‐behind the mask‐
決戦の朝。
随分眠りが浅かった気がするけど、緊張していたし無理もないだろう。のっそり体を起こして、カーテンから少し外の景色を除く。
なんかいつもと家々の姿が違って見える。静かであるけれども恐ろしいものを隠しているような。親しみと厳かさが混じりあったような。気分が落ち着かない。鼓動も早くなっている。
いつもならすぐ一階に下りていくのだけれど、随分読んでなかったマンガを取り出して読む。小学校の頃に買ったマンガ。笑いどころできちんと笑えるのだけれど、少しの寂寥感が残る。別のマンガに手を伸ばす。そういうことを数回繰り返してから決心を固め一階へ。
果たして璃音の姿はそこになかった。珍しい、というか初めてのことじゃないだろうか? とりあえずテレビを点けてチャンネルを変えていくのだけれど、高校野球も終わってどれも見る気がしない。
少しため息が零れた。どこかで璃音が降りてきてほしくない自分がいることに気づいた。だめだ。こんなことでどうする。これが最後の戦なのだからしっかりしないと。これで璃音の願いは遂げられる。それでいいじゃないか。
発奮してみてもどこか空虚を感じる。時計の音が嫌味の様に大きく音を立てる。リビングのドアが開かれた。
「遅かったね、り――」
目の前にいたのは確かに璃音だった。しかしその髪は肩にもかからないくらい短くなっていた。
「どうしたの!? それ」
慌てて駆け寄る。
「えっと……イメチェン?」
璃音は困ったように笑いながらに頭を撫でた。
「イメチェン? えっと……どういうことだ? ちょっと待って。イメチェン……うん、それはいいんだ。イメチェンは」
一体なにがダメなんだ。べつに璃音も女の子なんだからそういうこともあるだろう。自分でも何に狼狽しているのかわからない。いや、急に髪切ってたら驚いて当然だ。
「そうだ、戦い。戦闘の時にヒットポイントが一つじゃないか」
言ってから案外的を射た指摘だと思った。
「あー、今の状態だとそうだね」
「そうだねじゃないよ」
「でもそれは大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだ! ちっとも大丈夫じゃない。明らかに不利じゃないか。何を考えているんだ」
「ごめんなさい……」
見るからに萎れる璃音。
「いや……僕も怒鳴って悪かった。璃音の実力は璃音が一番知っているし、璃音が大丈夫っていうならそれは大丈夫なんだろうし。だから、璃音は悪くない。うん、そうだ」
必死に自分に言い聞かせる。
「それに必殺技もあるって言ってたし。大丈夫だ」
僕は元のテレビの前に座り直す。
「そういや、朝ご飯まだだよね? 作るよ。腹が減っては戦はできぬ、だからね」
できる限り落ち着いた明るい声音で話す。
「えっとね、マスター」
背中越しに璃音が語りかける。
「うん?」
「あのね、終わったの」
「終わった? 何が? ご飯?」
二度寝でもしたんだろうか。
「もうわたしの戦いは終わったの」
「終わった? いや終わったことはさっき聞いたから……えっと、ごめん。混乱してる……」
どうしてこうやって次々と僕の頭の中を掻き乱すような事実が出てくるんだ。やっぱり世界はほんの少し眠っているだけでも僕を置いて回っている。世界なんて最悪だ。
混乱した僕が答えを求めてなのか愚かにパソコンに手をかけたが、璃音に手で押さえられてしまった。璃音は首を振る。
「あのね、話をよく聞いて。わたしを見て、話を聞いて……戦いは三度で終わりなの」
「そう、なんだ」
今まで戦いは何度あったんだっけ? 一つ、二つ、確かに三回だ。
「でも、ちょっと待って。まだ整理できていないんだ」
「うん。当然だよ」
「そういや最後の敵は? いたよね?」
「うん。でも、戦いは終わったの。戦いはもう終わり」
「終わった……?」
天井を仰ぐ。
「でも、どうして?」
「それはご飯を食べてからにしない?」
