16.風雲
「――上等だァ! その狂気ごと地獄にブッ飛ばしてやる!」
咆哮とともにディートリヒが地を蹴った。その渾身の踏み込みは床を砕き、同じく仕掛けようとしていたルシアンがわずかに体勢を崩す。
「駄犬が、抜け駆けを――!」
その視線の先にディートリヒの姿はない。
人狼の身体能力はたった一度の踏み込みで神速に達する。瞬きの後には、すでにディートリヒの身体はアッシャータの眼前にあった。
「――御主人!」
反応が遅れたジャクリーンが叫ぶ。
逃れようもない絶妙な間合い。そこから抜刀の勢いとディートリヒの怪力とを上乗せしたサーベルが薙ぎ払われる。
しかしアッシャータは微笑し、ゆるりと右手を持ち上げた。
盛大に火花が飛び散った。
「なっ――」
ディートリヒが目を見開く。
渾身の力でもって放たれた抜き打ち。それをアッシャータは表情も変えず、さらにさして体勢を崩すこともなく受け止めていた。
「ふぅむ。まぁまぁな一撃だな」
刃を手甲で受けたまま、アッシャータは涼しげな表情で首をかしげた。
そしてその刃を軽く跳ね上げ、ディートリヒの右脇腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
肋骨が砕け散る音が響いた。
「ガッ――!」
ディートリヒの体が吹き飛ぶ。
その直後、アッシャータめがけて黒い影の波が襲いかかった。それはテーブルや椅子を巻き込み、灰燼に変えながら押し寄せる。
「むおっ――!」
アッシャータは仰天しつつ、両手を前に掲げた。
ジュウッと蒸気が立つような音を立て、アッシャータの周囲が白煙に包まれる。影の波はアッシャータの小手に触れた途端、溶けるように消え去った。
「――ッ!」
銃口をアッシャータに向けた状態で、ルシアンがぴくりと眉を動かした。
アッシャータはふーっと息を吐き、困ったように笑った。
「……タイミングがズレていたら危なかったな。ふふ、少しびっくりしてしまったじゃないか。マナの扱いにはまだ慣れていないのだぞ?」
言いながら、アッシャータは拳を握りしめた。
体を覆う紋様が激しく明滅する。鈍い金色の籠手にも青白い光が走り、ゴウッと音を立てて拳に青白い炎が燃え上がった。
「鬼火……?」
壁にもたれて立ち上がったディートリヒが息を呑む。
アッシャータの両腕で、盛大に火花を散らしながら鬼火が燃えている。かがり火にも似た両腕を構え、アッシャータは凶悪な笑みを浮かべた。
「さて、ではお返しだ――《穿つ霊砲》!」
唸りを上げて、アッシャータの拳が高速で突き出された。拳の鬼火が激しく燃え上がり、巨大な火の玉を大量に撃ち出す。
ルシアンは舌打ちし、指を鳴らした。
「《銀輪障壁》!」
無数の銀の波紋が空間に広がり、鬼火の乱打を防いだ。衝撃が崩れかかった屋敷を揺るがし、再び塵煙が視界を覆い隠した。
ルシアンは障壁を張ったまま後退。銃口を構えつつ、鬼火の切れ間を狙う。
「――あたしもいるよォ!」
しかし、背後から金切り声が響く。同時に首を狙って突き出されたマンゴーシュ(左手用の剣)を、ルシアンは上体を捻って回避する。
「ちぇっ、外れ!」
背後から急襲した現われたジャクリーンが舌打ちし、背後へと跳んだ。その体の輪郭が瞬く間に揺らぎ、塵煙の中に溶けていった。
「吸血鬼の能力か……やれやれ、手癖の悪いお嬢さんだな」
霧と化したその姿を睨み、ルシアンは薄く笑う。
「こら、ジャクリーン」
鬼火の乱打を一旦止め、アッシャータが声を張り上げた。
途端、彼の背後で塵煙が揺らぎ、そこから手にしたジャクリーンが現われる。
右手にカットラス、左手にマンゴーシュ。それらを器用に弄びつつ、ジャクリーンはアッシャータを軽く睨んだ。
「なんです、御主人? せっかく良いところだったのに」
「手出しは無用だ。君はこの戦いをしっかり見ておいて、改良点を考えておきたまえ」
「けど相手が相手ですよ? こっちも全力で当たらないと――」
