第一話
昼が過ぎ、これから昼食を取る者や、新たな地へ向かう者が現れる。
騒然とする街中で、様々な人々の声や表情が飛び交い活気を生み出す。
そんな露店の建ち並ぶ大通りとは裏腹に、裏路地には冷たい空気が吹き通る。
苔のこびり付いた壁を、日向を嫌う者達が通り過ぎ、異様な雰囲気を晒け出す。
まるで水と油のような、相対した二つの世界が一つの街として重なり合う。
そんな事を誰かが気にする筈もなく、裏路地では一つの血生臭い光景が産み出されていた。
「はぁ……はぁ……」
右腕を左手で押さえ、流れる血を塞き止めようとする男の姿が一人。
木箱の影に隠れ、息を潜める彼の肌には大量の汗が付着している。
息は荒く、小刻みに震える体は今にも失禁しそうな勢いだ。
そんな男の頭に過るのは、突然目の前に現れた"ヤツ"。
突然目の前に現れ、仲間二人を殺した悪魔であり、今自身の命を狙っている死神。
お迎えなどまだ早いぞ、と周りを見渡すと、その場を離れるために走り出した。
「くそっ、くそっ!」
年甲斐無く溢れる涙を腕で拭いながら、死に物狂いで逃げる。
死ぬわけにはいかない。
一瞬で死んだ、仲間の二人みたいに死ぬ訳には──
「まぁ、逃げんなよ」
背後から聞こえた、淡々と述べるように発される言葉は、まるで死の宣告をしているように鼓膜を震わした。
心臓を握られたような気分になる。
鼓動が早くなり、それに比例して息も荒くなって行く。
力が入らなくなった膝は、既に恐怖に侵されて言う事を聞かなくなっていた。
人間というものは、自身の死が近付くとプライドや全てを捨て去り生にしがみつこうとする。
男もまた、恐怖の念に頭を侵され、涙に顔を歪めながら必死に頭を地面に擦り付けた。
「やだっ、死にたくないっ……! ゆ、許してくれ……!」
「別に怒ってないけど、運が悪かった、って諦めてよ」
フードを被っていて良く顔は見えないが、目の前に居る"ヤツ"の声は何の感情も隠っていない。
冷たく、ただただ当たり前のように。
死にたくないの一心で土下座する男の姿を
、蔑む訳でもなく、何をするわけでもなく。
心底興味無さそうに一瞥すると、片手にあった剣を突き立てた。
***
マナスタキア王国。
辺境の地にある小さな国であり、他国と比べて、商いが非常に盛んな国として知られている。
服、家具、日用雑貨、果てには剣などの武器までもが揃っているのだ。
そして、やはり商いが盛んな為か、人が多く活気も凄い。
夜でも光の絶えない国の様子は、まさしく一つの太陽のようだ。
しかし、光あるところに影はある。
「……ふぁ」
そんな闇の一つ、呑気に欠伸を噛み殺す少年。
背丈は、お世辞にも大きいとは言えないが、バランスの取れた体つきから、少なからず武を齧っているのは見受けられる。
騒がしく通り過ぎる男女の群れを一瞥すると、片手に持つ本を閉じて懐にしまった。
ふと、少年──"ユーリ・ガラルデッタ"は、すれ違う魔法使いを見る。
豪華なローブと、控えめという言葉を知らない杖は、如何にも金持ちといった風格であり、皮肉を言われているようだった。
「……」
あまり上等とは言えない自身の剣が、急に見窄らしくなる。
一つ大きな溜め息を吐くと、ユーリは成すべきことをする為に歩き出した。
向かうのは多くの貴族が泊まる、高値の宿屋だ。
別に、彼は泊まりに行くわけではない。
そんな金があるのなら、全て他に回してしまうだろう。
他の建物より一回り大きく、色の濃い宿屋の入口へ一歩踏み入れる。