「……うん、そうだね」
圧倒的に無知な僕は決定を委ねるしかなかった。
適当に朝ご飯を作って食卓に並べる。二人無言で食を進める。
「えっとね、話すね? わたしは次のステージ に行くための試練として戦っていると言ったよね。だからね、もう次のステージに行けることになったってこと」
つまり、飛び級みたいなものか。
「わかった?」
「うん。何となく」
無理やり飲み込んだ感じだけど。
「ちょっとマスターには悪いかもしれないけど。肩透かしというか」
「ほんとだよ。僕はそのせいで早く起きて、ずっと肩ひじ張ってたんだから」
「ごめんね?」
「別に璃音が謝ることじゃないさ。良いことじゃないか。そっか。終わりかぁ」
胸をなでおろし、またしても僕は天井を仰ぐ。
「それじゃあさ、祝杯でもあげようよ。さすがにお酒を飲むことはできないけど。ほしいものとか、行きたいところとか、ある?」
「いや、いいよ。家でこうしてるだけで」
「そっか。それは逆に困るんだけどな」
「ふつうと同じでいいんだよ。ふつうで」
「わかった」
了解してみるもののやはりどこか腑に落ちない。何か大切なものを置いてきたような気がする。
「マスター」
「うん?」
「やっぱりダメ?」
「ダメっていうことはないけど、ってなにがダメって聞いてきたかわからないけど」
「こんなので終わっちゃうの」
「それは璃音にはどうしようもないことでしょ。それにいいことだって言ってるじゃん」
「じゃあ、もう少し嬉しそうにしてくれたら嬉しいかも」
「こう?」
笑顔を作ってみる。
「ぎこちない……」
「もとからあんまり笑顔が上手じゃないんだよ」
「笑顔って上手とかそういうものなの?」
「写真の時とか、そういうのあるじゃん?」
「ふーん」
「悪かったよ。でも、本当に今は驚きの方が先行してるんだ」
「うん、仕方ないよ。でもまたいつものマスターに戻れるといいね」
「待っといて。多分、すぐに直ると思うけど」
「待っとこうっと」
「待たれるといつまでも整理できなさそうなんだけどね」
「えーなにそれ」
「待たせるの苦手なんだよ」
「ふーん、変なマスター。わたしはいつまでも待つのに」
「そういうわけにはいかないよ。やっぱりこういう時は気分転換に外に出る方がいいと思うけどね」
「マスターが決めてくれるなら外に出てもいいよ」
「璃音の行きたいところじゃないといけないだろ」
「マスターが選んでくれる方が嬉しいけどなぁ」
「そう言われると困るんだけどなぁ」
「嬉しいんだけどなぁ」
「困るんだけどなぁ」
妙な譲り合いが始まった。どちらが先に折れるかは明白だ。
「マスターが決めてよ」
「……わかったよ。昼くらいには決めとくからさ。璃音もそれだけ髪が短かったら隠しやすだろうし。違った。メイド服なんだった」
危ない、また同じ轍を踏むところだった。
「じゃあ、着替えよっか?」
「うーん、あ、でも、今髪結んでないし着替えられないんじゃない? その結び目が解けるとダメなんでしょ? あー、それだったら前に色んなところ行っておけば良かったね」
「マスター、髪は伸びるし、今だってリボン結ぶことはできるよ?」
「あ、そうか」
「ちょっとは考えよう?」
「悪かったな。単純思考で」
「そんなことは言ってないけど」
「否定はしないけど?」
「マスター、自分を卑下するのはやめようよ。自分の主人を貶める従者なんていないよ」
「なんか一番最初の戦いで貶められたような……」
「ごめんって。根に持ってるなぁ」
「別に根には持ってないけどさ。そういうこともあったよねっていう感じで」
「そうだね。色々会ったね」
「随分前のように思えるけど。ここ二三日のことなんだよなぁ」
「マスターいちいち感慨深そう」
璃音が笑う。
「ほんとに感慨深いんだよ。色々ありすぎて頭がパンクしそうだったし、それで突然のラストだもんなぁ」
「だから、ごめんって」
「いや璃音は悪くないんだって」
「そっか」
「そうだよ」
