7.冥王の死
数分後。メリーアンは居たたまれない顔でアッシャータの車の助手席に乗っていた。
運転席に座るアッシャータが大きな笑い声を上げる。
「最高だ! 貴女とドライブできるなんて! それでどこまで行こうか!」
「あ、あの、第四区の近くまでお願いします……」
「ハッハッハ! 任せたまえ! しかし第四区か……行ったことがない場所の一つだな。どんな所かね? 私も是非見てみたい!」
「や、やめた方が良いですよ。瘴気がすごく濃くて、準備もせず行くのは……!」
「お嬢さん、私にスカードの血が流れているのをお忘れかな?」
アッシャータはにんまりと笑って、尖った耳を軽く叩いて見せた。
「これでもすこぶる頑丈な体でね! ――しかし手土産も無しにうかがうのも失礼だ。またの機会にしておこう! しかし見てみたかったな! 魔女街第四区!」
「……アッシャータ様は、変わっていますね」
あっけらかんと笑うアッシャータに、メリーアンは純粋な感想を述べた。
「む、そうか? 私は変わっているのかね? どこが?」
「普通、魔女街に来たばかりの貴族の方はもっと暗い顔をしていらっしゃいます。でもアッシャータ様はなんだか……とても喜んでいるみたい」
「喜んでいるとも! この街は素晴らしい!」
満面の笑みを浮かべて、アッシャータは何度も大きくうなずいた。
「外界がどれだけ退屈で狂っているか、ご存知かな?」
「いえ、私は外に出たことがなくて」
「それは実に幸運だ! 外界は本当に退屈だよ!」
信号が赤になり、自動車が止まる。
アッシャータは大きく頭を振ると、深々とため息をついた。
「冥王に憧れているだなんて、外じゃ到底言えないさ」
「……アッシャータ様はどうして旦那さ――冥王に憧れているのですか?」
「むむ、なかなか難しい質問をするね」
アッシャータはふぅむと唸りつつ、アクセルを踏み込んだ。
「ただ強いて言うならば、彼が破壊者だったからだろう」
「破壊者……?」
いまいちピンとこない言葉にメリーアンは首をひねった。
「そもそも何故、金環教が人々にあそこまで受け入れられたかわかるかね?」
「えっと……存じ上げません」
「奇跡を汎用化したからだ」
「ハンヨウ――っとと」
ひねりすぎた首がミチッと音を立てた。
慌てて首が落ちないよう押さえるメリーアンをよそに、アッシャータは語る。
「例えば魔術はそれまで魔女か、才ある者にしか使えなかった。しかし金環教の伝える魔術は簡単で、修行さえほとんど必要としない」
結果、人々は金環教に熱狂したのだとアッシャータは言う。
「そして人々は教えを受け入れようとしない者を、異物として攻撃するようにした」
「異端者……ですね」
「そうとも。金環教黎明期の歴史はほとんど教会によって改竄、あるいは抹消されている。だが、その弾圧の始まりが極めて単純だった事は想像に難くない」
――こんなにも良いものを、何故彼らは受け入れようとしないのだろう?
全てはそんな異物感から始まった。
確か、ずいぶん前にルシアンにも同じような事を語られた気がする。
「異物感はやがて不安、恐怖へと変わり――そして排斥に転ずる、と」
「その通りだ、お嬢さん。――さて、話を戻そう。苛烈な布教によってロピア大陸のほぼ全土が金環教に教化されようとしたその時期に、ある男が東の荒野から現われた」
「……それが、冥王」
メリーアンが囁くと、アッシャータは深くうなずいた。
彼はどうにかして情熱を抑えようとしているように見えた。しかしメリーアンが見上げたその長い耳は、抑えきれない興奮のせいかわずかに振えていた。
「七年でアニムス=グロリアを滅ぼし、その勢力下にあった小国を次々に解放、さらには金環教の使徒達を要塞都市ウロボロスまで追い詰めた……まさしく英雄だ! 世界を塗り潰そうとした圧倒的な力に喰らいついた反逆者!」
その声は徐々に跳ね上がり、最後には熱狂の叫びと化していた。
一息にまくし立てたアッシャータは言葉を切り、大きく深呼吸を繰り返した。
「失礼――これは少しお嬢さんには難しい話かもしれない。だが憧れてしまうんだ! 冥王のように世界に覇を唱えてみたいと、私の心臓は叫ぶんだ……!」
「……でも、討たれたという事でしたね。それは、本当なのですか?」
おずおずとメリーアンは問う。
途端、アッシャータはそれまでの調子から一転して暗い顔でうなずいた。
「ああ……それは間違いない。冥王は殺された。かろうじて教会に消されていなかったどの文献でもそう書かれている。もっとも有名な伝承によればこうだ――」
――輝きのロイエリオン 冥王の背後に躍り出で その黒き心臓を貫いた
――されど冥王は斃れず 忌まわしき声とともに打ち返す
――血の風は七日天地を覆い 七夜星と影とが喰らい合う
――そして八度目の夜明けに龍は墜ち 影は地上から消え去った
――冥王は沈む あの暗いカルサリアの海に
「アンベイン=ロイエリオンとは熾聖七騎士の一人――いわば金環教の聖人だ。冥王はこの騎士に討たれ、ロピア大陸南方のカルサリア海に消えたという」
アッシャータはまるでたった今冥王が死んだかのように沈痛な表情で語る。
