第ニ話
「くっそー、くっそー……」
青を基調とした美しい内装の一室。その中で、ティアリーンは王女にあるまじき不遜な言葉を吐き出していた。その手には、箒と雑巾がしっかりと握られている。
「こんな事になるなんて……」
ティアリーンは、何でもすると言ってしまった過去の自分の首を強く絞めてやりたかった。
ここに来て、早三ヶ月。
シルバンティスの宣言通り、家事全般をこなす羽目になったティアリーンは文字通り、朝から晩まで城内を駆けずり回っていた。
朝は、朝食作りに庭の手入れと洗濯。
昼は、昼食作りに、部屋の掃除。
夜は、夜食作りに、入浴の準備。
就寝前には、なぜか物語まで聞かせている。
一見、簡単そうにも思える内容だったが、それをこなすのは、それまで王女として生きていたティアリーンである。
庭の手入れをしようとすれば、ホースの水を踏んづけ濡れ鼠となり、その後洗濯の際には土のぬかるみを踏んづけ、ひっくり返る。
部屋の掃除をしようとすれば、箒を高そうな調度品にぶつけて青ざめ、入浴の準備をしようとすれば、栓をするのを忘れて延々とお湯を流しっぱなしにしてしまった。
そして、何よりも困ったのが、食事の支度である。今までは城の料理人が作ったフルコースを食していたティアリーンにとって、芋の皮一つ剥くのでさえ、戸惑う有り様だった。
結局、フルコースなど作る余裕も腕も無いため、ちぎってのせただけのサラダと、ほぼ消し炭状態の物体の料理しか出来ない日々が一ヶ月程続いてしまった。
「はああ……」
ティアリーンは、深く濃い溜め息を吐き出す。自身の失態を思い返すだけで、気持ちが暗くなる。
そして、それ以上に暗く憂鬱にさせるものが目の前にもう一つあった。
「ほらほら、手が止まってるよ。まだ部屋は沢山あるんだから、しっかりやらないと」
この小うるさい神の存在である。見た目は麗しく可愛らしい少年なのだが、その中身は慈悲に溢れた神とはとても思えない。
「悪魔か……」
ティアリーンがポツリと呟いた言葉を聞いて、シルバンティスはにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「それって僕の事? 嫌だなぁ、こんなに親切にしてあげてるのに」
「さようでございますかー」
ティアリーンの返事は棒読みである。この三ヶ月間、シルバンティスはティアリーンの側にベッタリとくっつき離れる様子がない。
言葉だけ聞けば、可愛らしくも感じられるが、実際はとんでもなかった。
ティアリーンが失敗する度に、目尻に涙を溜め心底楽しそうに笑う。そして、絶対に手を貸そうとはしないのだ。
「根性悪の生意気なくそ餓鬼め……」
ティアリーンは、最初の一週間で、王女らしい気品やシルバンティスに対する畏怖の念を棄てた。暴言を吐こうが何をしようが、この少年神は飽きることなく楽しそうにティアリーンの後をついてくるのだ。
「はあああ」
ティアリーンは本日何度目になるか分からない溜め息を再び吐き出したのだった。
その後、いつものように夜を迎え、主寝室のベッドを整えているティアリーンの元に、珍しく側を離れていたシルバンティスが戻ってきた。
「ん」
シルバンティスは戻るなりティアリーンが整えたベッドに飛び乗ると、短い言葉と共にその手を差し出した。
「はいはい」
ティアリーンも慣れたもので、戸惑いなく小さな手に自身の手を重ねる。目の前のシルバンティスはその手を軽く包み込むと、何事かを呟く。
ふわりと周囲に光が溢れ、瞬時にティアリーンの身体全体を包み込んでいった。
「はい、もう良いよ」
「あ、ありがとうございます!」
ティアリーンは、ここに来てから毎日行われる習慣に心地好さを感じながら、ほうっと安らかな息を吐いた。
慣れない仕事を行い、気力、体力共に疲れきっていたティアリーンの身体を気遣ったのか、シルバンティスは毎日神の力を使い、癒してくれる。そのおかげで翌日に疲れを残さず、全力で仕事に励むことが出来るのだった。
「私が、全力で取り組んだ末に、失敗する所が見たいのかしら……」