二人とも息をつく。
「なんかさ、今までかなりだらだら過ごして来たからさ、急にこういうことがあって、なくなるっていうのが実感が湧かないんだよ。それはそれでだらだらはだらだらでいいって思ってたし」
璃音が頷いてくれる。
「そりゃ後になってからだからこんな風にわかりきったように言えるんだけどさ。色々あるのは色々あるなりには楽しいんだなとは思った。なんか言葉足らずで頭の悪い感想だけどさ」
「うん」
璃音はふたたび頷いた。
「うんって、頭悪いって思ってたのか……」
「そうじゃなくて話の全体に同意してるの」
「そっか。でさ、まぁ、でもやっぱり戦いとかはこりごりだよ。璃音に迷惑かけるだけだし」
「マスターはよくやったよ。それは何度でも言えること」
「わかった。それは素直に受け取ることにして、それでももう璃音の傷つく姿は見たくないな」
「わたしもマスターが傷つく姿は見たくない。もう戦いはないけど。わたしだってマスターに何度も危険な目に遭わせたっていうのは不覚なんだよ」
このままお互いに非を認めていても埒が明かない。
「じゃあさ、やっぱり結論は二人ともよくやったっていうことでいいよね」
「うん、それでいいと思う」
「うーん、疲れたー」
僕は伸びをする。ここにきてお互いを甘やかしても別に罰はくだらないだろう。
「お疲れさま」
「うん。璃音もお疲れさま」
「はい」
「徐々に達成感が出てきた」
「見ればわかるよ」
璃音が笑い、僕も笑った。
「パーティを開きたいなぁ……」
自然と口から零れてしまった。
「パーティ? 二人で?」
「だって、二人しかいないんだもの。それに二人いれば十分。喜びを分かち合えるんだから」
「そうだね」
璃音はしっかりと頷いた。
「それじゃあ、昼はケーキでも買ってこようかな」
「さんせー」
「じゃあ、決まり。でも、やっぱりメイド服は目立つよなぁ」
「じゃあ着替えるよ」
「うーん、そうしてくれた方がいいかも」
「どんなのがいいかな?」
「なんでもいいよ」
「何でもいいってことはないでしょ。じゃあ、このままでいこっかなー」
「わかったって。考えるって」
姉の服は洗わないといけないしサイズも違うから却下だけど、選択肢が多すぎるから参考にしようか。いや、なんかそれは嫌だな。璃音は璃音らしいのがいい。
「どう?」
「うーん、なかなか決められないなぁ」
「昨日の帽子被っていくんだよね? それに合わすとか」
じゃあ、白いワンピース? 何か狙い過ぎだし似合いすぎるしやめておこう。結局、目立つことになってしまう。だから地味な方がいいんだよな。じゃあ、やっぱり姉のを参考にするか。うーん、難しい。こういうのをごちゃごちゃ考えるのが嫌だから制服の高校を選んだっていうのもあるくらいだし僕には鬼門だな。
一時間後、僕の横にはメイド服の璃音がいた。通りがけに見てくる人々。
結局、決められなかった……なんでこうも優柔不断なのか。いやこれは世間への小さな抵抗と考えよう。うーん、そんなふうに捉えてみてもしょうがないか……。
僕の煩悶を他所に璃音はわあとかおおとか感嘆を上げながら買い物を楽しんでいる。
「マスター、ケーキ買うところにあてはあるの?」
「特にない。璃音がいいと思ったところ決めてくれていいよ」
「ええー、そんなに食べられないよ」
「そんなにいいところがあったんだ……」
「うん」
「特にいいと思ったのは」
「順位つけられない」
「じゃあ、僕が選ぶよ」
僕は急ぎ気味に店とケーキを選んだ。
「ちょっと、他に買い忘れたものがあるし、先に帰っといてくれる?」
「わたしもついていくよ」
「早くしないとケーキが痛むから。誰にもついて行っちゃだめだよ?」
「子どもじゃないんだから大丈夫だよ」
「オッケー、頼んだよ」
半ば押し切る感じでその場を離れる。
☆
思ったより時間がかかってしまった。やっぱり選ぶことは僕にとって鬼門だ。それでも一応丁寧には選んだつもりだし、璃音、喜んでくれるかな?
