13.礼賛詠唱
他種族の場合、呪文の詠唱を省略すればその分だけ魔術の力や精度は下がる。
しかし、魔女だけは違う。
蛮神を祖先に持つ彼らは、地上で最もマナの扱いに長けた種族だ。
故に魔女は、よほど高度な術でない限りは呪文の詠唱をほとんど必要としない。単純な魔術ならば息をするように自由自在に行使することができるのだ。
「《極彩神火》!」
クラリッサが両手の指を弾く。するとその両手から花火の如くカラフルな爆炎が弾け、眩く輝く無数の火球が飛びだしてきた。
それは通常ならば五文節以上の呪文詠唱が必要となる火の高等魔術。
しかしクラリッサが放った火球は、並みの魔術師の全文詠唱に等しい威力を持っていた。
霧の夜が極彩色に染まる。
火球は不規則な軌道を描きながら乱れ飛び、上下左右からアロイスへと襲いかかった。
風に舞う木の葉の如く、アロイスの体がゆらりと動く。
三つの火球がアロイスの体を掠め、すり抜ける。それだけでも凄まじい熱量がその身を焼いているはずだが、彼女の表情は変わらない。
避けきれない火球は黄金の剣を閃かせ、消散させる。
そうして全ての火球を防ぎ切り、アロイスは黄金の剣を水平に寝かせた。
そして――一体何のつもりか。彼女はその刃に手を滑らせ、自らの掌を切り裂いた。
赤い血がぬらりと剣を伝い、地面へと滴る。
「自分で自分を斬――!?」
仰天するメリーアンの声を遮り、どこかうっとりとしたアロイスの声が闇に轟いた。
「おお――! 大いなる金環の蛇よ! 悠久を生きる大智者よ……!」
――金環教の魔術は、他の魔術とはまったく一線を画している。
まるで頭の中に稲妻が走ったかのような感覚だった。
恍惚としたアロイスの言葉を聞いた瞬間、メリーアンはそれまで忘れていたルシアンの教えを急に思い出した。
『多くの魔術は、自身と周囲のマナをコントロールすることで行われる』
『しかし、この技術には天性の素質と研鑽が必要だ』
『だが――金環教は違う』
『まず、祭司は特殊な紋章を体のどこかに刻む。そしてそれを通じてセル=アウルバオトとその従属神からマナを受け取り、超常現象を引き起こすのだ』
『故に連中の呪文は、神に対する礼賛という形をとっている』
「魔術を使うつもりだわ――!」
アロイスの意図を理解し、メリーアンは地を蹴った。
どんな術も、詠唱を途中で止めれば発動しない。二つの刃を翻し、メリーアンは嵐のような連撃をアロイスめがけて叩き込んだ。
怒濤の如き斬撃をアロイスはかいくぐり、また黄金の剣を以て受け流した。
その間も口は朗々とした声でよどみなく詠唱を続けている。
「メリーアン! ぎりぎりまでお願い!」
絶え間なく続く剣戟の中で、メリーアンはクラリッサの声を聞いた。
親友の考えを察したメリーアンはわずかな隙を探り、アロイスとの距離を詰める。
アロイスの剣にとっては窮屈な間合い。
そこからメリーアンは一際激しい乱撃をアロイスの顔面に向けて放った。二つの刃が閃き、詠唱を続ける神官の目を狙う。
それでもアロイスは怯まなかった。
彼女は詠唱を止めないまま、なんと素手でオールワーカーを払いのけた。
硬い感触がメリーアンの手に伝わってくる。どうやら服の下に籠手を着けているらしい。
しかし、これで十分だった。
刃を弾かれるのに合わせ、メリーアンは幽体化。
重力を無視し、出来うる限り後方に飛ぶ。これによってそれまでメリーアンによって塞がれていたアロイスの視界が急に開けた。
その瞬間、赤く輝く両手をクラリッサが大きく振り上げる。
「《煉獄の色》――!」
ごうっと音を立て、クラリッサの前に炎の壁が立ち上がった。炎は急激に膨れあがり、空をも焼き付くしそうな程の巨大な壁となった。
それは火の超高等魔術。
魔女でさえ七文節の全文詠唱だけでなく、発動のための触媒まで必要となる。しかしクラリッサならば、時間さえかければ詠唱も触媒もなしに行使する事が出来た。
炎が壁の如く立ち上がり、夜空が赤々と燃え上がる。