「ほう……この我輩を実験台扱いか。なかなか言ってくれるな。面白い」
相も変わらず面倒くさそうな口調のジャクリーンに、ルシアンの笑みが深まる。
しかし、その赤い瞳は徐々に温度を失いつつあった。
「面白がってる場合じゃねぇぞ! おらァ――!」
咆哮とともに、塵煙を切り裂いてディートリヒが突進する。
速度と威力は十分。しかし極めて単純なその突撃をアッシャータは無造作に拳で払い、再び彼の体を大きく吹き飛ばした。
「ちぃい――!」
しかし、今度のディートリヒは踏み止まった。壁に激突する寸前で体勢を整えた彼に、アッシャータは呆れたような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「人狼が邪魔だ……ちょうどいい。君は、そこの人狼の相手をしてあげなさい」
「ちぇっ、仕方がないな!」
唇を歪めたジャクリーンが滑るように後退する。
その肉体が再び塵煙の中に溶けた。
直後ディートリヒが目を見開き、自分の左側面めがけて刃を振るった。甲高い音ともにカットラスが弾かれ、実体化したジャクリーンが唇を歪める。
「はん、獣並みの感覚だね」
「半端者の吸血鬼が俺の邪魔をするんじゃねぇ!」
サーベルの切っ先をジャクリーンに向け、ディートリヒが怒鳴った。
ジャクリーンは舌を突き出し、挑発するようにマンゴーシュを揺らしてみせた。
「死に損ないは黙ってな! アンタのことは知ってるよ! 旅団の仲間が全員死んで、自分だけ生き残っちまった情けない犬っころだろ!」
一瞬、辺りが静まりかえった。
アッシャータは額に手を当て、ルシアンはどこか不快そうに視線を逸らした。
ディートリヒの顔から血の気とともに表情が消えた。やがてその赤髪がざわめき、骨格が軋むみしみしと言う音が辺りに響き始めた。
「言い――やがったなァアア……!」
押し殺した声はやがて獣の咆哮へと変じた。
銀の瞳を光らせ、ディートリヒがジャクリーンめがけ躍りかかった。再び地面に着地したその体は人の形を失い、怒り狂った巨大な狼へと変異していた。
ジャクリーンはけたたましい笑い声を上げ、くるりと身を翻した。
一瞬でその体は灰色の霧と化し、瓦礫の隙間から外へと流れ出す。発達した人狼の前足は女の首を薙ぎ払う寸前で空振りした。
人狼は怒りをぶつけるように地面を叩き、霧を追って外へと飛び出した。
目の上に手をかざし、ルシアンはその姿を見送る。
「……血の気が多いな」
「なぁに血の気が良いのは良いことだ。――む、む? こうか? こんな感じか?」
心底楽しげな声に、ルシアンは鬱陶しそうな顔で振り返った。
アッシャータはしきりに首をかしげながら、空に向かって軽いジャブを放っていた。そのたびに拳に灯った青白い鬼火が揺れ、ぱちぱちと火花を放つ。
火花の勢いは先ほどよりも落ち着きつつあった。
ルシアンは目を細め、安定しつつあるアッシャータの両手の鬼火を見つめた。
「混合血液の作用で、マナを扱えるようになったのか」
「はっはっは、正確には違うな――よし、掴んだぞ! これはどうだ!」
アッシャータが拳をルシアンに向かって突きだした。その瞬間、歪んだ鐘にも似た音とともに、アッシャータの掌から青白い鬼火が波紋の如く広がった。
直後そこから強烈な衝撃波が生み出され、建物を破砕しながらルシアンへと迫った。
ルシアンは表情を変えず、冷静に指を鳴らした。
「《打滅》!」
黒い影が弾け、衝撃波を打ち消した。
轟音を立てて壁と天井の一部が砕かれ、瓦礫が降り注ぐ。落下する木材や岩塊の狭間を潜り抜け、巨大な影がルシアンの眼前へと迫った。
紫の瞳が光の軌跡を描く。
ニイッと唇を吊り上げ、アッシャータが右の拳を固めた。
ルシアンはわずかに目を見開き、その顔面にカーネイジで銃弾を撃ち込んだ。
ほぼ同時にアッシャータが手を払う。
空中に無数の火花が散り、キィンと甲高い音が響く。
「どうした、冥王! 止まって見えるぞ!」
「やかましい」
唸りを上げる拳を軽やかに避け、距離を保ってルシアンは銃弾を撃つ。
