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44.目覚めは空腹と共に



 なんだかとっても美味しい匂いがする、と思いながら目が覚めた。


 ベッドの上で体を起こして、ぼんやりしたまま座りながら、漂ってくる匂いにすん、と鼻を鳴らす。

 トマトと、コンソメと、ベーコンの匂いだ。そこまでを理解して、そこから先が理解できなくなる。


 我が家で料理をするのはあたしの役目だ。あたしがそうしたいって言ったからそうなった。

 だから当然、あたしが起きる前にご飯の匂いがするなんてことはなくて、寝起きに作りたてのご飯の匂いがするなんて、それこそ、お母さんが生きてた頃くらいしか記憶にない。

 なんだか懐かしいような、切ないような気持ちになりながら扉を開ける。


 寝ぼけた足取りで台所に向かうと、そこにはアヴェルさんが立っていた。


 差し込んだ朝日がリビングと台所を照らしている。小さなコンロで鍋を掻き回すアヴェルさんは、あたしに気づくと見慣れた穏やかな笑みを浮かべた。


「おはようございます、よく眠れましたか?」

「……うん、おはよう。ええと、」

「ああ、すみません。勝手に使ってしまって……昨晩の夕食の残りもあるのですが、足りないかと思いまして」

「別にそれは大丈夫なんだけど……」


 うーん、まだ頭が寝ぼけてる。

 顔を洗いに行きたい気持ちと、アヴェルさんが何を作っているのか気になる気持ちがぶつかって、あたしはふらふらとアヴェルさんに寄っていった。

 だってすっごいお腹空いてるし。あれ、でもなんで空いてるんだっけ。昨日、晩御飯抜いたんだっけ?


「何作ってるの? トマトスープ?」

「そのようなものです。本来は此処にニージャの涙を入れるのですが、此方にはありませんので、トマトスープ、ということになりますね」

「それ入れるとどうなるの?」

「どう、と言われると、そうですね、気分がすっきりします」

「へー……ニージャって?」


 煮込まれたトマトと玉葱が美味しそうな匂いを漂わせている。ぐう、とお腹が鳴った。

 パンとかあれば良いんだけど、うちは基本的に米派だからあんまり用意が無いんだよね。でもいいなあ、美味しそう。食べたい。


「花の妖精、のようなものです。小指ほどの大きさで、基本的に群れて飛びます。大体は無害で、友好的ですが……ファナントでは隠れているのであまり姿は見ませんでしたね」

「妖精かぁ……さすがファンタジーだね」

「俺からすれば、此方の食事の方が不思議ですよ」

「ええー、そうかなあ」

「納豆とか」

「あー」


 確かに、それは不思議かもしれない。どこにでも不思議な食べ物ってあるよね。日本に限らず。

 ぼんやりした頭で掻き混ぜられる鍋を見つめるあたしに、アヴェルさんは言う。


「顔を洗いに行くつもりだったんですよね? 食事の準備はしておきますよ」

「あ、うん。そうだった」


 すっかり空腹に負けて食い入るように見つめてしまった。洗面台に向かって、ざっと顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。

 今日は土曜日だから、支度を終えたら八助に行かないといけない。あんなことがあったんだから、杏ちゃんにも店長にも謝っておかないと。

 …………えーと。

 うん?

 そこまで考えて、あたしはようやく、どうしてこんなにお腹が空いているのか思い出した。


 ああ、そういえばあたし、来栖雷人と久我みやびに引っ倒されて怪我して大泣きしたんだった。

 いい年して、お兄ちゃんにあやされて寝たんだった。


 鏡に映るあたしの顔が、じわじわ赤く染まっていく。そういえばあの時、アヴェルさんも香菜もいた。

 うっわあ恥ずかしい。すっごい恥ずかしい。

 高校生にもなって、お兄ちゃんに泣きつくって。そんな、だって、小学生じゃあるまいし。


「サツキさん?」

「うん!?」

「あ、いえ。驚かせてしまってすみません、実は少々聞きたいことがありまして」

「なっ、何!?」

「あの機械は選ばし者が動かさないとデンジハなるものを浴びて瀕死になると聞いたのですが、本当ですか?」

「嘘だよ!!」


 アヴェルさんが謎の緊張感と共に電子レンジを指差していた。即座に否定した。相変わらずろくでもない嘘を吹き込んでるな、うちの馬鹿兄は。

 っていうか、お兄ちゃんどこ行った訳? 姿が見当たらない。

 いや、今はなんか会いたいような会いたくないような微妙な気分だから居なくてもいいんだけど!