家に帰ると璃音はきちんとリビングで待っていた。
「ごめん、遅くなった」
「ほんとだよ。迷子になってたりしたの?」
「ごめんごめん」
「それじゃあ、準備しよっか」
「とは言ってもケーキだけだけど」
「それは言わない約束」
「あまり散らかっても片付けが大変だからなぁ」
親が帰って来るまでに終わらせないといけないし。
「片付けなんて気にしなくていいよ。どっちにしろわたしがするんだし」
「いやいや、璃音に任せておいたら逆に散らかるかもしれないし」
「ひどい」
「ごめんごめん」
「全然謝っている風には見えないんだけど?」
「全然怒っているようには見えないんだけど?」
一拍あって二人して笑った。喜びで完全に浮かれているな。あるいは緊張して空回りしているのかもしれない。朝とは別の感じで鼓動が早くなっているのがわかる。
璃音が包丁を取り出す。流石にホールを買うわけにはいかず、二つのケーキをより多くの種類を食べるために切り分けるのだ。ケーキにあてがったところでこちらを窺ってくる。
「うん?」
「ケーキくらい切れますから」
「別に何も言ってないよ」
「包丁なんて適当にしても切れるし」
そのおおざっぱさが怖い。ちゃんと引かないと切れないぞ。とはいえ特に不具合が起こることもなくケーキは切り分けられ、準備が整った。
「それじゃあ」
「うん」
「「乾杯」」
オレンジジュースの入ったグラスを鳴らす。
「はー、なんか疲れがとれる」
「なにそれ? 今日は何もしてないよ?」
璃音がおかしそうに笑う。
「いいんだよ。なんか疲れたんだから」
まだイベントが残っているけれども。
「ふーん、疲れたんだ」
「いや、別にそういう意味じゃなくてさ」
「そういうってどういうこと?」
追及に窮していると璃音が笑って解放してくれる。ケーキに落としていた目をふと上げてみると璃音がこちらを見ている。
「なに?」
「なに?」
「見てたから」
「見てないから」
「見てたよ。それはさすがにごまかせない」
「ほんとだね。見てた」
「やっと白状したか。で、なに?」
「別に見てただけだけど」
「そっか」
気を取り直してフォークをふたたびケーキに、とその前に璃音を見るとまだこちらを見ている。
「なにさ?」
「別になにもないよ?」
「見てたじゃん」
「見てただけ」
「ふーん」
今度こそケーキに手をつける。
「マスター!」
「璃音」
「はいっ」
璃音が無邪気に笑うのを見て、僕も自然と顔が綻んでしまう。
ケーキを食べ終わり、一息つく。
「あー、ずっとこうしていたいなぁ」
「ずっといれるよ」
「本当? 璃音はこの後どうするの?」
お腹が一杯でなんとなく言葉が零れた。
「この後って?」
「あー、次のステージってなんなの?」
「それは、秘密、かな」
「そっか……」
なんか空気が重たい。もし、もしというかなんというか……僕からは口に出せない。
璃音を見ると璃音もこちらを一瞥するだけでまた目を落とした。
やっぱりもし僕が何か言わないといけないのなら言うことにしよう。璃音が何か言ってきたら僕はそれを受け入れよう。無理やり心を整理した。どこかで知った形をまねただけの整理だ。
「あのさ、親が帰ってくるといけないからさ、先に渡すけどさ」
「渡す? 親なんか帰ってこないけど。あ、もしかして、プレゼント?」
「えっ、そうだけど。親が帰ってこないって?」
「だって、マスターがいなくても平気って言ったから。わたしがいるし。あのね、わたしもマスターが良ければなんだけど――」
「親が帰ってこないってどういうこと?」
「今言ったばかりでしょ。わたしがいれば親なんていなくてもいいっていったから消しちゃった」
「消した?」
「うん」
「どういうこと?」
「だからいないことにしたの。今はマスターに親はいないし、わたしはマスターの従姉妹っていうことになってる」
「いや、よくわからない……」
「うーん、そのままの意味なんだけどなぁ」
「璃音が、現実を変えたってこと?」
「そう。わかってるじゃん」
「じゃあ、待って。このままでいられるっていうのも」
「学校も始まらないってこと」
「……そうだ、最後の戦いももしかして――」
