16.厄災の夜は終わるか?
「ぎゃ……! うあッ……!」
「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」「憎らしい」―――。
殴る。殴る。殴る。
ただ、ひたすらにヨハネスは鉄棒を振り下ろす。そのための機械になったかのように、車輪に拘束されたアロイスを淡々と殴り続ける。
聞こえるのは殴打の音、車輪の軋み、そしてアロイスの悲鳴。
何度目かで砕けた歯の欠片が飛び散り、濡れた地面に血が帯のようになって流れた。
「……やれやれ、ひどい有様だな」
「だ、旦那様……?」
耳に馴染んだその声を、メリーアンは一瞬幻聴か何かかと思った。
しかし振り返れば、確かにその姿はあった。
夜霧に溶け込むようにして、ルシアンがメリーアンの背後に立っている。先ほどまで着ていたはずのジャケットはなく、乱れたシャツに黒いベストだけを羽織っている。
「あの美女がアロイス・ヴァインか。……名前から、てっきり男かと思っていた」
「来て、下さったのですね……」
「とっくに館に帰還しているはずのメイドが館のどこにもいなかったからな」
ルシアンは仏頂面で、軽く肩をすくめた。
主人の言葉はどこまでも素っ気ない。それでもその声を聞いた瞬間、メリーアンは安堵のあまり一瞬泣き出しそうになった。
だが、メイドとしての矜持がそれを押さえ込む。
メリーアンは潤んだ目を隠すように目を伏せ、スカートの裾を摘まんで会釈した。
「あんちゃん……」
どこか呆然としたクラリッサの声に、メリーアンは振り返る。
振り返ればまだ、ヨハネスは淡々とアロイスを殴り続けていた。殴打の音は粘ついた水音に代わりつつあったが、それでも彼が止まる気配はない。
そんな兄の姿に、妹であるクラリッサさえも言葉を失っているようだった。
「まるで別の人に代わってしまったみたい……」
ぎゅっと片方の肘を握りしめ、メリーアンは呟く。
可能ならばクラリッサの傍に行って、彼女を保護したい。だが、同時にそれはヨハネスに近づくという事でもある。
あの状態のヨハネスに近づく――考えただけで、背筋に震えが走った。
「ああなったらもう誰にも止められんよ」
くしゃくしゃと濡れた髪を掻きつつ、ルシアンはため息を零した。
「ヨハンは駄犬と並んで――いや、駄犬以上に厄介な奴かもしれん。魔女街で絶対に怒らせてはならないモノの一つだ」
「ヨハン様に、そんな一面が……」
魔術さえ使わず、ヨハネスは壊れた機械のように祭司を殴り続ける。その姿は、静けさと憂鬱さとを纏っていた普段の彼とはとても重なり合わない。
青白い顔は血と雨水とに濡れ、緑の瞳は沼のように淀んでいた。
「……お前は『ねこ』を知っているか?」
「えっと……小さくてふわふわな可愛い生物ですよね?」
ルシアンの唐突な問いに、メリーアンは戸惑いつつも答えた。
「違う。この場合の『ねこ』は、魔女が異常な執着を示す対象の事だ。それがなければ、精神の安寧を保てない――そんな存在の事を示す」
「そうなんですか……それで、その『ねこ』が一体?」
話が掴めず、メリーアンはますます首をひねる。
するとルシアンは軽く顎を揺らし、立ち尽くすクラリッサを示した。
「ヨハンの『ねこ』はクラリッサだ」
「えっ……」
「あの男に何があったのか知らんし、聞こうとも思わん」
濡れた黒髪を軽く梳きつつ、ルシアンは肩をすくめる。
「……ただあれの母親が大公に意見具申した結果殺され、それが原因で東ロピアに戦乱が巻き起こった。恐らくその時に、決定的な何かがあったのだろう」
――妹にすがり付かねば精神の均衡を保てないほどの何かが。
ルシアンはそう言った。その赤い瞳はどこか哀れむように、ひたすらアロイスを殴り続けるヨハネスの姿を映していた。
メリーアンは言葉を失って、ヨハネスと――そしてクラリッサとを見た。
クラリッサは、初めて出来た友達だった。その彼女が、これほど重い物を抱えていたとはまるで想像も出来ていなかった。
『抱擁は拘束に似ている』
『あんちゃんは、あたしのせいで自由がなくなっちゃった』
兄妹は、それぞれ何を思ってその言葉を口にしたのか。
彼らは、自分には想像もできない呪縛の中で生きているのではないか。
「……金環教会の兵が妹を殴りつけた時、奴はある一つの呪いをかけた。その結果、プラヴディアは死の大地と化してしまった」
「……どんな呪いを?」
淡々と独り言のように語るルシアンに、メリーアンはなんとかそれだけ聞き返した。