 やっぱり嘘ですか、と呆れを含んだ声で呟くアヴェルさんを前に、あたしは赤みの引かない頬を押さえた。

 違うんだよ、なんていうか、あの時はいっぱいいっぱいで。積み重なった恐怖があそこで抑えきれなくなったっていうか。いやでもだからって、あんな子供みたいに泣くつもりはなかったんだけど、でも、感情なんて自分の思い通りにならないもんじゃん!?


 うぐぐ、と唸りながら思わず蹲ったあたしに、アヴェルさんが慌てた様子で駆け寄った。


「サツキさん? どうしました、どこか具合でも……まさか怪我が治りきっていないのでは、」

「ち、違う違う! そういうんじゃないから! なんていうか、その、自分の情けなさを噛み締めていたというか、記憶の底に叩きつけてるというか……」

「情けなさ、ですか?」


 アヴェルさんの慌てように、ああやっぱり昨日のアレは夢とかそういうんじゃないよね、と再確認する。あたしがお兄ちゃんに泣きついたのも、紛れもない事実だ。

 これ以上心配をかける訳にはいかないと急いで否定したあたしに、アヴェルさんはきょとりと目を瞬かせた。


「何か情けなく思うようなことがありましたか? 俺なら兎も角、サツキさんが」

「だ、だって……ほら、泣いちゃったし、恥ずかしいじゃん、あんな……子供みたいに」


 全然、全く、これっぽっちも泣くつもりなんてなかったのに。

 あたしは大丈夫だからって言い聞かせてれば、大抵のことは大丈夫になるし、そうやって大丈夫にしてきたって自信もあったのに。

 やっぱり、まだまだ弱いのかなあ。お兄ちゃんみたいにはいかない。別に、あそこまではいかなくていいんだけど。あそこまでいくと、多分、頭の大事なネジも飛ぶ気がするし。

 恥ずかしさを誤魔化そうと、うろうろと考え事を始めたあたしに、アヴェルさんはごく真剣な口調で言った。


「恥ずかしいことはありません。あんな目に遭えば、泣いて当然です。当然のことを恥ずかしく思う必要なんてないでしょう」

「……そう、かなあ」

「訓練された騎士でも恐ろしければ泣くことがあります。暴力に触れたことのない人間がそれを受けて、泣かない方が問題です」


 泣かない方が問題、か。

 涙は自己防衛って話も、聞いたことがあるような気がするし、それは確かに正しいのかもしれない。

 でもそれで恥ずかしさが薄れるかというと、また別の話だ。多分、もしかしたら、お兄ちゃんと二人きりだったならこんなに恥ずかしくなかった。香菜とアヴェルさんがいたから、尚更恥ずかしいような気もする。

 だって、散々大丈夫とか言っといてあのざまだよ。なんか、恥ずかしいじゃん。


 なんだか拗ねたような気持ちになりながら、膝を抱えたままアヴェルさんを見やる。


「アヴェルさんも、怖い時は泣いたりする?」

「…………泣きましたよ、沢山」

「沢山?」

「沢山です」


 だから何も恥ずかしがることなんてありませんよ。そう言って笑うアヴェルさんは、未だ蹲っているあたしの手を取って、立たせてくれる。


「朝食を取って、時間になったら八助に向かいましょう。送っていきますから」

「うん、ありがとう。え? あ、いや、いいよ大丈夫。一人で、」

「送っていきます」

「だいじょうぶ、」

「送っていきますし、迎えにも行きます」

「……はい」


 な、なんか、なんだろう。アヴェルさんの押しが強い。

 たじろぐあたしに、アヴェルさんはひとつ、軽い溜息を零した。


「昨日あんな目に遭ったばかりなんですよ。一人で送り出すなんて真似は出来ません」

「それはそうだけど、でも近いし、」

「ええそうです。近いです。その上であんな目に遭いましたよね?」

「……そうですね」


 にこやかな顔で確認してくるアヴェルさんに、これ以上の拒否はできそうにない、と頷く。

 アヴェルさんの性格からして、衣食住全て世話になっている戦友の妹が怪我をして、放っておくなんてことが出来るはずもないか。あたしとしては、TOP5はくるみに引きずられてどこぞへと消えたし、もう心配しなくてもいいと思うんだけど。