毎日、何かしらの失敗をやらかすティアリーンである。その姿を見たいが為に、わざわざ治癒をしてくれているのだろうかと、シルバンティスにからかわれ続けたティアリーンは意地悪く考えてしまう。
しかし、不思議なもので、どんなにティアリーンが失敗してもシルバンティスが怒り出すことは絶対になかった。初日に出した、芋を蒸かしただけの料理に対しても、何の文句も言わずに楽しそうに食していた。
「……意地悪なのか、優しいのか、分からないのよね」
ティアリーンがそうぼやいている間、シルバンティスは何やらごそごそと服の胸元を探っていたが、そこからくしゃくしゃになった一通の封書を取り出すと、ティアリーンに向かって差し出した。
「ティアリーン、君に手紙だって」
「えっ?」
想像もしていなかった事に、ティアリーンはその瞳を溢れんばかりに見開かせる。ここは海底に沈む城。手紙が届くという経路があるはず無いと思い込んでいた。
「差出人は誰かしら?」
くしゃくしゃになった封書を不審そうに受け取るティアリーンの様子を見て、シルバンティスが言葉を付け足す。
「父上が術を使って飛ばしてきたから、多分、君の家族からじゃない?」
「父神様のお力で……」
わざわざ父神の力を借りて送ってきたのだとすれば、友として親しい間柄である国王からの物だろう。そう思い至ったティアリーンは、そっとエプロンのポケットへとその手紙をしまおうとしたが、その行動は小さな手によって止められてしまう。
「え?」
ティアリーンは、がっしりと自身の手を掴むシルバンティスの瞳を見下ろす。
「あの、何か?」
「ここで開けて」
「……はい?」
意味が分からず、問い返すティアリーンに、シルバンティスは美しく輝く青の瞳を輝かせて答える。
「ここで手紙を読んで内容を教えてよ。わざわざ父上の力を使って送られてきたんだよ? 気になるじゃん」
「は、はあ」
気になるじゃん。と言われても、これはティアリーン個人への手紙である。本来ならば、自室で一人静かになった頃を見計らって読みたい。しかし、シルバンティスにそんな理屈が通用するとも思えない。
たった三ヶ月で、仕える主の性格を把握しつくしていたティアリーンは早々に諦めると、その場で手紙の封を開けた。シルバンティスはその瞳を煌めかせて、こちらを見上げている。
「えーと、なになに……」
封書の内容を確認していたティアリーンの顔色がすぐに変わった。
「な、なんて事……!」
封書の内容を何度も読み返しては狼狽える。今度は手まで震えだしていた。
父である国王からの手紙は、ティアリーンの縁談に関してであった。しかも、驚くべきことはそのお相手である。
「……ふうん」
ティアリーンが一人狼狽していると、横から掠れた不機嫌そうな声が響いてきた。
「ティアリーン、見合いをするの?」
「でえええっ?」
いつの間に読んだのだろう。ティアリーンが急いで横を見ると、ベッドの上に乗っかったシルバンティスが同じ目の高さでじっとこちらを見返していた。
「シシ、シルバンティス様っ!」
まさか、側で盗み見ているとは思いもしなかったティアリーンは動揺と怒りから、わなわなと震える。しかし、なぜか責められているはずのシルバンティスの方が険しい表情をしている。
「見合い、するんでしょ?しかも僕の兄上がお相手なんだね」
「……っ」
どうやら、しっかりと内容を把握しているようだ。ティアリーンは観念すると、小さく頷いた。
「ええ、まあ……」
「なぜ兄上なの?だって、ティアリーンは僕のお世話をしているのに」
「……」
ティアリーンはここに送られて来る前、国王に話した自身の願いを思い返す。
『私の願いは、見目が誰よりも麗しい方に嫁ぐ事です』
他国の王族や貴族との縁談が持ち上がった時、確かに少しは麗しい方もいらした。しかし、ティアリーンの心は少しも靡かなかった。
夢に見るのはお伽噺で読んだ麗しい王子様。もしくは男らしい魅力に溢れた騎士でも良い。とにかくこの現実では見つけるのが困難な程の麗しさや男らしい顔を追い求めていた。
つまり、ティアリーンは大の面食いだったのである。
