6.不安なメイドに豹が這い寄る
ルシアンは自動車を走らせ、隣にある第五区に向かった。
第五区は魔女街有数の商業地域だ。
『リンゴの種から古代王の骨まで』と謳われる魔女街最大規模の市場『エボニーガーデン』があり、魔女街には珍しく舗装が行き届いた通りには様々な店が軒を連ねる。
露天商の声が飛び交う中、メリーアンとルシアンは雑踏の中にいた。
「ネクタイにタイピンにハンカチに……そうだ、せっかくだから靴も新調したいな」
「……あの、旦那様」
メリーアンはおずおずとルシアンに声をかける。
「しかしまずは時計だ。うむ、時計は重要だ。――何だ、何か用か」
煙草を吸いつつ、ルシアンは振り返りもせずに答えた。
その視線は、正面のショーウィンドウに釘付けになっていた。防弾硝子の向こうには、ダイヤを散りばめた見事な腕時計が飾られていた。
完全にウィンドウショッピングだった。
メリーアンは眉を吊り上げ、腕時計を品定めしている主人を睨んだ。
「ありますよ! アルカさんに用事を二つ頼まれていたでしょう?」
「アロイス・ヴァインについてなら担当は我輩ではなくヨハンだ」
「でもあのキマイラの血液は!」
「それは気が向いたらやる。だから今はやらない。――というか今はどうしようもない。この街で、たったあれだけの情報で人捜しをしろというのは困難だ」
煙草を口から離し、ルシアンはひょいと肩をすくめた。
「でも、何もしないわけにもいかないでしょう?」
「どうせまた何か動きがある。動くのはその時でも良い。うまくいけば、我輩以外の誰かが片付けてくれるだろう」
そう答えて、ルシアンはまた涼しげな顔で煙草に口を付けた。
メリーアンはじとっとした目で、美味そうに煙草を吸う主人を見上げる。
「……本音は?」
「我輩めんどい。連勤やだ」
紫煙とともに吐き出されたのは極めて簡潔かつ自堕落な言葉だった。
メリーアンはその言葉に一瞬むっと頬を膨らませる。しかしすぐに良い考えが頭に浮かび、彼女はしゃんと背筋を伸ばした。
「でしたら、私がやります!」
「駄目だ。お前には任せられん。危なっかしいにも程がある」
即答するルシアンに、メリーアンは目尻を吊り上げる。
「最初に【虎】の依頼を受けたのは私です! ならば私が受けるのが道理でしょう!」
「確かにお前は【虎】を始末しろと言われた。だが、【虎】が何故ああなったかを調べろとまでは言われていないだろう」
「で、ですが私は……!」
メリーアンは必死で食い下がる。
ルシアンは道端に煙草を捨て、それを靴底で踏み潰した。
「お前にそこまで求めていない」
いつも通り素っ気ないルシアンの言葉。
なのに今は何故か、それが虚ろな胸の奥深くにぐさりと突き刺さったような気がした。
なにか、言わなければいけない。
しかしどう言えば良いのか、何を伝えれば良いのか。
「それでも……私は……!」
エプロンの裾をきつく握りしめ、メリーアンは必死で言葉を探す。
しかしそれが見つかるよりも早く、その背中に艶やかな女の声が絡みついた。
「――あら、可愛い子ねぇ」
「へっ……う、うわわわ……!」
しなやかな腕が腰と肩へと回され、メリーアンは体を強ばらせた。
鼻先に甘い花のような香りが漂う。背中になにか柔らかく大きなものが押し当てられるのを感じ、メリーアンは顔を真っ赤にした。
「……お前か。何の用だ」
ルシアンが思い切り顔を歪めた。
すると背後の女はくすっと笑って、メリーアンの体を解放する。
東方人の女だった。濡れたように艶やかな黒髪を、銀の髪飾りで結い上げている。黒い絹で出来た衣に身を包み、腰には琥珀の帯飾りを付けていた。
精緻な模様を透かし彫りした銀の扇を広げ、女は薄く笑う。
「つれないわねぇ。最近なかなか会いに来ないから、こっちはどうしたのかと思っていたのに。――でも、ちょうど良かった」
金の瞳を細め、女がルシアンに向かって一歩踏み出した。
扇がパチンと音を立てて閉じられる。
その次の瞬間には、女は流れるような動きで両腕をルシアンの首に絡ませていた。
