6.今更ですが、何者ですか?
刃物の扱いには慣れているのか、アヴェルさんは器用な手つきで野菜の下ごしらえを終えてくれた。
その後は調理器具の洗浄を主にお願いしながら、着々と調理を進める。
狭い上に使いづらい台所だけれど、アヴェルさんは上手く立ち回ってくれて、予定よりも早く作り終えることが出来た。
時刻は午後六時。ちょっと早い気もするけれど、ご飯にしてもいい時間だろう。
「……ソウタ、戻って来ませんね」
「そうだね。まあいいや、いつものことだし」
お風呂を沸かしてお皿を並べ、携帯の画面を確認する。お兄ちゃんからの返信は無い。連絡が無くとも必ず、帰っては来る。だから特に心配することでもない。
帰ってこない時はしばらく留守にすると言うから、今日はきっと帰ってくるつもりなんだろう。そう判断して食事の用意はしておいたけれど、兄の帰りを待っていたら日が変わりそうなので、さっさと食べてしまうことにした。
だって、これ以上アヴェルさんを待たせることなんて出来ないし。
開花丼と味噌汁、煮浸しを作り終えて席につく。ローテーブルに並べたお皿の前に正座しているアヴェルさんは極めて真剣な表情だけれど、その翡翠色の目はお預けを食らった犬のように輝いている。
……料理は好きだけれど得意というほどでもない。期待に添えるかは微妙なところだ。
異世界の騎士様の口に合うかは不安だけれど、空腹は最高のスパイスというし、この際腹に入るだけありがたいと思ってもらうことにしよう。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
食事の挨拶は兄が異世界でもやっていたようで、此方の真似をしてすんなりと手を合わせたアヴェルさんは、スプーンで卵とご飯を救い上げ、待ちきれなかったように口に含んだ。
どうだろう。我が家の味は。お気に召すだろうか。
香菜の家で作ったり、親しい人に振る舞ったことはある。けど、会ったばかりの人に手料理を食べてもらうのは初めてだ。
謎の緊張感を胸に、恐る恐る見守っていたあたしの前で、金色の長い睫毛に縁どられた瞳が輝きながら見開かれる。
幸せそうに頬を緩め、丁寧に咀嚼した後飲み込んだアヴェルさんは、迷うことなく二口目を掬い上げた。
豚肉がとじられた部分を食べてご満悦である。豚肉の量は慎ましやかなもので、玉ねぎ多めなんだけど、満足してもらえるといいな。
次いで、静かに味噌汁に口をつける。ほう、と息を吐いたアヴェルさんが、今日一番の笑みであたしに向かって微笑んだ。
「こんな美味しいものは初めて食べました。サツキさんは料理がお上手なんですね」
きらきらと輝いた笑顔を、真正面から食らってしまった。思わず目を閉じる。イケメンの笑顔、威力が高い。
手料理を褒められた喜びと、照れと、見慣れぬものを見たせいで激しくなった動機を抑えつつ、照れ隠し混じりにぶっきら棒に呟いた。
「ベ、別に普通でしょ。誰でも作れるよこんなん」
「えっ! こんな美味しいものが誰にでも作れてしまうんですか」
「……まあ、レシピとかあればね」
「でもサツキさんは見てませんでしたよ」
「そりゃ、慣れてるから」
「何事も慣れるまでが大変なんです。作り慣れているというのは、それだけですごいことですよ」
感心しながら本当に嬉しそうに箸を、いやスプーンを進めるアヴェルさんを見て何となく察する。
この人は素直で良い人なんだろう。お兄ちゃんが気にかける友人ならきっとそうだろうな、とは思っていたけれど、自分で受けた印象があるとやっぱり好感の度合いが違う。
見知らぬ人と同居なんてちょっと困ったなあ、と思っていたけれど、この分なら上手くやっていけるかもしれない。
……裸を見られたことは、この際記憶の底にしまい込んで鍵をかけてトンカチで釘でも叩きつけて二度と思い出さないようにしてしまおう。
それがいい。一番いい。
いつまで面倒を見るのかは分からないけれど、この、人の好い、輝かんばかりのイケメンと同居するにあたって、その記憶は一番不要なものに思えた。
やたらと熱くなった顔を冷ますべく麦茶を飲み干し、咳ばらいをひとつ。
「その、なんだっけ? ルーシアの塔って遠いの?」
あたしの問いに、満面の笑みで煮浸しを食べていたアヴェルさんが記憶を辿るように視線を左上に向けた。
「遠い、というよりは高いですね。場所は王都ですが、塔自体が雲を突き抜ける程なので、感覚としては遠い、かもしれません。ただ、ソウタは転移魔法に関しては魔導師級ですから、きっとソウタからすれば近いと思いますよ」
「お兄ちゃんは何者なの……」
「それは私も聞きたいです」
はは、と乾いた笑みを零すアヴェルさんの目が遠いものを見るものに変わる。
兄が異世界に行っていた間に何があったのか、聞きたいような、聞きたくないような。いや、正確には、聞きたいことはたくさんあるのだけれど、何から聞いたらいいものか分からない。
お兄ちゃんのこともそうだけれど、アヴェルさんのことだって聞きたいことがないと言ったら嘘になる。
でも、祖国がなくなったとなれば、迂闊に聞いていいことでもないだろうし……。
困惑がそのまま顔に出ていたのだろう。アヴェルさんはあたしの顔を見ると小さく苦笑し、丁寧な所作でスプーンを置いた。
「ソウタよりも先に、まずは私が何者か、の方が気になりますよね」
「それは、まあ、ええと、うん」
否定のしようがないので素直に頷くと、アヴェルさんは「うまく説明できるかは分かりませんが……」と前置きして、静かに語り始めた。