すると、受付の前に並ぶ大勢の貴族とその従者が目に写った。
舌打ちを一つ残し、何とか人混みを抜けると、少し離れた位置である男を探す。
頭の中で渦巻くその男の特徴が、当てはまらない人物を意識外に弾いていった。
暫くすると、徐にユーリは回していた首を止める。
そこには、受付の女性を厭らしい目で見詰めている、引き締まらない腹と傲慢的な表情を浮かべる男が居た。
──アイツだ
心の中でそう呟くと、ユーリは無言でその男に近付く。
そう、ユーリは……彼は、男を暗殺の為に此処へ来たのだ。
後ろに従える護衛を連れて何処かへ向かう男。
それを一瞥すると、周りから見えぬよう剣を抜いて、音を立てずに近付く。
一閃。一振りで男の首を落とす。
噴水のように吹き出す血は後ろに居た護衛の鎧を赤く染め、まるで気付け薬のように唖然としていた彼らの意識を戻した。
「な、何者だ!?」
片方より幾らか大きい護衛が、最早典型的な言葉を吐く。
そんな声を完全に無視し、腕を前でバツ字に組み、勢いを殺さず窓から飛び降りる。
甲高い叫び声と共に、窓ガラスが砕け散り、ユーリの頬を少しだけ切った。
剣を壁に刺し隣の屋根に飛び乗ると、猫から逃げる鼠の如く走り出す。
後ろから追っ手が来る気配は無く、胸を撫で下ろすと路地裏へ飛び降りる。
入り組んだ路地裏ならば、少なくとも簡単に見付かることは無いだろう。
「ふぅ……」
一息吐き、頬に流れる血を布で拭うと、剣に付着した血も拭う。
血で赤黒く染まった布を地面に捨てると、溜め息と共に壁へ寄り掛かる。
「帰るか……」
ふと、意識せずに出した独り言が静かな路地裏に響くのと同時に、ゆっくりと帰路についた。
「ねぇ、ちょっと待ってよ」
唐突にその声はユーリの耳に入る。
頭で考えるもなく、彼は咄嗟に剣を振る。
が、金属的な反発もなく、何か布を重ねたような物に阻まれ、剣を振り抜くことはなかった。
「うわぁ!! ちょっと危ないじゃん!! いきなりとかあり得ないんだけど!?」
そんな言葉を無視し、ユーリは左手でスティリットを取り出す。
床を蹴ると全身の関節を利用し、力に体重を上乗せした刺突を繰り出す。
しかし、それすらも避けられたのか、手元に伝わる感触は、力の抜けるような空を切るものだった。
不味い、と一言呟き、重心を左足に乗せると体を回転させる勢いで袈裟斬り。
それには確りとした手応えがあり、剣には少しの血が付着していた。
「いったぁ……何してくれてんの!?」
一旦態勢を整えるため一歩下がる。
今まで鮮明に見えなかった声の主を見据えると、少し唖然とした表情を浮かべた。
女だ。
金色の髪を二つに結び、整った造形をしている顔を痛みに歪めている。
視線を下に移すと、旅人用のマントが血で赤く染まっていた。
が、だからといって、どうと言った事でもなく、女だからと関係ない。
自身が暗殺した瞬間を見たのか、或いは逃げているところを見てついてきたのか。
どちらにせよ、目撃者に変わりはなく、ユーリが彼女を殺す理由なんてそれで十分。
見るからに焦っている目の前の女……いや少女の左目を見据えると、剣を鞘にしまいスティリットを構える。
目を突き破り脳まで刃が達したらならば、人を殺すことは容易だ。
それは刺突に特化したスティリットなら尚更である。
しかし、ユーリが、自身の得物で少女を殺そうと一歩踏み込んだ瞬間、衛兵等のユーリを捜索している声が響く。
近付いてくる声に舌打ちを一つすると、目の前の少女など目もくれず、木箱を伝って屋根へ逃げ去った。