甘えるようにまぶたを伏せ、女はするりとルシアンの胸元に頭をすりつける。その動きは何故だか甘える猫を思わせた。
「本当は先にアルカちゃんの所に行こうと思ってたのよ。貴方に会いに行く前にね……」
吐息混じりの声ともに、二人の顔がぐっと近づいた。
キスするのか。こんな往来で。そんな事を淡々と考えつつ、メリーアンは冷めた目で主人と女の顛末を見守る。だが、彼女の予想は外れた。
「……またか。何度言えばわかる」
ルシアンは女の唇を軽く押さえ、メリーアン以上に冷めた目で彼女を見る。
「常々言っているだろう。……我輩はあまりキスが好きではない」
「あら、相変わらずねぇ。たまには付き合ってくれても良いじゃなぁい」
女は悪びれた様子も傷ついた様子もない。
いたずらっ子のように笑ってルシアンから体を離し、軽く手招きしてみせた。
「まぁいいわ。ねぇルシアン? 私にちょっと付き合ってちょうだいな」
「断る」
「あら、どうして? いつもは構ってくれるじゃなぁい」
拗ねたように唇を尖らせる女に、ルシアンは事も無げに肩をすくめた。
「気分の問題だ。アルカに絡まれたせいで疲れていてな、とっとと帰りたい」
「あら、残念――じゃあ、貴方の可愛いメイドちゃんにお願いしようかしらぁ」
「……なんだと?」
「え、え?」
状況が掴めず混乱するメリーアンに女は再びするりとすり寄ってきた。腰に手を回しつつ、女は甘い声で耳元に囁いてくる。
「申し遅れたわね。私は琥珀豹と呼ばれる者……第八区で商売をしているの。ルシアンの古いお友達よぉ。――貴女、メリーアンちゃんよね?」
「な、何故、私の名前を知ひぃあぁあ」
何の前触れもなく背筋を撫で上げられた。
実体化しているとは言え、感覚の鈍いはずの霊体にも稲妻のような刺激が這い上がる。メリーアンの口から漏れた悲鳴に、琥珀豹はうっとりと目を細めた。
「良い声ね……まるで金糸雀のようだわ。眼の色も素敵、なんて綺麗な菫色……」
扇で口元を隠し、琥珀豹がさらに腕を絡みつけてくる。
覗き込んでくる金の瞳は、瞳孔が縦に裂けている。人間とは異なるそれが大型の獣を思い起こさせ、このまま頭から食われるような錯覚を抱かせた。
「あ、あの……ちょっ、どこ触っ……!」
「甘い飲み物も冷たい菓子も、好きなだけあげる。だから……ねぇ? ルシアンの代わりに、私のところに来なぁい? たくさん楽しませてあげるから」
「――馬鹿を言え」
ここまで不機嫌そうな主人の声はほとんど聞いたことがない。
ルシアンは琥珀豹の肩を掴み、強引にメリーアンから引き離した。そして「きゃあん」とわざとらしい悲鳴を上げる琥珀豹をぎろりと睨む。
「……我輩が行く。だからこれ以上、メイドに触れるな」
「あらぁ? 疲れていたのではなくて?」
「気が変わった。――お前にメイドを任せるなど恐ろしくてたまらん」
「もぉー、人の事をなんだと思ってるのよぉ」
言葉こそむっとした様子だった。しかし扇で口元を隠していても隠しきれないほど、琥珀豹の顔は勝ち誇った笑みで満ちている。
「え、だ、旦那様! 私はどうすれば!」
「……そうだな。お前には、重大任務を与えるとしよう」
「重大任務! はい、なんですか!」
願ってもない言葉にメリーアンは目を輝かせ、姿勢をさっと正す。
ルシアンは黒革の財布を取り出すと、その中から一枚のコインを摘まんだ。
「エボニーガーデンの近くに、白い熊が目印の店がある。――そこにこれを持っていけ」
ルシアンが弾いたコインをメリーアンは慌てて受け取る。
ロピア大陸で百年ほど前に流通した金貨だ。現在のゴールドランドの通貨単位に換算すればこれ一枚で約二万ダル。高級レストランでランチ一食を頼める額だ。
そんな大金を手にして、メリーアンはぷるぷると震えだした。
「こ、この、お金を持っていってそれで……?」
「いいか、一度しかいわないからよく聞けよ」
財布をポケットに収め、ルシアンはわずかに身を屈める。
金貨を握りしめたまま震えるメリーアンの耳に口元を近づけ、彼はそっと囁いた。
「――それで店主にアイスクリームを注文するのだ」
