2.オーダーはバーテンダーに
『準備中』という札も気にせず、ルシアンはレッドスパイダーの扉を開けた。
店内の様子は昨夜とほとんど変わらない。綺麗に磨かれたカウンターの向こうで、アルカが書類を片手にバタバタしていた。
「いらっしゃーい。今色々準備してるからちょっと待ってねー」
「うむ……ヨハンはどうしたのだ、一体」
ボックス席の方に目を向け、ルシアンが眉をひそめた。
昨晩と同じテーブルに、ヨハネスがぐったりと突っ伏していた。ぼさぼさの頭を抱え、ヨハネスはゆるゆると首を振った。
「うるさい……僕の事なんかどうだっていいだろう……」
「まさか一晩中呑んでたのか?」
「いんや。一回帰ったよ。ただ途中でスッ転んでせっかく作った論文を泥水にばらまいちゃったの、この可哀想な准教授」
書類を抱えたアルカが肩をすくめ、関係者用の小さな戸口に消える。
ルシアンとメリーアンは同情の目でヨハネスを見た。
「あの、大丈夫ですか……?」
「……一杯奢ってやろうか」
「放っておいてくれ……今の僕には静寂が必要だ……」
ダークオレンジの髪をぐしゃりと鷲掴み、ヨハネスは呻いた。
しかしふと、その視線がメリーアンに向けられる。
「……君、ガロウズに行ったらしいな」
「え、えぇ。虎退治のために。どうしてそれを?」
「……妹が心配していた。それと――ルシアン。君、メイドのすぐ後で妹の店に来たらしいな。まさか妹に手を出したりしていないだろうな」
「旦那様?」
驚愕してメリーアンはルシアンを見る。
ルシアンは先日と同じカウンター席に座ると、涼しげな顔で煙草に火を付けた。
「一体なんのことだ? 我輩はとんと記憶にないな」
「とぼけるなよ。妹にメイドの行方を聞きに来ただろう。君のせいで、界隈一帯の魔女がきゃあきゃあ騒いでやかましかったんだ」
「ほう、まさか我輩並みの色男が魔女街にいたとはな」
薄く笑って肩をすくめるルシアンに、ヨハネスは深くため息を吐いた。
「とことんまで認めないつもりか。――まぁいい。ともかくメイド、妹が心配していた。時間があったら会いに行ってやってくれ」
「は、はい……もちろんです」
涼しげな顔のルシアンを戸惑いの目で見つつ、メリーアンはこくこくとうなずく。
「あいつが悩んでると室温が上がるんだ……」とヨハネスは深々とため息を吐き、テーブルにがっくりと顔を伏せた。
メリーアンは席に着くと、隣でひたすら煙草をふかす主人の姿をちらりと見た。
「……クラリッサに聞いたんですね。私の居場所」
「知らん。だから奇跡的に我輩に似た他人だと言っているだろう」
「……ありがとうございます」
きっとルシアンは認めないだろう。それでも、メリーアンは小さく礼を言った。
ルシアンは鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「――はいはぁい、お待たせぇ」
関係者用の戸口が開き、アルカがカウンターの向こうに戻る。
いくつかの書類を置くと、彼は両手をすり合せながらメリーアン達に笑顔を向けた。
「まずは虎退治お疲れ様。メリーアンちゃんもがんばってたねー、えらいえらい」
「あ、ありがとうございます……?」
その言い方にメリーアンはやや戸惑う。
灰皿に灰を落とし、ルシアンが目を細めた。
「……見てたな?」
「見てたさ。知っての通り、おれはどこにでもいるからね」
アルカは意味ありげに笑うと、背後の棚からウィスキーと大麦酒とを取り出した。
それをステアする事でできあがるカクテルは相当甘く、ルシアンのお気に入りだと言うことをメリーアンは知っている。
手際よくカクテルをグラスに注ぎ、アルカはそれを盆の上に載せた。
「旧子爵も君達の活躍にご満悦だ。今回の報酬はいつもの口座に振り込んである。――その他詳細はこちらをご覧あれ」
アルカはうやうやしい所作でルシアンの目の前に盆を置いた。
盆の上には出来上がったカクテルの他に、二つの物が載っていた。チョコレートを盛り合わせた小さな硝子の鉢と、一通の封筒だ。
封筒は見た目にも上質そうな紙で出来ていて、紋章付きの封蝋で閉じられていた。