「めんどくせーなクソが」
溜め息混じりにそう呟くと、聞こえてくる声とは反対の方向の屋根へ飛び写る。
落ちたら一溜まりもないが、何度も繰り返したことなので問題はない。
赤い屋根から茶色の屋根へ飛び写ろうとした瞬間、背後に何かの気配が。
別に、第六感的なものでも何でもないが、何故か無視ができなかった。
「何でついてくんの?」
「さぁ、だってお前が逃げるんだもん」
冷静に、表情を繕って後ろへ話し掛けると、そこには先程の少女が殆ど同じ速度で走っていた。
それを見て、少しだけ疑問符を浮かべる。
別に追い付かれただけでユーリは驚かないが、目の前の華奢な少女が余裕を持って走っていることが不思議なのだ。
このぐらいでいいか、と止まると、踵を返して直ぐ様後ろへ拳を飛ばす。
突然のことに反応を遅らした少女は、顔面の中心である鼻に拳骨を食らった。
間抜けな叫び声を上げると、鼻を抑え悶え始めた。
「鬱陶しいな」
「ほごォォォぉぉぉ。鼻がっ、鼻が、鼻がもげるぅぅ!!」
その顔立ちからは考えられない奇声に、ユーリの冷たい目は蔑んだ物になった。
「……」
「あいつつつ……。ふぅ、それで私が何なのかって?」
馴鹿のように赤くなった鼻を二度三度擦ると、少女は腕を組み仁王立ちで此方を見つめ始める。
ふんぞり返ったその様に、若干の苛立ちを覚えるユーリだが、段々と馬鹿らしくなり彼女の二言を待つことにする。
「そう私こそ、かの有名な旅人である超絶美人の……」
「あ、もういいや」
巫山戯た言葉を並べる少女に興味を無くしたのか、はたまた堪忍袋の緒が切れたのか。
これ以上は時間の無駄だ、と判断したユーリは、彼女の言葉を遮ると剣を抜き少女へ近付く。
言葉を遮られ恨めしそうに彼を見詰めていた少女も、その彼の様子を察したのか慌てて口を開いた。
「ま、ままま待って待って……。と、取り敢えず話すから待って」
瞬間的に頭を下げる彼女にプライドは無いのだろうか。
剣を下げる訳ではないが、警戒心を若干緩ませ構えを解く。
すると、彼女は額を地面から離すと急に不適な笑いをあげ始めた。
「フフフフ……立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花ァ!! 誰もが二度見する絶世の美女……それが私ことアイリス・イフリードだぁ!!」
効果音が聴こえてきそうな格好で、誇らしげに叫ぶ少女──アイリス。
太陽のような笑顔を浮かばせる彼女だが、それとは裏腹にユーリは何処か違う場所をジッと見詰めている。
「……」
「いやぁ、さっきお前が殺した、あの……なんだっけ? えー……まぁ豚でいっか。まぁ、あの豚に目を付けられてたのよ私」
「……」
「そんで、あの豚野郎を殺してくれたアンタにお礼を言いに来たんだよね」
先程の姿からは考えられない、爽やかな微笑みをアイリスは浮かべる。
礼を言えたことに安堵する彼女は、視線を戻すユーリの反応を静かに待った。
彼女がユーリを追いかけていたのは、先の貴族の事だ。
騎士団に入団する予定だったアイリスは、王宮へ赴くために高級宿に泊まっていたのだが、その時に遭遇したのがあの貴族だった。
汗に反射する汚い光が嫌悪感を更に引き出し、尻や胸に向けられる視線は不快感を加速させる。
肥えに肥えたダラしない体は歩く度に揺れ、吐き気すらしていた。
だからこそ、騎士としてあるまじき行為であり心構えかもしれないが、ユーリに一言礼を言いたかったのだ。
「ありがとう」
「あ、ごめん全部聞いてなかった」