「アッハ――ハァアアア!? ア、アイス!? 今、アイスと仰いましたか、旦那様!」
産業革命により冷蔵技術が発達したとはいえ、未だアイスクリームは高級品だ。
当然メリーアンも一度も口にしたことがない。
「いいか、ゆっくり食え。いいか、くれぐれもゆっくりだぞ。アイスを高速で食うと大変な事になるからな。ついでにしっかり容器を洗ってこい」
「私がアイスを食べて容器を洗う! そ、それが重大任務ですか、旦那様!」
「そうだ。日没までに任務を完遂し、監獄館に帰還せよ」
「が、合点承知です! では失敬!」
「迷うなよー」
会釈もそこそこに幽体化し、メリーアンはすぐに飛び立つ。
それをルシアンはハンカチを振って見送った。やがてメリーアンの姿が見えなくなったところで彼は手を下ろし、ふっとため息をつく。
扇をぱちりと閉じ、琥珀豹が言い辛そうに口を開いた。
「よくもまぁあんなに頭が悪――素直で純朴な子が、この魔女街で過ごせてるものね」
「嵌めておいてなんだが我輩も少し心配になってきた。まぁ、時たまあの単純さが便利になることもあるんだが。ちょうど今のように」
「悪い人ねぇ。女の子を食い物にするなんて、悪趣味だわ」
「フン……どの口が言う」
ルシアンは鼻で笑い、シガレットケースから煙草を一本取り出した。
煙草を咥え、いつもの箱型ライターを探しながら短く問う。
「……用件は?」
「色々よぉ。メインは貴方達が最近アルカに押しつけられてる奴。それと――」
言いながら琥珀豹は袖からライターを取り出し、ルシアンの煙草に火を点けた。
そしてライターを閉じると、琥珀豹はおもむろにルシアンの顔に触れた。ルシアンの頬から顎のラインにするりと手を這わせ、囁いた。
「久々に貴方と遊んでみたくなっただけよ。……可愛いルシアン」
ルシアンは取り出しかけていた箱型ライターを片付け、黙って肩をすくめた。
「……何かがおかしいわ」
メリーアンがようやく気づいたのは、辺りが暗くなってきた頃だった。
アイスは食べられていない。極度の方向音痴だったメリーアンは店にたどり着けず、見知らぬ通りをぐるぐるとさまよっていた。
「もしかして私……旦那様に嵌められた……?」
考えてみれば最初からおかしかった。体良くメリーアンを追い払い、きっと今頃は琥珀豹をつれて、どこかで遊んでいるに違いない。
「だ、旦那様のばか!」
吐き出すように言た直後、メリーアンはさっとあたりの様子をうかがった。
ルシアンの姿はない。今の悪口は、彼の耳には届かなかったはずだ。
「……旦那様の、ばか」
メイドキャップのリボンをぐしゃりと握り、 メリーアンはため息をつく。
雑な扱いをされるのはいつものこと。だが――。
『お前にそこまで求めていない』
「……知っているわ」
メリーアンは呟き、頭を抱えた。
「私はばかだし、抜けているし……期待されてないなんて、最初から――」
「おや、これは!」
聞き覚えのある声に、メリーアンは顔を上げた。
道端に赤い自動車が止まっているのが見える。その運転席の扉が勢いよく開き、中から大柄な男が飛びだしてきた。
銀の髪、褐色の肌、尖った耳――【虎】の元飼い主、アッシャータだ。
喜色満面のアッシャータは大股でメリーアンに近づき、手をさしのべてきた。
「白百合! 魔女街の白百合ではないか! メリーアン嬢、このようなところで貴女に会えるとは! 私は魔女街一の幸せ者だ!」
「は、はあ……ご、ごきげんよう」
戸惑いつつもメリーアンは軽く実体化し、手を伸ばす。
アッシャータはその手の甲に軽く口付けると、メリーアンの周囲を見回した。
「おや、今日はあの自称冥王はいないのか。これは素晴らしい! どうだね、これから私と食事に行かないか?」
「いえ、勤務中なので……あ」
そこでふとメリーアンは思い出し、辺りを見回す。
まったく見知らぬ風景だ。ここが魔女街のどこかはわからないが、少なくとも第五区ではない事は確かだと思う。
メリーアンはエプロンの裾をぎゅっと握りしめ、アッシャータを見上げた。
「あの……ここ、どこかご存じですか……?」