それに、自分のタイプではない方と妥協して結婚するくらいなら、住み慣れた城で一生を終えたい。等と甘いことを考えてもいた。ティアリーン自身が王女であるから、縁談相手にとやって来るのも、正真正銘王子様だったりもする。しかし王族や貴族とはいえ、現実には至れり尽くせりで過ごして来た軟弱な男共である。そんな男共に嫁ぐと言うことがどうしても納得出来なかった。
そして、願いを叶えるという父の言葉を鵜呑みにして、心の奥底にしまっていた自分の正直な願いを口にしたのであったが……。
「はあああ……」
ティアリーンは自身が放ったその当時の言葉を思い返しただけで、自分の迂闊さに目眩を覚えた。
〈父神の第二子、ドラディナス様との縁談を進める〉
父である国王からの手紙には確かにそう記してあった。
ティアリーンも人間の身ではあるが、王族として神との交流は何度かあった。その際に国王と歓談するドラディナスを見て一瞬その容姿に目を奪われた事もある。
空を司るドラディナスは、真珠のような白髪に透明感のある水色の瞳の美貌を持っていたからである。
面食いのティアリーンにとってはこれ以上ない優良物件であろう。その人柄もシルバンティスとは違い、神らしく慈愛や慈悲に溢れた人物だと聴く。
しかし、ティアリーンの心は晴れなかった。何故だが、今では見目麗しい方とのご縁にも心踊らされないのだ。
「ええと、これは、その」
しどろもどろになりながら、言い訳を探すティアリーンの顔を真っ直ぐ正面から捉えて、シルバンティスはじとりと睨み付ける。
「もしかして、ティアリーンが願ったの?」
「ええっ、いや、その」
願ったと言えば、願ったのだが。
「ティアリーンが求めたから、兄上との見合い話が来たんでしょ? じゃなきゃ、人間との見合いなんて普通はしないもの」
「……はははは」
シルバンティスの的確で執拗な問いに、ティアリーンは棒読みで笑うしかなかった。
「……ふうん、そう」
ティアリーンの乾いた笑いで何かを察したのか、そう呟いたきり、シルバンティスは瞳を伏せて黙してしまった。
「あ、の、シルバンティス様」
名前を呼んではみるが、ティアリーンもなんと言ったら良いのか分からない。沈黙が支配する室内で、微かにチリリと焦げるような、不思議な胸の痛みをティアリーンは感じていた。
その日を境に、ティアリーンにとって信じられないような現象が起こった。あんなに側をくっついて離れなかったシルバンティスが、全く近寄って来なくなったのである。蔵書室に籠って本ばかり読んでいる様子のシルバンティス。
食事の時など、呼びに行けば短く答えてくれるのだが、それ以外は避けるかのように一切の接触をしてこない。交わす言葉も非常に少なくなった。
「……」
この日も、夕食の席では沈黙が広がっていた。
「あ、あの」
ティアリーンは向かいに座るシルバンティスへと声を掛ける。初日に同席するように言われてから、一緒に食事をしていたが、シルバンティスは顔を下に向けたまま黙々と口を動かしている。これでは同席している意味がない。
「きょ、今日は頑張ってデザートも作ってみたのですが」
ようやく食事の支度にも慣れてきた為か、少しずつ効率が上がってきたようで、この気まずい空気を何とかするため、朝から腕によりをかけて、特製のラズベリーパイを作ってみたのだった。
「……デザート?」
シルバンティスが、少しだけ反応を返してくれた事に気を良くしたティアリーンは満面の笑顔で応じる。
「は、はい! 私が唯一作れるデザートです。お母様が嫁入り前に甘い物の一つ位は作れた方が良いと仰って……」
そこまで言って、はたとする。
シルバンティスがこのような態度になってしまったのは、兄君との見合い話を聞いてからである。理由は不明だがそのような時に、嫁入りの話など聞いても嬉しくはないだろう。
「あ、あの、これは」
言い淀むティアリーンの顔をひたと見つめて、再び無表情となったシルバンティスはポツリと言葉を返した。
「食べたい」
「へっ?」
「デザート、あるんでしょ?持ってきてよ」
「はっ、はい!」