「生物は子を成せず、植物は実を結ばない。命はただただ朽ちていくだけ――あの大地が持つ未来そのものを永遠に閉ざしたようなものだ」
えげつないにも程がある、とルシアンは薄く笑う。
だから、人は彼に『看守』という呼び名を付けたのだろうか。ざあざあと降る雨の音と殴打の音とを聞きながら、メリーアンはぼうっと考える。
しかしメリーアンには、ヨハネス自身が何かに拘束されているようにしか見えなかった。
鈍い金属音が響き、メリーアンは我に返る。
ヨハネスが地面に鉄棒を突き、肩で大きく息をしていた。
車輪が消え、アロイスの体が地面に落ちる。派手な水音を立て、鮮血が周囲に飛び散った。その顔も頭も徹底的に砕かれ、もはや原形を留めていない。
ルシアンがアロイスへと近づき、その肩を軽く爪先で突いた。
「死んだか。……窒息か、頭部の損傷か。どちらにせよ、嫌な死に方だな」
「あんちゃん!」
クラリッサがヨハネスの傍へと駆け寄り、その肩に手を添える。
「気は済んだか?」
ルシアンが声をかけると、荒く呼吸しながらヨハネスは首を振った。
「……今ので、手や肩のあちこちが肉離れを起こしたようだからやめたんだ。正直、これで落ち着いたとは、とても――」
「落ち着いたよ、大丈夫。ほら、深呼吸しよ?」
クラリッサは優しい口調で言いながら、ヨハネスの肩をぎゅっと抱き締める。
その言葉に、ヨハネスは自嘲するように唇を吊り上げた。
「……リッサ。僕が怖いか?」
「うん。怖いよ、時々すごく」
ほとんど間を置かずにクラリッサは即答した。
あまりにも素直に認めた彼女に、メリーアンどころかルシアンさえも目を見開く。
クラリッサは静かな表情で、ヨハネスの背中をそっと撫でた。
「でもね、いつもじゃないよ。それに、あんちゃんが怖くなるのはいつもあたしのため。時々怖いけど――それでも、あたしはあんちゃんが大好きだよ」
ヨハネスは一度、深く呼吸した。そしてゆっくりと立ち上がると、彼はいつものように物憂げなまなざしで妹を見下ろした。
「……痛いところは、もう無いのか?」
「あたしは平気だよ。でもメリーアンが、あたしのせいで右腕を――」
「わ、私も大丈夫よ! もう直ったから!」
メリーアンは慌ててぐるぐると右手を回してみせた。
構成霊素が軋みを上げ、肩から指先までに刺すような痛みを感じた。しかし無理やり復元したおかげか、先ほどまでの激痛はもう感じない。
するとルシアンが革手袋を嵌め、メリーアンの右手を掴んだ。
「わ、わわ! 旦那様、どうなさいました?」
「右腕、相当ひどく壊したな? 我輩にも伝わったぞ」
ルシアンは眉を寄せ、軽くメリーアンを睨む。
「え、ええ……でも、気合いでくっつけました!」
「気合いでどうにかなるものか。とりあえず見せてみろ。まったくお前は無茶を――」
ルシアンはメリーアンの右腕を軽く撫で、いっそう眉間に皺を寄せた。
するとクラリッサが激しく首を振る。
「違うよ、ルシアン! メリーアンは悪くないの! あたしのせいで――っ」
肩を震わせ泣き出すクラリッサを、黙ってヨハネスが抱き寄せた。
親友の悲痛な表情を見たメリーアンは目を伏せ、ルシアンの手をそっと解いた。
「……私は大丈夫です、旦那様」
「やせ我慢はよせ。自分の状態がわかっているのか?」
「本当に私は大丈夫ですから。もう痛みもないですし」
メリーアンはぐっと右手を握りしめ、ルシアンを見上げた。
実際は、右腕全体を針に刺されているような鋭い痛みを感じていた。しかし、これくらいはなんということもない。これくらいの痛みは耐えなければいけない。
「それに――私は、旦那様が思われてるほど脆くはありません」
そしてここで笑えなければ、ルシアンのメイドにふさわしくない。
だから、メリーアンは優雅に微笑む。
するとルシアンはおもむろに手を伸ばし、メリーアンの顎を掴んだ。
「んっ……だ、旦那様?」
ぐいと顔を引き寄せられ、不安定な首筋がみちりと嫌な音を立てた。
至近距離から赤い瞳に睨まれ、メリーアンは硬直する。薄い唇を歪め、主人はいつになく苛立った表情でメイドを見下ろしていた。
「お前――」
その言葉を、最後まで聞くことはできなかった。
ルシアンがはっと赤い瞳を見開き、足下を見る。その視線を追う間もなく、メリーアンは突然ルシアンに突き飛ばされ、地面に転がった。
抗議するよりも早く、肉を刃が切り裂く湿った音が聞こえた。