8.傾城、紅灯、豹の声
東方風の家具を揃えた上品な部屋だった。
美しく彩色した白磁の花瓶や皿が至る所に飾られ、部屋に彩りを添えている。
部屋を満たしていたのは、宵闇と気だるさだ。二人分の吐息と鼓動とが徐々に静まる中、琥珀豹はゆるりと身を起こした。
隣には乱れた着衣のルシアン。左手で顔を覆って、深く呼吸している。
透き通るように白い裸身を惜しげもなく晒したまま、琥珀豹は手を伸ばした。
「……ああ、この傷」
かすれた囁きとともに、白い指先がルシアンの傷跡をなぞる。
「まだ残っていたのね」
「触るな」
「あら、痛むの? 体が? それとも心が?」
「どちらも違う」
指の狭間から、ルシアンの赤い瞳が琥珀豹をぎろりと睨む。
「単に皮膚が敏感なのと……お前の触り方がどうにもいやらしくてたまらんだけだ」
「あらまぁ。今更何を言っているのかしら」
琥珀豹は口元を隠し、けらけらと笑う。その指先は、なおも傷痕をなぞり続けていた。
「それよりこの傷、メリーアンちゃんにはなんて教えたの? やっぱりあの子にも触らせてないわけ?」
「あれには何も言っていない。なにより、あれとはそういう関係じゃない」
「は……?」
ため息交じりのルシアンの言葉に、琥珀豹は一瞬硬直した。
「……あの子、抱いてないの?」
「抱いてない。そういう関係ではない」
「……幽霊だから? 幽霊を抱いたって怪談、東の方には腐るほどあるんだけど」
「違う。あれはメイドだ。メイドに手を出すわけがないだろう」
ルシアンは琥珀豹の手を払い、起き上がる。
琥珀豹は金の瞳を細め、シャツを直すルシアンの背中を見つめた。
「……ふぅん。貴方、そういう細かい事気にする方だったかしら」
「そうなった事にしておけ。実際それだけだ」
ルシアンは髪を雑に結い直しつつ、窓の方へと歩いて行く。
窓を開けると、冷たい夜風とともに外の喧噪がよりはっきりと伝わってきた。ルシアンは窓辺に肘をつき、くつくつと笑った。
「しかし……第八区で商売か。よくもそんな嘘がつけたものだな」
「あら、嘘はついてないわよ。情報を一部伏せただけ」
うつぶせになった琥珀豹はにいと唇を吊り上げた。あらわになった白い肩と背中にほどけた黒髪が散り、なんとも艶めかしい。
「それにうちは魔女街各地に支店がある。その中でも第八区の店が一番繁盛しているから、あながち間違いじゃないわ」
「だが、お前の本拠地はここだろう」
ルシアンは軽く手を広げ、窓の向こうを指し示して見せた。
屋根の反り返った楼閣、赤くぎらつく東方文字のネオンサイン、道端で乱れ舞う張り子の龍、軒先で碁を打つ老人達、羊や鳥を炙る屋台――。
まるで東方の大国『遥』の景色をそのまま持ってきたかのような街並み。
そこは魔女街第七区――猫目街と呼ばれる区画。
「魔女街第七区を牛耳るギャングの一角、魔女街東方ギャングの元締め――孟極楼の楼主と聞けば、誰もが震え上がる」
「無粋な子ねぇ、相変わらず。閨に女の子を入れたら浮世の話は駄目って言ったじゃない」
寝台の上に頬杖をつき、琥珀豹は人差し指を軽く振ってみせる。
ルシアンは鬱陶しそうにそっぽを向いた。
「やかましい……それで用件はなんだ。まさかよりを戻したいなどと言わんだろうな」
「冗談。私達そんな重たい関係じゃなかったでしょ」
「では一体、何の用だ?」
琥珀豹は寝台の脇に手を伸ばした。
そこには紫檀の卓があり、煙草盆と茶器とが並べてあった。煙草盆からキセルを取り、その火皿に刻み煙草を詰めながら琥珀豹は軽い口調で話した、
「この前、お宅のメイドがうちの子達をこてんぱんにしてくれたわよね」
「……幽霊喰いか。先に手を出したのは連中だろう」
孟極楼は、魔女街でも有数のギャングの一角だ。その収入源は娼館と阿片窟の運営、薬物売買の他、貴重な呪術素材の売買が主となっている。
そしてその素材には、幽霊も含まれる。
以前メリーアンを襲った幽霊食い達は、孟極楼の傘下組織の一つだ。
「それよぉ。この件、私としても微妙なのよねぇ」
ため息を吐きつつ、琥珀豹は赤く艶やかな唇にキセルを咥えた。
