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マラソンマン

作者: 前田剛力
掲載日:2016/08/05

二時間近くをただ無心に走り抜くのは難しい。ましてや、トリッパ-もないのだから。

栄光の瞬間まであと僅かだ、と沿道の声援が教えてくれる。栄光、そう、僕はそれだけを願って屈辱の青春を過ごしてきたのだ。その長く続いた苦悩の日々もこれで終わる。義務を果たし終え、常人に戻れるのだ。そう考えると勝敗などどうでもよくなってしまう。


小学生の僕は野球、サッカーからランニング、水泳までスポーツ万能で近所の有名人、ところがこれがとんだ災いの元で、噂を聞きつけてきたスポーツ省の役人に家族が説得されてしまい、本人の知らないところで選手登録が行われてしまったのだ。

ああ、我が子の将来を考えての事とは言え、これで僕の幸せな子供時代は終わってしまった。もちろん、これは名誉な事であり裕福な未来も約束される。本当に見込みがあると判断された子供だけしか選手登録などされないのだから。

しかし子供にそんな事情の分かるはずがなかった。「選択」後はマンツーマンでコーチが付き(今、その男が僕の隣を、大声を出しながら走っている)オリンピックを目指した特別のトレーニングが始まった。

選択前の僕にはガールフレンドがいたのだが、テニスで僕がてんで相手にならなくなった時に彼女からサヨナラを言われた。でも無理もない、女の子はスポーツの出来る男の子が好きなのだから。そして僕は毎日欠かさず厳しいトレーニングをしていたにも係わらず、普通の女の子に歯が立たなくなってしまったのだ。


僕は直線道路に入ってしばらくしたところで振り返ったが、後続者は見えなかった。随分、差をつけてしまったらしい。コーチも隣で満足そうに頷いていた。


中学校からは分離教育となり、選択された者ばかりが集められた。これ以上、普通人達と一緒に生活すると精神に回復不能なダメージを受ける者がでるからだった。もしそうなったら本当にお手上げ、いかなる薬も使えないのだから。

同じ仲間だけになるというのは気の休まる事ではあったが、反面、お互いの顔ばかり見ていると憂鬱になる。我々はスポーツエリートのはずなのだ。それなのに、誰の顔にもそのような誇り、自信の表情はない。国を代表してオリンピックに出場する名誉を得た者達だと言うのに。


少し足が重くなってきた。ピッチが落ちているぞとコーチから注意を受ける。

僕は一つの事に集中するよりも、競技中にもいろいろな事を考えるタイプだ。それでマラソンに指名されたのだと思う。二時間近くを精神統一して走るのはかえって疲労を増すだけで、いろいろ他の考え事をする事で苦しみを緩和できるメリットがあるのだと説明された。

とにかく、選択と訓練は科学的に行われていたし、僕の快走はその正しさを十分証明していた。

我々は選択された時点でターゲットとなるオリンピックも決まっている。僕は10才で のマラソンに選抜されてからずっと、今日のためにトレーニングを積み重ねてきたのだ。この苦しみもあと20分少々で終わる。

僕が初めて真剣な恋をしたのは17才の時だった。普通、僕たちは選択者同士でカップルをつくる。しかし僕はそれを嫌って普通の女の子と、スポーツなどまるで興味のない可愛い娘と付き合い始めたのだ。もちろん、彼女は僕の正体を知らなかった。

普段のデートで体力を目一杯発揮する機会などほとんどないので、映画を見たり、お茶を飲んだりするだけのデートはしばらくうまく言っていた。つまり、僕たちはプラトニックラブの関係でもあったのだ。もし、焦ってセックスをしようとしたら簡単に僕の正体もばれてしまった事だろう。

男性の選択者達は浮気相手を探す人妻の絶好のターゲット、と茶化されている。何しろ体力に違いがありすぎるので、テクニックを磨かざるを得ない。彼女たちは熱心な愛撫を堪能し、しかも妊娠の可能性はほとんどないとくれば(これも体力差からくるのだろうか)確かに浮気の相手としては最高だ。

僕たちと寝た女はバージンのまま朝を迎える(勿論、その女がベッドに入る前に処女だったのなら、だが)と言われるのもまんざら嘘ではないかもしれない。

とにかく僕は危険を避けたので、彼女は不満だったろうが、二人の仲は続いていた。しかしこの関係も彼女が海に行きたいと言い出した時に破局を迎えた。

「私がスポーツ、苦手と言ってもあなたまで付き合う事はないのよ。海なら波打ち際で遊ぶことも出来るし」

ところが、彼女は水遊びよりほんの少し沖に出て、波にさらわれたのだ。彼女は全く泳げなかった。僕は我を忘れて海に飛び込み、彼女を助け上げようとした。しかし、必死でしがみつく彼女の力に身動きが出来なくなり、二人ともそのまま溺れてしまった。

