捨てたものがあるということ
前座の話
「――はぁっ」
威勢のいい掛け声と共に、よく磨かれた剣が振り下ろされる。びゅん、と空気を切り裂き、そのまま相手の肉を抉る。
「キッシャアアアアアア」
紅い潜血を撒き散らし、そのまま数度跳ねた後、それは動かなくなった。頬にこびり付いた温みに手の甲で拭うと、赤が線を引いて汚れとなった。きっと今の彼の表情は、無意識に眉を寄せたものとなっているのだろう。鏡などないこの森奥では、確かめる術はない。
地面に転がった生き物だったものは、無論血だまりに沈んだきり動く気配はない。躊躇いもなくそこに近づくと、彼はそれの頸椎の辺りを掴んで引きずりながら歩き出す。血の匂いは、余計な戦闘を誘いこむのだ。一カ所に留まっていて良いことはない。
彼は、『騎士』だった。剣一本だけを背中に釣り、ひとり故郷を飛び出した騎士だった。
手にかかる重みが、先ほどの手ごたえに感じる。なんとか熊。なんの熊だったか、そもそも熊なのかは分からないが、熊っぽいからきっとこれは熊なのだろう。大切なのは、食べられるかどうかだ。
少し開けた所に出れば、騎士の見慣れた、見飽きたとも言える顔が「おかえり」と手を振ってくる。その連れの足元に散らばっているのは香料だろう。色とりどりのそれらは全部この森で取ったものだった。おそらく夕飯の準備をしていたのだろう。中途半端になったままの火元が何よりの証拠だ。
「今日の食材だ」
「お疲れ様。そろそろご飯にしようか」
その言葉は、言外に今夜も野宿であることを示していた。
「ベットで寝たい」
「次の町まではまだ距離があるから、もう少し我慢してね」
「…………」
「嫌な顔しない!」
不満がありそうな顔をしながらも、騎士は焚き火の準備をし出す。その様子を見て、連れは「素直じゃないなぁ」とひとつ、溜め息をついた。
「てか、お前『魔法使い』なんだから、もうちょっと戦闘に参加しろよ。一人で剣振り回すのどんだけ辛いと思ってんだ」
香料をまぶし焼いただけとはいえ、その香りは空腹には暴力だった。騎士は手渡された肉に無我夢中で齧り付く。口の中に広がる味は期待を裏切らないもので。騎士にとって生きている実感が沸く瞬間だった。
日が落ち、暗闇が支配した森の中。焚き火の灯と、申し訳程度の月明りだけが頼りの夜。
ぽっと溢した先の言葉に、あのねぇ、と連れの『魔法使い』は溜め息を溢した。
「本当に魔法なんてあると思ってるの?」
「いや」
「ならそんな無茶要求しないでよ。私が入ったら、瞬殺だよ」
「それは困る。入るな。でも疲れる」
余りな要求だということはわかっているのだろう、魔法使いは呆れ顔を隠すことなく、少しぶっきらぼうな口調で肩をすくめた。
「じゃあ、この職業選ばなきゃ良かったでしょう? 何で『騎士』を選んだの」
「俺には……、『これ』しかなかったから?」
いつにも変わらない騎士の無表情が、少し陰る。それを見て、魔法使いは自分の軽率な発言を後悔した。
分かり切っていることだった。この業界にいる者は皆、同じなはずだ。
「……愚問だったね、ごめん」
「…………別に」
パチパチ、と火の粉が飛ぶ音だけが虚しく響く。会話はそこから続くことはなかった。
ふと、魔法使いが目に留めた先で、見慣れた赤色が映ったのに気づく。炎に照らされて為ったのではなく、元からの赤色。その場所は、肉を次々に口へ運んでいる腕。
「あ、切れてる」
「うん、痛い」
「何で言わなかったの、もう」
「何で言う必要がある? 我慢すればいい話じゃないか」
「そんなとこを我慢するなよ。手当てするから、こっち来て」
「ん」
大人しく近寄った騎士に、魔法使いは袖口を捲る。想像以上の出血量と傷の深さに、少し眉を顰めたのは許してほしいところだろう。見ているだけで、痛いものだったのだ。
魔法使いは傍からキッドを取り出し、透明な液体が入った注射針を構える。それを見た瞬間、騎士は魔法使いから距離を置いた。
「……何で逃げるの」
「それは、嫌だ」
「今処置しないともっと痛い目見るよ。……もっと大きい注射しなきゃいけないかもよ?」
その脅しとも言えない言葉が効いたのだろうか、おずおずと差し出された腕に、魔法使いは思わず声を出して笑った。
アルコールを染み込ませた布で拭いてから、針を静かに刺した。一瞬、騎士が顔をしかめるが、何で動物の攻撃は我慢できてこれはできないんだろう――と、魔法使いは、毎度のことながら首を傾げる。
ちくりちくり、と裂けた皮膚に針を進める。
「痛くない?」
「痛い」
「あれ、麻酔効いてない?」
「大丈夫だ。我慢できないことはない」
「ごめんね、過度に麻酔打てないから。もう少し我慢頼む」
「ん」
会話が再び止む。だが、先ほどの無音よりはずっといい。騎士も食べる手を止めて、魔法使いの指先を見ていた。
「はいできた。数日で糸抜けると思うから、それまで待ってね。あ、変な動きしない! ご飯抜くよ!」
違う方向に曲げようとした騎士を魔法使いが止める。そうでも言わないとすぐ傷が開くのは目に見えていた。
「お前は、『魔法使い』というより『医者』だな。あ、『家事職人』でもいいかもしれない」
何気ない言葉だった。だが、それは何よりの真実で、騎士の本心だったのだろう。
「そーだよ。こんなエセ『魔法使い』でも捨てなかったのは君が初めてだよ」
食べかけだった肉が、視界の端で炭化して黒くその身を硬くしている。魔法使いはナイフで焦げた部分を削ぎ落とし、躊躇いもなく口に放った。歯に引っ掛かってゆく繊維はとても硬い。
「どうして、私を捨てなかったの?」
んー、と深く考える仕草をして、数秒。騎士は何か思いついた様に顔を上げる。
「飯がうまい」
「あはは」
「あと……、手当てがうまい」
「それだけ?」
「それだけ、に何か理由があるのか?」
「いや、君らしいよ」
満足そうに、魔法使いは笑う。騎士にとって魔法使いの存在意義は、それが全てなのだろう。
その答えがあれば、十分なのだ。
お粗末さまでした