ルシアンはおもむろに手を伸ばし、封筒をとった。
「……あの【虎】だが。組合が動くほどの事だったのか?」
「この街には世界中からおかしな物が集まってくるからさ。念には念を入れないとねぇ」
「組合って……まさか、魔女街組合のことですか?」
恐る恐るメリーアンはたずねる。
魔女街組合――それはこの魔女街を事実上支配する自治会のことだ。魔女街十三区の支配者とその他の主立った組織によって組合は形成され、運営される。
アルカはオレンジとピーチシロップを用意しながらうなずいた。
「そうだよー。あの虎退治はね、魔女街組合を通じたオーダーだったのさ」
「組合ってこういう仕事もするんですね……」
「というかこういう仕事ばっかりだねぇ。うちは緩いからさ」
アルカはへらっと笑いつつオレンジをナイフで半分に切った。そしてそれから果汁を搾り取り、ピーチシロップとともに丸みを帯びたグラスに注ぐ。
「会議以外の時はいつもこんな感じだよ。街で起きたちょっと度を過ぎて妙な事とか、あんまりにも物騒な事件とか……そういう異変を解決してるわけ」
「なるほど……でもこの街じゃ妙な事や物騒な事件などは日常茶飯事では?」
「うん。だから基本的に大半の要請は無視する」
「む、無視」
絶句するメリーアンの前にノンアルコールカクテルが置かれた。
オレンジの果汁とピンクのシロップが混ざった、夜明けの空の色を思わせるカクテルだ。
「名付けて曖昧橙酒抜き。桃かオレンジか曖昧な奴。どーぞ」
「あ、ありがとうございます……」
メリーアンはぎこちなくグラスに口を付けた。とろけるように甘い果物の味が素晴らしいが、隣の甘党がちらちらと見てくるのが気になって仕方がない。
ルシアンはじっとメリーアンのグラスを見つつ、自分の酒をちびりと呑んだ。
「……いちいち相手取っていたらキリがないからな。それに魔女街には元より咒屋だの始末屋だの、その手の商売をやっている奴らがごまんといる」
ルシアンの言葉に、アルカが「そーそー」とうなずく。
「んで、そういう連中じゃ駄目な時に初めて組合が動くわけ。おれが窓口になって、手が空いてる組合員とかに動いてもらうの」
「そうだったんですか――旦那様、一口飲みますか?」
相槌を打ちつつ、視線に耐えかねたメリーアンはそっと隣の甘党にグラスを差し出した。
ルシアンはごくりと喉を鳴らしたが、すぐに視線を逸らした。
「い……らん、いらんぞ。ああ、別に欲しいなどとは言っていない」
「旦那様にも是非飲んでいただきたいんです。この美味しさは味わうべきです」
「……よろしい。お前がそこまで言うならもらってやろう」
メリーアンが後押ししてやると、ルシアンはさっと彼女のグラスをとった。
そうしてぐびぐびと喉を鳴らして飲む。
「――で、今回の一件だ。我々が動く必要がどこにあった?」
「……あう」
空になったグラスを見て、予想はしていたもののメリーアンは嘆きの声を漏らした。
一方ルシアンは満足げに口を拭いながらアルカにたずねる。
「あの程度の魔物なら、ちょっとした術士なら始末できるだろう」
「君って本当に大人げないねぇ――まぁ理由は三通りだ」
アルカはしょんぼりとしたメリーアンの肩を叩くと、またカクテルの用意を始めた。
「一つは基本的に会議をサボる第四区支配者への嫌がらせ」
「何だと貴様」
「文句は言えませんよ、旦那様」
「もう一つは……最近なんだか魔女街がきな臭くてねぇ」
オレンジを搾る手をいったん止め、アルカは深くため息をもらした。
ルシアンは興味を惹かれた様子で口元を左手で覆う。
「ほう?」
「あの後、うちで【虎】の残骸を回収したんだけどさ。大半の組織は君の魔法でエラい事になってたけど、無事な部分もあった。そこをおれなりに調べてみたのよ」
アルカは微妙な表情で、新しく作った曖昧橙酒抜きをメリーアンの前に置いた。
「少なくともあれは呪いじゃない」
「呪いではない……? ならば何故あんな姿に――?」
【虎】の姿を思い出し、メリーアンは首をかしげる。
あれが呪いでないというならば、一体何故あんな無惨な姿に変貌してしまったのか。