「マスターが嫌だって言ったから。そうだよ。マスターが戦いたくないって望んだからだよ。色々頑張ったんだから。マスターに褒めてもらいたいから良い子にもなったし」
「……ということは、璃音は僕が言ったから性格も変えたっていうこと?」
「うんっ」
璃音は無邪気に答えた。
なぜ璃音はそんなことを、いや、それは僕が言ったからだ。でも、そんなの……。
「違うよ。こんなの違う」
「うん?」
僕は璃音に近づき、覆いかぶさる。
「ちょっと、マスター? そりゃわたしも嬉しいけども順序ってものが……」
僕の震える手が結び目を少し解いたところで、璃音は素早く手を払いすり抜けていく。
「何、するの? マスター……」
白々しい困惑だ。僕が無言で近づくと、璃音はただ首を横に振った。
ゆっくりと間合いを詰める。が、急に璃音がリビングから出ていく。
後ろ手に閉められたドアを開けた時、目に映ったのは璃音が階段前の壁にへばりついているところだった。
僕が駆けると璃音も急いで階段を踏み鳴らしていく。ソックスの上滑りした音をともなって慌ただしく白い蝶が逃げていく。 やがてあろうことか蝶は僕の部屋に迷い込み、ついに僕は地面に押し倒した。
僕も璃音も肩で息をする。僕が言葉を発することができなければ璃音も何も話すことができない。
璃音が一つ息を飲んだ。
「マスター、どうして……?」
問い掛けられた相手は息を切らしたまま答えない。ただ目の前の少女を見つめる。
空調の効いていない部屋は夏の空気を前面に押し出し額にはすぐさま汗が滲む。
璃音の頬には少しあざができていた。おそらく壁にぶつかった時のものだろう。かわいそうだが僕にしてあげられることはない。
「そうしたら……そうしたらさ、マスターの願いどおりにしたら、愛してくれる?」
どこか不安そうな璃音の表情。心配なんてする必要ないのに。
「崇拝するだろうね」
自分の口角があがるのを感じとった。精一杯の虚勢なのだろう。
「それなら、しかたないね」
璃音は泣くように笑った。笑うように泣いたのかもしれなかった。
僕と璃音はお互いだけを見る。いつもそうだったように窓から入ってくる光だけが璃音を照らしていた。
「つらそうな顔しないでよ」
これでいいんだから。
「マスターもね」
「僕はそんな顔をしてないよ」
「わたしだってしてないよ」
そしてまた、沈黙が訪れる。ただ璃音の顔を見ているだけなのに、頭が逆上せるようで、それができずに視界が少しぼやける。ふいに璃音の頬には涙が伝った。
「泣いてるの?」
聞かなくても見ればわかるし、そりゃこんなひどいことしてるから当然か。僕は何を問うているんだ。自分の底抜けの愚かさに滅入る。
璃音は答えず、ただ僕の頬を拭った。苦しげな笑いが覗けた。
「しょうがないなぁ、マスターは。最後に泣いちゃうんだもの。泣くのはわたしの役目なのに」
「え? 何言って……うわっ」
僕は泣いていた。泣いていたらしい。
「え? なんで……?」
自分で何が起こっているのかわからない。どこまでも涙が溢れてくる。僕は一体どうしたというのだ。
璃音は上体を起こすと僕の頬にそっと手を添えてきた。僕は自然と自分の手を重ねていた。小さな手。ここまで僕を連れてきてくれた手。紛れもなく璃音の手だった。璃音が確かにそ
こにいた。
涙は止めどなく溢れた。意味が解らなかった。
璃音はその手を引き抜くと、僕に覆いかぶさるように抱きついてきた。僕はただ茫然として璃音も何も言わなかった。ただ、璃音の息遣いを肩に感じる。
璃音の腕は力強く、やっぱり璃音はそこにいた。だけどなんて身勝手なのだろう。自分で招いた結果であるというのに。こんなことは許されるわけがない。
璃音の腕がさらに引き締められた。
「……苦しいよ、璃音」
「知ってるよ」
いや、知ってるじゃなくて……体勢はこのままなのか。
「苦しい時は苦しいって言っていいんだよ。寂しい時は寂しいって言っていいんだよ。だってマスターはこの世界に生きてるんだから。くじけることがあったって全然おかしいことじゃない。大丈夫、大丈夫だよ」
僕も腕に力を入れ、璃音の存在を一層感じた。ただ璃音がいた。暑い、熱い。だからより強く抱きしめる。
「もう、痛いよ。身体がばらばらになっちゃいそう」
「だから?」
「だから、もっと……!」
