかしないと。
「どういたしまして。んしょ」
璃音はようやく立ち上がり、手を差し伸ばしてくる。
「行こう」
「了解」
僕はその手を掴み立ち上がり外に出た。と、同時に相変わらずの夏日が襲いかかってきて思わず息が漏れてしまう。まだ夏休みが必要ではないかと思うものの諦めて歩を進める。
「うへぇ」
「だね」
同意しつつも璃音は全然苦にしていなさそうだ。
陰険な日差しを降り注ぐ太陽に向かってねめつけたいところだが、諦めて頭を垂れることにする。それはまた今度曇っている時にしよう。
信号で止まると璃音が訊いてきた。
「宿題ちゃんとやった?」
嫌なことを思い出させてくれるな。聞いてないことにしよう。僕は空に目線をやった。
「やってないんだ……」
「これまで夏休みの宿題を全部やってことなんてないよ」
「偉そうに言うことじゃないよ。先生に怒られたりしないの?」
「うーん、そこまで怒られてきた記憶はないな。たぶん怖そうな先生のはきちんとやってたんじゃないのかな」
「あまりそういう裏表のあることしない方がいいよ?」
「へーへーわかりました。以後気をつけます」
「あーなめてる先生にもそういう感じなのね」
心外だったので少し口調を強める。
「べつになめてるわけじゃないよ」
「じゃあなんなのさ」
璃音の追及に押し黙る。うまい言い訳が思い浮かばない。
「べつに責めてるわけじゃないよ。時と場合で態度が変わるのは当たり前だしさ。でもさ、なんか微妙な感じするじゃん」
素直に頷く。璃音はそういうやつだ。何にだって真剣に取り組む奴なのだ。いくらそれが僕にできないことだからといってそこでわざわざ反論するつもりもない。
僕が引き続き宙に視線を這わせていると、
「ねぇ」
「うん?」
「朝に月を探したらダメだよ」
「……なんでわかったの?」
傍から見ると空を眺めているだけなのに。
「わかるよ」
ちゃんとした答えにはなっていないけどばれてしまってはしょうがない。信号も青になっていることだし、ちゃんと前を向いて歩くことにするか。
だんだん人通りが増えてきた。陽光はなんでもあからさまにしてくるので、耐えられず手を離すことにする。誰かに見られてまで手を繋ぐなんてすることじゃないのだ。とくに璃音も何も言わなかった。
璃音を盗み見すると、母じゃないけどやっぱり幼く見える。
「何?」
盗めてなかった。
「何でも」
もちろん感想は口にはしない。
「嘘。絶対なにか思ってたよね?」
「ちゃんとついてきてるかなって確認しただけだよ」
「馬鹿にして。小学生じゃないんだから一人でも学校いけますよー、だ」
結果的に感想が伝わってしまった。
「へぇ、そりゃ大人になったね」
「ふーん」
璃音はぱたぱたと小走りで先に言ったが少しして止まった。ほどなくして僕も追いついた。
「どした?」
「えっと、あの交差点真っ直ぐだよね?」
笑ってしまった。
「そうだよ。やっぱり大人には早かったか」
「何を偉そうに。このくらいの道を覚えるなんて小学生でもできるし」
それができなかったのはどこのどいつか。
「べつに憶えてなかったわけじゃないから。ただ最短距離かどうかわからなかっただけだから」
勝手に釈明する璃音。
「まー、そーゆーことってあるよね~」
「うわ、そういうバカの仕方するんだ。性格悪」
辛辣な言葉に僕はため息をついた。
「どーせ性格に裏表ありますよ」
「えーそういういじけ方するんだ。なんかひどいこと言ってごめん」
璃音は急に内省的になる。その態度にはどう対応していいかわからない。
「べつに気にしてないよ」
「絶対気にしてるじゃん……」
申し訳なさそうな璃音にふたたび否定しようとも思ったが、逆効果になりそうなのでやめておく。こうなると璃音は何でも悪い方向に考えてしまうのだ。どれだけ柔らかく伝えようとしても無駄。むしろ逆に強めにいった方がいい。それが最近わかったことだ。
「要は璃音が自分自身を信じるのか、相手の言うことを信じるかって話でさ。僕が言うことを信じられないならそれでいいよ。もう一度言う、僕は気にしてない」
「でも顔はおこ――」
「どっちを選ぶの?」
「どうしてそんないじわる言うかな」
「いじわるだからね」
「その言い方はずるい」
「ずるいね」
「性根腐ってるよね」
「そうかもね」
「これは叩き直さないと」
なんでそこで拳を掲げる? もしかして物理的な話なのか!