アッシャータはけたたましい声で笑いながらその銃弾を尽く籠手で弾いた。その足は容赦なくルシアンを追い、隙を見てはその懐に潜り込もうとする。
後退を続けるルシアンの背後を、ついに壁が塞いだ。
「狭い屋敷だな」
ルシアンは唇を歪め、アッシャータとカーネイジとを見下ろした。
左側が弾切れ。右側は残り一発。
好機とみたのか、それまで挑発的とはいえ慎重に様子をうかがっていたアッシャータは打って出た。拳を構え、真っ向からルシアンに向かってくる。
ルシアンは右のカーネイジを頭上に向けた。
「――忌法《至高天失墜》」
その銃声は、奇妙に高く響き渡った。
銃口から黒い小さな影の弾が放たれ、天井を貫く。なにかを察知したのか、まさにルシアンの間合いへと足を踏みこもうとしていたアッシャータは後退。
「なんだ……?」
アッシャータは硬い表情で拳を構え、ルシアンと天井とを交互に見る。
ざわざわと木々のざわめきにも似た音が頭上から響き――直後、天から影が降り注いだ。
黒い槍にも似たそれは、万物を侵蝕する影の雨。
ただでさえ崩れかかっていた屋敷は、その魔法により完全に破壊された。影の雨とともに、大量の瓦礫が全てを押し潰さんとばかりに崩れ落ちてくる。
ルシアンは崩れる岩塊や枕木を器用にかわしつつ、右のカーネイジに銃弾を再装填する。
左のカーネイジは一旦片付け、金のブレードのナイフを抜く。
やがて影の雨は落ち着き、辺りに静寂が訪れた。
雨が降っていたのは、たった数秒間のはずだった。しかしそのごくわずかな時間で、アッシャータの屋敷とその近隣の区画は完全に破壊されていた。
カツンと音を立てて、瓦礫の上にルシアンは降り立つ。
「……おお、これは見晴らしが良い」
豪奢だった家々の群れは平らにならされ、庭園を飾り立てていた植物は枯死している。
通りには煌びやかな服を着た住民達が跳びだし、混乱状態となっていた。
彼らは全ての指に派手な指輪を嵌めた拳や、金とダイヤで作った悪趣味な杖などを振り回し、厳めしい抗議の声を上げていた。
「なんだ、なにが起きた! 毒殺用のワイングラスがすべて粉々になってしまった!」
「私の庭園が台無しだ! せっかく大陸から蛮神の彫像を取り寄せたのに!」
「訴訟だ! 弁償だ! 美しい花嫁の剥製が全て駄目になった!」
「どれだけの金を掛けて浴室に聖人の骨を使ったタイルを敷き詰めたと思っている!」
「知るか。死にたくなければ下がってろ」
周囲に集まる金持ちの抗議を無視して、ルシアンはナイフと銃とを構える。
しかしアッシャータの声が聞こえたのは、頭上からだった。
「――魔剣コラプサーはどうしたんだ、冥王?」
「……ほう! そんな芸当もできるのか」
質問には答えず、ルシアンはわざとらしく驚きながら空へと視線を向けた。
金持ち達が驚愕の声を上げる。
「アドラー旧子爵が空を飛んでいるぞ!」
「彼も魔女だったのか?」
アッシャータは空中に浮遊し、不敵な笑みを浮かべて地上を見下ろしていた。
陽光がその背後を照らす様は、太古の神像のようだ。
しかし、さすがにあの大規模魔法を完全に回避することはできなかったのか。その右手は裂け、骨まで露になっていた。
「先ほどからの攻撃、そして防御。魔術ではないな? ただひたすらにマナを放って、魔法を打ち消しているのか」
「その通り。さっきも言ったが、まだマナの扱いには不慣れでな――あいたたた……」
アッシャータは小さく呻きながら、右手に触れた。傷口を上からなぞる。それだけで折れた骨は繋がり、裂けた肉は盛り上がり、傷口は閉ざされた。
完全に傷の消えた右手をひらつかせ、アッシャータはふうっとため息をつく。
「傷を治すのも一苦労だ――しかし、こんな事もできるようになったぞ」
アッシャータの右手が、天を示す。
瞬間、空に亀裂が走ったようにみえた。アッシャータの指の先――遥か上空にいくつもの銀の線が浮かび上がり、陽光に冷やかに煌めいた。
「おぉ……! 美しい! あれはなんという魔術だろう!」