とはいえさすがにもうこれ以上強くすることはない。ただなぜか二人おかしくて笑うだけだった。もう頭が相当に茹ってしまっている。
璃音が唐突に呟いた。
「始まりを、間違えたのかな」
「急にどうした?」
「答えて」
「間違えたのかもしれない」これが正解じゃないことはわかる。
璃音が改めて手に力を入れた。
「急に変なこと――マスターみたいな言動してごめん」
「おい、ひどいな」
「間違ってる?」
「いや、合ってるけどひどいな。始めからそういえば貶されたっけ」
「根に持ってるなぁ」
「そう考えるとひどいメイドだ」
「こうやって主に乗っかかってるし?」
「それは許す」
璃音がおかしそうに笑った。振動が身体を伝って響く。
「マスターのさじ加減一つだね」
「そんなものだよ」
「おお、急に暴君めいてきた」
「璃音に言わせれば僕はずっといたいけなメイドに命令してきたんでしょ」
「そんな、拗ねないでよ」
「拗ねてません」
「よしよし」
璃音が頭を撫でてくる。なんか悔しい。
「やっぱり璃音には敵わないな」
「評価してもらえたところなんだけどさすがにやばいかも。くらくらしてきた」
「頑張れ」
「まだ頑張れっていうの? 今までそんなに頑張ってなかったかなぁ」
「いーや、頑張ったよ」
「頑張った?」
「すごく頑張った」
「そっか……」
璃音は声をひきつらせながら泣く。肩が濡れるのはもはや涙か汗かわからないわけだけど。
璃音は涙に声をくぐもらせながら言う。
「マスター、わたしやった、わたしやったよ!」
「そうだよ。璃音はやったんだ。すごいよ」
「マスターがいるということが、わたしをここまで連れてきてくれた。マスターのおかげ」
「璃音がすごいんだよ」
「ねぇ、気づいてる? もうわたしは自分を支えられないんだ。マスターが手を離せばもう一貫の終わりだよ。マスターはわたしにとってなくてならないものなんだよ」
軽くめまいがした。
「どうしてそんなこと言うんだよ。そんな、僕が困るってわかってるくせに」
「うやむやにするのはもう止めたんだ」
「そんなの……」勝手じゃないか。
「わたしずっと怖かったんだ。思ってることをそのまま言ったらマスターが手を離しちゃうんじゃないかって思って不安だった。弱音を吐くとマスターはわたしに失望するんじゃないかって思ってた。でもマスターは弱いわたしを受け止めてくれたよね。それで気づいたんだ。わたしの強がりはマスターを信じていないことになるんだって。わたしはマスターを信じているから弱音を吐くよ。マスター、わたしもう限界なの。マスターを助けることはもうできない。こんなダメなメイドなんだからどうしてくれたっていいからさ。マスターがどうしたいか決めて」
僕の番がやってきた。どうすればいいかはもうわかりきっていることだ。もう重力に逆らうことはできないのだ。
「璃音、僕も正直に話すよ。僕もずっと怖かったんだ。夏休みに入ったら何かが変わるって思ってた。時間がたくさんあれば普段できないことの一つや二つできると思ってた。でも何もできないままどんどん日が過ぎていって何も変わらないことがわかった。何も変わらないまま、学校が始まってしまうんだってわかったんだ。怖くてしょうがなかった。それで変わらないのは僕が何もしてこなかったせいなのに、世界が頑固に変わらないっていうふうにした。僕も世界も変わらない、そういうことにした。でも、璃音」
「うん?」
「璃音は僕の声に応えてくれたのよね。それなのに僕は璃音が僕を巻き込んだことにして、結局、僕の見せる世界は何も変らないってことにした。始まりを間違えたのは僕の方だ。僕は自分が何かをしてそれを失敗するところを見られるのが怖かったんだ。それで何もしてこなかった。璃音はそれを自分のせいにしたけどわかってる。僕がもっとしっかりしていれば璃音はちゃんと輝けたはずなんだ。璃音はこんなふうにならなくて済んだ。本当にごめん」
だからもう、終わりだ。
僕の言葉を受けて、璃音はくすっと笑った。
「なんで笑う、の?」
「だってマスターがわたしのことをめちゃくちゃ美化してるからさ。この数日一緒にいたからわかると思うけど、わたしはそんなに良い子じゃないよ。これまでずっと嘘ついてきたし、たくさんの隠し事をしてきた。マスターはまた自分を完全に悪いことにするために、わたしを完全に良い子にしてるんだよ」