クラリッサの後方に立ち、メリーアンは固唾を飲んで様子を見守る。
「……大盤振る舞いね。辺り一面焼け野原になりそう」
「良いんだよ、地ならしみたいなものだから」
クラリッサは事も無げに答えた。
炎の波がアロイスに向かって押し寄せる。呑み込まれたものは圧倒的な熱量で一瞬で灰燼と化し、形も残さず地上から消失した。
地獄めいた光景を前にしてなお、アロイスの表情は相変わらず虚ろだった。
しかしまさに火に呑まれようとしたその瞬間、アロイスは勢いよく両手を大きく広げた。
「おお! おお! 今こそ、邪悪の炎を打ち消し給え――!」
アロイスの絶叫が響いた瞬間、その背後に鮮烈な光が立ち上がった。
それは青白く輝く光の竜巻のようだった。
竜巻は大蛇の如くうねりながら、またたく間に炎の波へと襲いかかる。
嫌な予感がした。メリーアンは反射的にクラリッサの前に立ち、両手を大きく広げた。
「《うつろう天蓋》ッ!」
歪んだ鐘に似た音を立て、紫色に輝く障壁が二人の前に展開する。
その瞬間、巨大な爆発音が大気を揺るがした。
魔女街第七区――孟極楼。
窓の外から伝わってくる猫目街の喧噪はますます盛大になっているように思えた。
「ホロウマリアは貴方を龍にしたの?」
琥珀豹は再度、問う。
それに、ルシアンはリストから目も上げずに軽く肩をすくめた。
「――『龍にされた』と言うよりは『龍になった』が正しい。全て我輩の意思だ」
まるで気にもしていないというようなそぶり。しかしそれを目にした琥珀豹は何か痛ましいものを見たかのようにその美貌を歪ませる。
机上に置いた手をきつく握りしめ、琥珀豹はか細い声で呟いた。
「……私が、貴方達を助けに行っていたら、そんな事にはならなかったのよね。そうすれば、そんな惨い事には……弟子である貴方がホロウマリアの心臓を――」
「終わった事だ」
ルシアンの手が一瞬だけ琥珀豹の手に触れる。
琥珀豹がはっと顔を上げると、ルシアンはひらひらと手を振った。
「過ぎ去った事を悔やんでも仕方がない。――で、吸血鬼の血の出所は不明か」
会話を切り替えたルシアンに、琥珀豹の顔に一瞬だけ苦しげな表情がよぎった。しかし琥珀豹は目を伏せ、広げた扇子で顔を隠した。
「……それが本当に謎よ」
何度か深呼吸した後で、琥珀豹は答えた。
音を立て、扇子が閉じられる。現われた琥珀豹の顔に、もう憂いはなかった。
「この私でさえ吸血鬼の血液なんてここ十年は見てないわ。その血は本当に質が悪いけど、それでも市場に出ればかなりの額になる」
「ふむ……混合血液を構成する血液。その材料をお前は知っているか?」
「えぇ。【虎】にはさんざん辛酸を嘗めさせられたからねぇ。残った痕跡を徹底的に調べたから、おおよその内容は把握しているわ」
「では、あの混合血液、東方霊薬の熟手であるお前はどう見る?」
東方の大陸には独自の医学理論が存在し、それに基づいて調合された薬は『東方霊薬』と称され、その薬効から高値で取引されている。
そして、これらの薬は生薬として魔物の素材を用いる事が多い。
それを念頭に置いたルシアンの問いに、琥珀豹は閉じた扇子を唇に当てて考え込んだ。
「……そうねぇ。あれを作ったのは、魔法大学の関係者かなって思ったわ」
「何故?」
「リストの中に、管理が極めて困難な血液がいくつもあったわぁ。大火蜥蜴とかまさにそれよ。ヘタに扱うと爆発しちゃう」
扇子を開くと、琥珀豹はその表面に施された透かし彫りにそっと指を這わせた。
「血液の性質は魔物毎に異なる。それらを全て最適な環境で保管するのに――一体どれだけ巨大な設備と資金が必要になると思う?」
「さてな。……しかし、大学連中がこんな事に手を出すとは思えんが」
「どうだか。私は十分ありえると思うわよ」
魔法大学にあまり良い思い出がないのか、琥珀豹は苦い表情を浮かべる。
扇子で口元を隠し、彼女は吐き捨てるように言った。
「だって大学の教授連中って大体頭おかしいじゃない」