「確かに手を出したのはこちらが先。しかも、よりによって第四区支配者直属のメイドを襲撃したんだもの。最悪、街区間で戦争になっていたかもしれない」
「戦争にすらならんよ。我輩が尽く潰す」
「あらまぁ……坊ちゃんがずいぶん言うようになったわねぇ」
キセルから口を離し、琥珀豹が冷やかに笑う。唇の端から、白い牙がわずかに覗いた。
剣呑な微笑を優雅に手で隠しつつ、琥珀豹は甘ったるい声で囁いた。
「なんなら、今度はもっと派手な遊びをしてみる? 貴方の何もかもを開いて、乱して、犯して。血飛沫散るまでイかせてあげるわ」
「くくっ、余興にもならんよ。お前をイかせるなど造作も無い。指先一つで十分だ」
低い笑い声と共に、ルシアンの顔の左半分が影に包まれた。
不規則に揺らぐ影の中で、鮫のように鋭い牙が不気味な弧を描く。左の赤い瞳を熾火のように光らせながら、ルシアンは琥珀豹に微笑を返す。
赤と金の瞳がぶつかり合う。部屋は静まりかえり、禍々しい殺気だけが満ちていった。
「……やめましょ、殺し合いなんて」
先に目をそらしたのは、琥珀豹だった。
「ふん、確かに気晴らしができなくなるのは困るな」
ルシアンも肩をすくめると、顔の左半分に軽く手を滑らせた。不気味な影は消え、元の妖しく冷やかな美貌が彼の顔に戻る。
「でしょ? お互い空しいだけよ。やめときましょ」
緩く首を振ると、琥珀豹は憂鬱を紛らわすようにキセルに口を付けた。
「……それに、私は貴方に負い目がある」
紫煙とともに吐き出されたその言葉に、ルシアンはぴくりと眉を動かした。
「……とはいえ、このままじゃいけないのが私達の商売。幽霊喰い達も納得してないからね。なにかしら落とし前を付けないと」
カンッと音を立てて、琥珀豹は煙草盆にキセルの灰を落とした。
そして獲物を狙う猫の如く、金の瞳を細める。
「――さて、本題に入る前に、一つだけ念のために質問させてちょうだい」
「……なんだ」
ルシアンがわずかに身構える。琥珀豹はキセルから口を離し、鋭い声音で問いかけた。
「メリーアンちゃんをうちの店で働かせ」「ない」
「なら私にくれたりは」「しない」
長い沈黙が落ちた。
琥珀豹は煙草盆にキセルを置くと、やや引きつった笑みを浮かべた。
「……いくら出せば良い?」
「やらないと言っているだろう! くどいぞ!」
「だって欲しいんだもぉん……」
琥珀豹は枕に顔を埋めると、たまらない様子でぐねぐねと体をくねらせた。
「ねぇちょうだいよぉ、欲しくてたまらないの……あの紫の瞳がもう忘れられなくて……」
「駄々をこねるな! ……相変わらず見境がないな」
「単に男女どっちもいけるってだけよぉ。なんでもいいわけじゃないわ」
琥珀豹はごろりと寝台の上を転がり、仰向けになった。白い手をゆるゆると持ち上げ、目元を覆って深くため息をつく。
「それに私の本命はいつも、いつまでも一人だけ。……とっくに死んじゃったけど」
「ふん、一途なのか奔放なのか」
ルシアンは鼻を鳴らし、ズボンのポケットを探った。しかし、そこに煙草はない。
諦めたルシアンは腕を組み、琥珀豹を見やる。
「それで、交渉は決裂したわけだが……どうするんだ? 戦争でもするのか?」
「冗談。こっちの条件は最初から本気じゃなかったわ」
琥珀豹は寝台から手を伸ばし、床に散らばっていた白い絹の下着を拾い上げた。
それを身に付けた上からさらに赤い襦袢を羽織る。そうして、彼女は煙草盆の隣に並べていた茶器に手を伸ばした。
「私達に代わって、貴方達にある重大な問題を解決してもらう」
琥珀豹は玉製の茶杯を二つ用意した。
それに手際よく冷茶を注ぎつつ、琥珀豹は歌うような口調で朗々と語る。
「私達はそのために情報を提供する。――これで今回の件は手打ち。この条件を呑んでくれれば、今後孟極楼とその傘下組織はあなた達に手を加える事はない」
窓辺のルシアンに近づき、琥珀豹はそっと冷茶を満たした茶杯を一つ差し出す。
ルシアンは胡散臭そうに茶杯を見つめたまま、しばらく動かなかった。だが、やがて観念した様子で、ゆるゆると茶杯に手を伸ばした。
「……重大な問題とは?」
受け取った茶杯に口を付け、ルシアンは短く問いかけた。
そんな彼の髪に、琥珀豹はそっと指を通す。
「……【虎】よ」