核心をついた璃音に発言に僕は狼狽えた。でも璃音が明るい調子なのでなんとか気持ちを抑える。
「マスター、自分の気持ちを正直に話して。自分で正直に話すって言ったんだからさ」
言葉を口にしようとするもえずきそうになる。呼吸が乱れる。弾む息をなんとか押しとどめる。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ」
結局、璃音に勇気づけられて僕は口を開く。
「僕は、変わりたい。変わりたいんだ。もしかして力不足かもしれないけど、何も変えられないかもしれないけど、僕はそこにむかって努力したい。失敗することとか、変わった結果が悪いかもしれないこととか、そんな色んなことを考えるととても怖い。でも僕は変わりたい。変わって、自分の大切なものを自分の手で掴みとりたいんだ。もう眺めているだけじゃ嫌なんだ。大切なものに正面きって向かい合いたいんだ」
今度こそ言えた。そう思う。
「うん、マスターならできるって信じてる。頑張れ、マスター。大好きだよ」
思いかけない告白に僕は体を硬直させた。
「ちょ、何、その反応。傷つくんだけど」
「いや、あまりに唐突だったからさ」
「最後の方とか自分でも恥ずかしいくらいに表情ゆるゆるだったと思うんだけど。まったくマスターは自分の気持ちにも人の気持ちにも鈍いよね」
「ごめん。でも、僕も――」
「別に無理して言わなくていいよ。一回くらいちゃんと口にしておこうって思っただけ。そんなことよりわかってる? マスターはこれから色々やらないといけないことがあるの」
「うん、わかってる。今まで色んなことを棚上げにしてきたからね」
「でもわたしはこれからのマスターはきっと大丈夫って思ってる。マスターはきっと変われる」
「ありがとう」
「よし、最後がごめんじゃなくてよかった」
「めちゃくちゃ信用ないな。大丈夫。ちゃんと信じて。始めはうまくいかないかもしれないけど頑張るからさ」
「うん、信じてる。じゃーね」
「じゃーね」
結び目に手を回す。痛かった。胸が張り裂けそうだった。でもやらなければならないのだ。このままだとお互いを駄目にするだけだ。最後くらいきちんと自分の意思で終わらせないと。
僕は手に力を入れ、迷いを挟み込まないよう一気に引き抜いた。
視界の端で璃音がどんどん光に包まれていく。苦しくて目を閉じたかったけど、最後まで、どうか最後まで。
けれど、それも意味が無かった。視界なんて見えていないのも同然だった。目が伝えるのは情景ではなく熱さだけだった。
光の粒が次第に拡散する。儚い夢の終わりを告げる。
ああ、これで終わりだ。終わって、それで……。
またいつかのように耳鳴りと頭痛が襲ってくる。どうやら正しい手順を踏んだらしい。安堵のなか意識が遠のき、バランスを崩し倒れ込む。璃音がいなくなった今、このまますべてが崩れ去り、地球の底まで抜けてほしいと思った。どこまでも落ちていけばいい。
……。
…………。
………………。
「うん?」
「えっ? えっ?」
間抜けな声が響き合う。
璃音がいまだに僕の腕に収まっていた。それも一糸纏わず。すっぽんぽんである。
「えっとえっと――」
「見ないで!」
「はいっ」
僕は眼を瞑る。
「……」
「……」
って一体この後どうしたらいいんだ。僕はいつものごとく相手の反応待ちだ。
「どうしよ」
「どうにかしてよ」
「だってそっちが上にいるから動けないんだもん」
「僕だって目、瞑ってるしわからないよ」
「うー、苦しいよぉ」
熱気によって二人とも消耗しているのがわかる。
「布団、とりあえず布団とって」
「う、うん」
布団に入れば熱気が遮断できるわけでもなくむしろ増進。僕は目を開いて布団から出ようと努力する。
「ひゃっ、ちょ、どこ触ってんの?」
「わ、ごめんっ」
「というか何してるの?」
「僕は外に出るから」
「よくわからないけどわかったっ」
ようやく外の空気を吸い込むことができるに至るが息は絶え絶え。
「璃音、布団に包まってる?」
「うん。暑いけど……」
「じゃあ、そっち向くね」