「青空に銀糸を刺繍したようだ!」
「私のしもべにもあれを覚え込ませたい。そうすれば毎日あれを見られるぞ」
金持ち達が感嘆の声を上げ、手を叩く。貨幣を投げるものもあった。
ルシアンは唇を歪め、空に刻み込まれた線を睨んだ。
「……念力による斬撃か」
「――《絶命断線》」
アッシャータの指が地上を指し示す。
空を切る音が不吉に響いた。直後、静止していた思念の刃がいっせいに動き始めた。
ルシアンは舌打ちし、カーネイジを空中にむけた。
間髪入れず、念力の刃が地上へと降り注いだ。周囲の金持ちが悲鳴さえあげずに血煙と化した。どうにか残っていた建物も街灯も膾のように切り裂かれ、破砕される。
「昨夜は未完成だったキマイラの血。それをどうやってこの水準にまで持ってきた!」
自分を狙う斬撃を魔法で無効化しつつ、ルシアンが叫んだ。
「君は勘違いをしているぞ、冥王」
アッシャータは優雅に腕を組み、ゆっくりと首を横に振る。
「昨日――アロイス・ヴァインの時点で、すでに混合血液は完成していたのさ。ただ一つ、足りなかったのは莫大な量のマナ――魂の力だ」
人差し指を立て、アッシャータは微笑んだ。
重要なのはバランスだと、いつかアルカが言ったことをアッシャータは語る。
肉体と霊体の均衡。肉体の変異に霊体がついていけなければ発狂し、霊体の変異に肉体がついて行けなければ肉体を損なう。
「故に我々は求めた――尽きることのないマナを。その源となる魂を補う物を」
「その結果のゲファンゲネか」
恐らく大量の幽霊を集めたのは、彼らの持つマナを目的にしていたため。
斬撃を防ぎきり、ルシアンはそれを察したルシアンはわずかに唇を吊り上げた。
「幾千幾万もの幽霊を取り込み、魂を補完すると? 正気の沙汰ではないな。一人の体内に群衆が納まるものか」
「ああ。だからあれはジャードにくれてやった。より効率の良いモノを見つけたからね」
「効率の良いモノ……?」
「――数十万に匹敵する魂を持った、たった一人の幽霊だ」
瞬間、ルシアンの眼が大きく見開かれた。
満足げにアッシャータは笑う。その瞳は紫色に――メリーアンと同じ色に煌めいていた。
「はっはっは、驚いたな! その顔を見られただけでも最高だ!」
アッシャータは鬼火の燃える両手を緩やかに広げ、その場でぐるりと回転した。
青白い鬼火が揺らめき――その線上に、きらきらと光る無数の何かが浮かび上がった。
煌めきは即座に膨れあがり、無数の斬撃線へと形を変える。
先ほどまでとは比べものにならない数の刃の煌めき。それは緻密な蜘蛛の巣にも、あるいは硝子板をびっしりと覆い尽くした亀裂にも似ていた。
「さて。そろそろ、歴史からご退場願おうか。――旦那様?」
ひび割れた空の中央で、アッシャータは手を叩いた。
その音が引き金だった。
幾百もの斬撃線が重なり合って、地上へと叩き込まれる。轟音とともに、かろうじて残っていた建物や街灯が膾のように切り裂かれ、地表は一瞬で土煙に覆われた。
「……どうせ君はこの程度では死なないのだろう」
アッシャータは顎を撫で、低い声で呟いた。全身を覆う幾何学模様はその興奮を反映し、ますます激しく明滅した。
アッシャータはその模様を軽く撫で、しばらく目を閉じた。
「……ああ、わかったぞ。そうか、こうすれば良いのだな」
納得したようにうなずき、アッシャータは何かを招き寄せるように片手を伸ばした。
「――天魔の力は、私のものだ」
囁きとともにその手が握りしめられた瞬間、にわかに空が曇り始めた。鉛色の雷雲がどこからともなく湧き上がり、猛獣の唸り声にも似た雷鳴が大気を揺るがす。
風が吼え、雨が叫ぶ。
突如引き起こされた大嵐の中、アッシャータは目を開いた。背中から両手にかけて青白い炎が燃え上がる様は、さながら古代の鬼神の如く。
紫に輝く瞳で雨に煙る地上を睥睨し、彼は天魔の如き声で叫んだ。
「さぁ、さぁ! どちらが闇の王にふさわしいか、ここで決めようではないか!」