その説明を、メリーアンは上の空で聞いていた。
歌うように語られた冥王の最期。それを常日頃自分が見ている自堕落なルシアンの姿と重ね合わせようとしても、どうにもしっくりこない。
そもそも冥王とは、一体いつの時代に生きた人物なのだろう。
「……それは、どれくらい昔に起きた出来事だったのですか?」
「冥王によるウロボロス包囲は大陸歴一四一八年の夏から冬にかけて起きたそうだ」
「せ、一四一八年……!? 今がえっと、大陸歴二四四八年だから……」
「およそ千年前の話になるな」
その言葉にメリーアンは絶句する。
たしかに魔女街には年齢不詳の住民が多い。だが、長命と言われる魔女でさえ千年を生きる事はほとんどない。
「――だから納得いかないのだ」
苛立ちの混じったアッシャータの言葉にメリーアンは我に返る。
何度目かの赤信号。自動車を停めると、アッシャータは険しい顔で顎を撫でた。
「君の主人が冥王を名乗っていて、しかも周囲にそれが受け入れられている状況がな。彼は若すぎるし……なによりコラプサーを持っていないじゃないか」
「コラプサー?」
聞き慣れない言葉にメリーアンは首をかしげる。
「コラプサーは冥王が持つ魔剣の事だ。なんでも大陸を切り離したという伝承がある剣だそうだが……彼が剣を持っているところを見たことは?」
「いえ、旦那様は銃やナイフは使いますが……」
むしろ剣は時代遅れの武器だと小馬鹿にしているところさえある。
メリーアンがふるふると首を横に振ると、アッシャータはふんと鼻を慣した。
「やはりな。残念ながら君はからかわれているだけのようだ。コラプサーは冥王の所持品の中でもっとも有名なものだからな。お嬢さんも騙されちゃ駄目だぞ?」
「え、ええと……」
教え諭すようなアッシャータの言葉にメリーアンはまごつく。
ともに過ごしたこの半年間、ルシアンが剣を持っている姿など見たことがない。
彼は――ルシアン=マレオパールは一体何者なのか。
自分はあまりにも、主人の事について何も知らない――それを改めて思い知る。
メイドキャップのリボンをきつく握りしめ、メリーアンは答えを探すように窓を見た。
その時、見覚えのあるオレンジ色が硝子の向こうにちらついた。
「あ――と、止まってください!」
「む、わかった」
アッシャータはすぐに車を停めてくれた。
メリーアンはその扉からすり抜けて外に出ると、声を張り上げる。
「クラリッサ!」
「ん、メリーアン……?」
細い路地へと消えようとしていたクラリッサはすぐに反応してくれた。オレンジ色の髪をなびかせ、車道の傍へと駆け寄ってくる。
「今日は良く会うね。なんかたくさん会えて得した気分」
「ええ本当に! 私もまた会えて嬉しいわ」
メリーアンとクラリッサは手を取り合い、二度目の再会を喜んだ。
その後クラリッサは首をかしげ、メリーアンの後ろの自動車に目を向ける。
「そっちの大きい人はどちら様? メリーアンの友達なの?」
「おや、御友人かな」
自動車の中で、運転席のアッシャータがクラリッサに軽く会釈した。
「アドラー旧子爵アッシャータ様よ」
「あら……これはこれは」
するとクラリッサは口を両手で隠して、片膝を軽く折った。
魔女式の最敬礼だ。呪文を発する口を塞ぐ事で敵意のない事を示すという。
それを受けたアッシャータは苦笑し、首を振った。
「どうか楽にしてくれ、魔女のお嬢さん。私はただのはぐれ者だよ」
「それじゃお言葉に甘えて――二人はこれからどこにいくの? ルシアンはどうしたの?」
「私はこれから監獄館に帰ろうと思っていたの。クラリッサは?」
メリーアンがたずねると、クラリッサは軽く肩をすくめた。
「あたしはこれから仕事だよ。第三区の外れでさ、魔物退治するの。――そうだ、どうせなら一緒に来ない? メリーアンもいたらすぐに片付きそう」
「えっと、私は――」
「良いお誘いじゃないか。行っておいで」
迷う間もなく、アッシャータは柔らかな声でメリーアンを後押しした。
振り返るメリーアンに、彼はにっこりと笑ってうなずく。
「私のことは構わず、楽しんでくれば良い。同世代の御友人と一緒に帰った方がきっと楽しいだろう。名残惜しいが素晴らしいドライブだった」
「アッシャータ様……」
ルシアンにはとても言えそうにない台詞に、メリーアンは感嘆する。
「こういう所で好感度を上げねばな! ハッハッハ!」
しかし最後の一言で台無しだった。
脱力しかけるメリーアンに、アッシャータはいたずらっ子のように片目を瞑ってみせる。
「またお逢いしよう。次は是非、食事をご一緒したいね」
冥王について語るアッシャータの姿は、憧れの英雄に熱狂する子供のようだと思った。
しかしその本質はやはり紳士なのだと、メリーアンは改めて認識する。
軽い冗談一つにも、メリーアンが途中で離脱する事をあまり気に病まないようにするための気遣いを感じられた。
「……ええ、またお逢いしましょう」
その気遣いに心からの感謝を込め、メリーアンはスカートの裾を軽く摘まんで一礼する。
アッシャータはにっこりと笑い、優雅に手を振った。
自動車が発進する。その姿が見えなくなるまで、メリーアンは深々と一礼して見送った。