気がついた時は、砂浜に寝かされていた。海岸にいた子供たちに救われたのだった。

彼女は海から帰る途中ずっと黙り通していたが、別れる寸前に思い切ったように口を開いた。

「私はあなたを嫌いじゃあないわ。今でも。だけどあなたは私に自分の事を隠していた。あなた達の事はマスコミでは聞いて知っていたけど、まさか自分のボーイフレンドがそうだとは思ってもみなかった。オリンピックが終わるとあなたも普通の人になれるのよね。でも今の私にはやはりあなたと付き合っていける自信はないわ」

そう言うと彼女は、僕には到底追いつけないスピードで走り去ってしまったのだ。


突然の歓声に僕はハッとなり、我に返った。考え事に没頭してスピードが極端に落ちていたのだ。気づいた時には二位の選手がすぐ後ろに迫っていて、気を取り直す間もなく、抜かれてしまった。

「ばかやろう!」

コーチは傍目も気にせず怒鳴る。

全く彼が怒鳴るもの無理はない。走っている途中で気を抜くなんて。僕たちは全員、必死なのだ。このオリンピックに青春の全てを賭けているのだから。

絶対にトップの背中から離れてはいけない。落ちつけ。自分にそう言い聞かせた。ここで引き離されたら、一気に崩れてしまうだろう。

なんて馬鹿な事を考えていたんだ。勝敗なんかどうでもいいなんて。優勝できなければ意味ないじゃあないか。絶対に負けるわけない、なんてうぬぼれていた罰が当たったんだ。

僕が、いや私が思い上がっていました。神様、どうか私に力をお貸し下さい。

それから五分間、苦しい戦いが続いた。僕は必死に食い下がった。そしてようやくピッチを取り戻し、先頭に並ぶと再び抜き返してトップに立った。これで相手はガックリきたらしい。みるみる遅れはじめ、また見えなくなってしまった。

僕は再び、一人になった。観客達はひとときのスリルを楽しみ、満足していた。


まったくいい気なもんだ。奴らにはこの42.195kmを走る苦しみは分かるまい。アベベや君原、瀬古、かつての名ランナー達が味わったこの苦しみは。奴らに同じ苦しみを味わわせようとしたら、200kmは走らせないと無理だろう。

副作用なしに体力を倍増させる薬が薬局で売られている今の薬物万能の時代、オリンピックの記録も全て大幅に塗り替えられて当然だった。トン単位で勝敗の決まる重量挙げ、1キロメートルはフィールドの必要になる槍投げやハンマー投げそして3秒台前半で争われる100m走等々。

しかしIOCは断固これを拒否していた。かつては、薬物の乱用が選手自身の生命に危険を及ぼすとしてドーピング検査を行った。しかし人体に危険のない薬が出来た今、彼らの言い分は違っていた。

先人達が血と汗と涙で築き上げてきた記録を一粒の錠剤を飲んだ中学生に書き替えさせていいのか。これは先人達の努力の冒涜だ。オリンピックはあくまでも、過去の人間と同じ条件で争わなければならぬ、これが過去の名選手を多く含むIOC委員会の結論だった。そして、当然の事だが今は健康薬を手放さない、これらかつての名選手たちはすこぶる付きの元気で、委員の座を当分後輩に譲りそうもない。

そして大衆もこの結論を、古き良き時代の郷愁をもって受け入れたのだ。ここに正統オリンピックの守護を目的として万国スポーツ協約が誕生したのである。

この協約の下、オリンピックに出場する選手には体力増強剤や栄養剤は勿論の事、単なる風邪薬から普段に摂る食事まで厳しく規制された。今ではごく普通の食品にも何らかの体力増強、代謝機能向上につながる薬品が含まれていたからだ。無害なら、普通の食事をしながら力を付けることに何の問題があろう。オリンピックの選手達を除いては。

しかし選択選手達はこれらの薬の影響をなくすために、隔離して自然食のみによるトレーニングを行う事が義務付けられたのである。

そしてこの選手隔離制度から誕生した我々、常人と比べ全ての面で劣るアスリートたちが競う事によってオリンピックの伝統が守られたのである。

しかし、この苦しみももう終わりだ。あと数分で僕も常人の仲間入りできる。それが何より嬉しかった。オリンピックの名声と報酬により幸せな引退生活が約束されていた。今後はみんなに追いつくために、かなり多量の薬物をとる必要はあったが。

いよいよスタジアムに帰ってきた。ここには僕と一緒に42kmを走ってきた何千と言う見物人が先回りして待っていた。耳を聾せんばかりの歓声が僕を迎えてくれた。コーチはさっきから新記録、新記録と叫びながら、身長の2倍も飛び上がっていた。

テープを切りながら考えていたのは、明日もう一度このコースを30分以内で走ってやるぞという事だった。もちろん、ランファスターを飲んでではあるが。


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