僕は振り返り璃音を見た。
その黒髪の少女は、肩で息をしながら目を見張っていた。なんだか体が重たそうだ。
「て」
「て?」
「手をちょうだい……」
僕は璃音の傍に寄り、手を差しだした。璃音が布団の隙間から出した手を繋ぎ合わしてきた。だけど、やがては俯き肩を震わせ始め、遂には声まで漏れる。
「わからない、やっぱりわからないよ」
「えっと、その、ごめん」
僕も何が何だかわからない。
下から母親が呼ぶ声が聞こえる。晩ご飯の支度ができたようだ。僕はとりあえず返事をして、手を離す。
「あっ」
「ちょっと待ってて」
姉の部屋に入って自分の部屋に戻る。
「えっと、これ、姉のなんだけど良かったら着て。気に入らなかったら他のでも何でもいいし」
ご飯を食べている間も璃音のことが気にかかって、味もよくわからなく何だかすぐにお腹が一杯になった。われながらわかりやすい反応だ。
食事を終えるとすぐに部屋に戻った。璃音は僕の服を着てベッドの上で体育座りになっていた。
「確かに何でもいいっていったけど……」
「あまり物音立ててもいけないし」
いつもの癖でしっかりドアを閉めてしまっていた。だけどそれなら姉のでよかったんじゃないか。そう尋ねる。
「この服、けっこう洗ってないんじゃないの?」
いちいち細かい。確かに姉の服はだいぶ洗ってないけどさ。
「ごめん、僕の考えが浅かった」
「シャツぶかぶかで驚いた」
璃音はひざに顔を埋める。小さなフォルムがさらに小さくなり、黒い髪がいやに目にこびりつく。そして僕にはすべてが終わってしまったことがわかった。
僕はどこに座ればいいか迷ったけど、とりあえずベッドを背もたれにした。ずっと璃音を正面から見ているのもなんだかできそうにない。
すると璃音も隣に腰を下ろした。二人で無言のままでいるとなんだか緊張する。璃音の息遣いがわかって、自分の呼吸を意識すると急に息苦しくなる。
「暑いし冷房でもつけよっか?」
「ん」
僕は冷房つけるとまた璃音の隣に座った。
やっぱり二人とも何も話さないで、ただ座っている。何を言っていいかわからない。僕は何ともなしに見上げると、時計が目に入った。時計は淡々と自分の役目を果たす。ちょっとくらいさぼってくれてもいいのに。
璃音が言う。
「そうだね、早く寝ないと。生活リズム取り戻さないといけないね」
「うん、そうだね」
どうして璃音はそんなことを気にするのだろう。そんなことは些末に思える。そんなことはまったく問題じゃない。僕たちの問題は明日じゃなくて今ここの話なのだと思う。
「でもね、ちょっと待ってね。そうじゃないと、わたし……」
璃音は泣き出した。小さな小さな嗚咽が漏れる。
「璃音?」
「見ないで」
「でも――」
「見ないで!」
「ごめん」
璃音はベッドの奥の方に滑り込み、タオルケットを引き寄せた。
罪悪感が胸に募り、僕は中空に視線を漂わせた。償いたいけど決して償うことができず、無力な僕は罪悪感だけを手放さないようにするしかない。
「ねぇ」
「うん?」
「寝ないの?」
璃音の涙声にまた僕の胸は締めつけられる。
「うん、そろそろ寝ようかな」
「となり」
「となりに行けばいいの?」
向こう側を向いている璃音は頷くだけして答えた。
反対側を向いて寝ころぶ。何かがすり減ったように感じる。疲れているのだけれど、全然眠れそうにない。ただ璃音が後ろで泣いているのだけがわかる。僕はそれにどう対していいかわからない。ただなぜか土下座したく思う。いっそ僕を責めたててくれればいいのに。そうすれば僕はどんな償いでもする。でも璃音が求めないのに僕が勝手に償うことはできない。ただどうしていいかわからずにいる。
「璃音。ごめん、僕は――」
無言の空気に耐えかねた言葉は璃音がシャツを掴んできたことで途切れてしまった。僕はもう語ることはできない。
璃音は頭を押し当ててくる。後ろから街灯の光が差しているけれど、振り返ってカーテンを閉めることはできそうにない。人工的な光が容赦なく降り注ぎ何の変哲もない僕らを浮き彫りにしていた。起きていても何も変わらない。ただ時計の針が進むだけ。どうやらもう夜を過ごすことはできないらしい。
寝よう。夜は寝なければならないのだ。