 そんな気持ちを込めて、食卓につくアヴェルさんをちらりと見やってみるが、完璧な笑みが返ってくるばかりで聞き入れてくれるつもりはなさそうだった。


「……アヴェルさんって、妹がいたら過保護になりそうだよね」

「それは、どうでしょうね。俺は冷たいらしいですから」

「そうかなあ。お兄ちゃんみたくなりそうな気がするけど」

「…………」


 何とも微妙な顔をされてしまった。うん、今のは例えが悪かった。少なくともアヴェルさんは妹がいたとしても心配のあまり天井から降ってきたりはしないだろうし。

 そういえば、うちの馬鹿兄はどこに行ったのかな。今日はバイト入ってなかったと思うんだけど。こんな早朝からどこに行ったんだか。


「お兄ちゃんがどこ行ったかって知ってる?」

「いえ、詳しくは……香菜さんとの約束だとは聞きましたが」

「あー……じゃあ、まあ心配いらないかな」


 別の意味での心配はあるけど、まあそれはそれだ。社会的に危ないことは、多分しないだろうし。多分。きっと。

 やっぱり心配になってきたので、香菜にもお兄ちゃんにも『何をするにもやりすぎないように!』とだけメールしておいた。何事も、やりすぎるのはよくない。

 メールを送り、一息ついてから手を合わせる。誰かにご飯を作ってもらうなんて久々だ。お兄ちゃんには台所に立たせたくないしね。色んな意味で。

 トマトスープに口をつける。ほんのり塩の効いたスープは優しい味がした。






「あ、自転車直ってる! これってお兄ちゃんがやってくれたのかな!?」

「そのようですね」

「そっか! やったーお兄ちゃん大好き!」


 ありがとう大好き! 普段滅多に言わない台詞が口から飛び出てきた。だってそのくらい嬉しい。

 昨日、自転車置き場に持って帰ってきたあたしの自転車は、凹んでいた前輪も完璧に直った状態で置いてあった。あちこちに付いていた古い傷も直っている気がする。


「わっ、ベルの調子も戻ってる! 新品じゃん新品、すごい、魔法みたい」

「魔法ですからね」

「そっか、そうだよね。……アヴェルさん今笑ったでしょ」

「いえ、全く」


 何時になくはしゃいでしまったあたしが振り返ると、アヴェルさんは誤魔化すように口元を押さえていた。

 やっぱり笑ったでしょ。まあ、いいけど。なんか、そういう風に笑うアヴェルさん珍しいし。


 前輪のブレーキも後輪のブレーキも完全に新品そのものだしハンドルの調子も良さそうだ。ああもっと早くやってもらえば、と思いかけて、いやいや、そういうのに頼りすぎるのは良くない、と思い直す。

 あるもので何とかしていく力をつけるのは大事だ。そういう風に頑張るのが好き、ってのもあるけど。そう考えると、あたしってみみっちい人間だなあ、と思わなくもない。でもこれはこれで楽しいからよし。


 直ったものの、送ってくれるアヴェルさんを隣で走らせる訳にもいかないので、ひとしきり確認したあとに二人で歩いて八助に向かう。

 走れますよ?とアヴェルさんは言ったけれど、自転車に並走するアヴェルさんとかかなりシュールだろうからやめてもらった。




「皐月! 昨日はどうしたんだ? 心配し――っ」


 徒歩なのでいつもよりも早い時間に出て、余裕を持たせたおかげかいつもより早く着いたあたしが八助の裏口を開けると、待っていたのか杏ちゃんが飛び出してきた。

 飛び出してきて、飛びつこうとして、それからアヴェルさんを見て固まった。


「ごめん杏ちゃん、本当にごめん。店長にも謝らなくちゃと思ってたんだけど、色々あって連絡出来なくて……」

「う、うん、まあ、だ、大丈夫だ、皐月が理由もなく休んだりしないって、みんな分かってるからな」

「ありがとう。えっと、店長は? 下?」

「ま、まだ上だ。るー姉がいじめたから拗ねてるんだ」

「瑠華さんが?」

「パパの顔が怖いからとうとう皐月も辞めちゃったんじゃない?って」

「そ、そんな理由じゃ辞めないよ!?」


 確かに店長の顔は怖いけれども、面倒見が良くて優しい人なのは少し話せば分かるし。瑠華さんもそんなことありえないって分かっててからかうんだもんな……。

 昨日助っ人として来てくれていたらしい瑠華さんは、店長のお姉さんだ。杏ちゃんからみれば伯母さんに当たる人。太極拳を教えているとかで、あたしも何回か教室に誘われたことがある。

 その傍らで、小遣い稼ぎ兼杏ちゃんに会いに、たまに八助を助けに来てくれるのだ。昨日もたまたま瑠華さんが来てくれていたらしい。


「それは私もパパも分かってるから大丈夫だぞ。るー姉も冗談だって言ってたからな。……ええと、それで、何があったんだ? ジェ、アヴェル様が来てるってことは、何かあったんだろう?」