「いや、腐ったものは叩いても直らないんじゃない――って」
背中をしばかれた……グーじゃなくてよかった。
「背筋伸びた?」
「うん、すごく」
そう言わないと二発目がありそうで怖い。
「ほんとかなー? えいっ」
またしばかれた……。
「どう治った。って怒ってる?」
「痛いんだから当たり前だよ」
「ごめん……」
「なんでさっき怒られたのに、また怒られるようなことがするのか理解不能だよ。それって謝ってるポーズだけなんじゃないの。璃音はそういうとこ本当に子どもっぽいよね。身長も低いし」
まあ謝るポーズは璃音じゃなくて僕自身にあてはまることなんだけど。
「なんでそういう人が気にしてること言うかな」
「あ、悪かった」
あまり身体的特徴とかを馬鹿にするのはよくない。それは僕も言われたら特に嫌なことだ。
「ツーン」
どうやらへそを曲げてしまったらしい。
「あの」
「ツーン」
「ちょっと」
肩に手を置くなりはねのけられてしまった。へその曲げ方はかわいいがどうやら本気で起こっているらしい。
さて、どうしよう。反応してくれないとなると僕はどうすることもできない。ただ単に許される時まで待っているしかない。でもさすがに手をのけるほど怒ることはないじゃないか。最初に手を出したのはそっちなんだから。どうしてこうもうまくいかないかな。べつに璃音と喧嘩したいわけじゃないのに思い通りにはいかない。どこまで離れるとよそよそしいのかどこまで近付けば馴れ馴れしいのか距離感がわからないのだ。
相手の気持ちが手に取るようにわかればいいのに。そんなことを思いついてしまうなんてわれながら愚かしいな。子どもなのは僕の方だ。
交差点に差し掛かると璃音は右に曲がり出す。
「どこ行くんだよ?」
わざわざさっき確認したのに記憶力がないのか?
「寄り道」
「そんな時間ないって」
「寄り道して遅刻するのは大人でしょ」
「はい?」
どんな価値基準持ってるんだ。それは子どもだろう。反抗期とかそういうの。
「だから寄り道するの。最初は始業式だし大丈夫でしょ」
「璃音は転校生でしょ」
「あっ、そうだった」
なんで僕よりも緊張感がないんだ。
「初日から遅刻なんて悪目立ちにもほどがある。先生にも迷惑かかるし」
「うーん、どうしよ」
「どうしよじゃないよ。行くんだよ。少なくとも僕は先に行くから」
「えー。ちょっとつき合ってよ」
璃音は少し駆けて向こうに行く。
「おいおい……」
勘弁してくれ。この暑さの中、無駄に動き回りたくないぞ。
「行こうよ」
璃音がこちらを窺っている。僕がそちらに行くとも確信してないようで、表情が少し硬い。おそらく自分でもわがまま言ってるってわかってるんだろうな。でもそういう行動をしてしまうというのはどういう心境なのだろう。気持ちが把握できなくてもどかしい。こうなると僕がどうしたいかにもよるような気がする。
さてさて、どうしたものか。
「どうしたの?」
僕は意を決する。
「何でもない、何でもないよ」
僕は足を一歩、踏み出した。