「何かっていうか……大したことじゃないんだけど、」


 こんな風に言うとまたアヴェルさんは怒るかもしれないけれど、杏ちゃんに変な心配はかけたくない。

 同級生に自転車を横から蹴っ飛ばされちゃってね~、とか言ったら、優しい杏ちゃんのことだ、『悪漢どもは私が成敗するぞ!』となりかねない。本当、あたしの周りには自分よりも他人を気遣ってくれる人ばかりだ。

 嬉しいけれど、さてどうやって誤魔化そう。嘘をつくのは下手な方だ。かといって大したことじゃないのに休んだ、と思われるのもなんだか辛い。


 言葉に詰まるあたしの横に立っていたアヴェルさんが、杏ちゃんの目線に合わせて膝をついた。


「すみません、実は私のせいなのです」

「……アヴェル様の?」

「え、いや、ちょっと、」

「昨晩急に体調を崩しまして、一人では動くこともままならず……サツキさんは私の看病をしてくださったんです。急に仕事を休んでいただくことになってしまったので、こうして直接お詫びに来ました」

「それは……大変だったな、体調はもう大丈夫なのか?」

「ええ、おかげさまで」


 心配そうに見つめる杏ちゃんに笑顔を見せるアヴェルさんの言葉に、杏ちゃんは一先ず納得したようだった。多分、本当は少し納得がいっていないところがあるだろうし、それはアヴェルさんだって分かっているだろうけど、杏ちゃんが『そういうことにしておく』と了承したのを感じ取ってるんだろう。

 でも、それにしたってアヴェルさんのせいにしなくても。もっとこう、急に学校の用事が入った、とかでもいいのに。

 パパを呼んでくる、と二階へと上がっていった杏ちゃんを見送ったアヴェルさんに視線を向けると、アヴェルさんは少し眉を下げた。


「すみません、余計なことをしました」

「そんなことないけど、でも、なんか、悪いよ」

「俺が勝手にやっただけですから。恐らく、アンズさんはサツキさんに何か異常事態が起こっていると感じていたのでしょう。その心配を押しのけて納得して貰うための嘘は、多少大げさな方がいいので」

「でもほら、アヴェルさんにそこまでしてもらわなくても、そこまでしてもらう理由がない、っていうか、申し訳ないしさ」


 送り迎えまでしてもらって、その上嘘までつかせてしまった。別に、アヴェルさんが悪い訳でもないのに。そう思って口にしたあたしに、アヴェルさんは一度瞬きをして、それから心底不思議そうな声で言った。


「理由がなくてはいけませんか?」

「……ええっと?」

「サツキさんが困っているようだったので、勝手ながら口を挟みました。それに理由は必要でしょうか?」

「…………ど、どうだろう?」


 そう聞かれると困ってしまう。誰かが困っている時に助け舟を出すことに理由はいるだろうか。

 多分、いらないんだろう。けれども、いるいらないは別として、そこに理由はあるような気がする。

 来栖雷人に絡まれているくるみに声をかけた時のことが頭の端に浮かんで、何か掴みかけた時に、杏ちゃんが店長を連れて降りてきた。


「よう、皐月。昨日は大変だったみてえだな」

「おはようございます。すいません、急にお休みいただいて」

「気にすんな。姉貴もいたしな、そんなに客も来なかった。……そっちの兄ちゃんは、元気ンなったのか?」

「この通り快調です。サツキさんにもお店にもご迷惑をおかけしました」

「気にすんなって、何度も言わせんなよ。健康第一だからな」


 ひらひらと手を振った店長は、それだけ言うと店に入っていってしまった。そこであたしも携帯の時計を確認する。そろそろ開店時間だった。準備に入らないと不味い。


「ごめん、準備があるからそろそろ入るね」

「また仕事終わりに迎えに来ます」


 多分断っても来てくれちゃうんだろうな。そんなに心配するようなことじゃないんだけど。

 ここまで来て拒否するのは逆に失礼な気がしてきたので素直に頷いておいた。少し残念そうにしている杏ちゃんに別れを告げて戻っていくアヴェルさんの背を見送って、店内へと入る。


「あ、そういえばね。杏ちゃんに報告しなきゃいけないことがあったんだ」

「ん? なんだ、良い報告か? 悪い報告か? 私は悪い報告から聞きたい派だ!」

「良い報告、かな」


 杏ちゃんの気を逸らすには丁度良い話題かもしれない。


「あたしの友達がね、ホワイティの着ぐるみの中の人やってるんだって」


 更衣室で制服に着替えながら言うと、杏ちゃんは一瞬理解が追いつかなかったのか目を瞬かせた。


 数秒後に上がった歓声に、そういえば『悪逆』の意味についてちゃんと聞いてなかったな、なんて心配をちょっとだけした。




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