どういう風の吹き回しだろうか。シルバンティスの無表情が少し気にはなったが、久しぶりの肯定的な言葉にティアリーンは浮かれたまま、そそくさと用意に走った。
「ふーん、これをティアリーンがねえ……」
出されたラズベリーパイを物珍しそうに眺めるシルバンティス。ナイフでサックリと切り分けると、紫の果実が溢れないうちに優雅に口に運んだ。
「いかがですか?」
自慢の一品とはいえ、シルバンティスの口に合うだろうか。ティアリーンはハラハラと心配しながら、シルバンティスの脇に立ち、その様子を眺める。
「……美味しい」
一口食べたシルバンティスは、短い感想を口にすると、あっという間にラズベリーパイを完食した。
「今まで食べた食事の中で、一番美味しかった」
「そ、そうですか!」
今までに作った食事が酷すぎたのかもしれない。
ちらりとそんな事が脳裏を過ったが、シルバンティスが素直に褒めてくれた事に喜びを感じ、胸を詰まらせるティアリーン。その様子を横目で見やったシルバンティスは静かな口調で呟いた。
「これなら、兄上もお気に召すと思うよ」
「……え?」
ここで、なぜ兄君が出てくるのだろう? ティアリーンは言葉の意味が分からず呆然と問い返す。
「申し訳ございません。その、意味が……」
分からない。と言いかけた言葉をシルバンティスが遮る。
「もう十分だよ。ティアリーンは一生懸命やってくれた。僕はもう平気だよ」
そんな風に言葉を紡ぐと、ティアリーンに向けて軽く微笑んで見せた。深い青色をした瞳が柔く微笑みの形を作る。しかし、その瞳の奥はどこか物悲げだった。
「僕の世話を父上から頼まれていたんでしょ? もう大丈夫だから。ティアリーンは城に戻ると良いよ」
「そ、そんな!」
ラズベリーパイを作った事で、なぜこんな話になるのだろう? ティアリーンは混乱して頭を抱えてしまった。そんな彼女の様子を眺めて、くすりと笑うとシルバンティスは席を立ち、ティアリーンの元へとやって来た。
「慣れない仕事で疲れただろう? 最初は退屈しのぎだったけれど……。ティアリーンが一生懸命働く様子を見て、僕も人間に対する考えが変わったよ」
こんなに優しく丁寧な言葉を紡ぐシルバンティスは見たことが無い。嬉しいはずの変化なのに、ティアリーンの胸はしくしくと痛んでいた。
「私は……」
ティアリーンはいつの間にか、城での日々や縁談相手のドラディナスの事など少しも考えていない自分に気が付いた。
自分は朝から晩までたった一人の事を考え暮らしている。その事に驚き、また動揺さえしていた。そんな胸中を勘違いしたのか、シルバンティスは悲しい笑みを深くする。
「大丈夫、兄上は僕と違ってとてもお優しい方だよ。それに僕からの加護もあるしね」
「……加、護?」
「そう、ティアリーンが兄上とお見合いで上手く行くように願った加護を授けてあげる」
「……」
ティアリーンは、顔を少し青ざめさせてシルバンティスを見下ろした。そして、シルバンティスに向けてポツリと言葉を落とした。
「……シルバンティス様は、私がいらないとおっしゃるのですね?」
「え?」
シルバンティスは意外な台詞を聞いて、その瞳を大きく瞬かせる。
「だってティアリーン、君は……」
「私は、シルバンティス様に仕えているのです! 確かに、失敗続きで至らない所ばかりですが……」
「ティ、ティアリーン?」
シルバンティスは、ティアリーンの瞳が涙で滲んでいることに気が付いた。
「君は何で泣いているの?」
「泣いてません!」
「いや……」
「泣いてませんってば!」
「……」
ティアリーンは、自分でも訳の分からない締め付けられるような気持ちに支配されていた。そんな彼女を凝視すると、シルバンティスは恐る恐る再び問いを口にした。
「ティアリーン?」
「……なんですか」
「もしかして、兄上の元に嫁ぐ……のは嫌?」
「今はそんなこと考えてもおりません!」
バッサリと言い捨てるティアリーンをじっと見詰めていたシルバンティスだったが、しばらくするとふっと微笑みを上らせて、口元を緩ませた。
「なら、仕方が無いから僕の側においてあげても良いよ」
「……え?」
勝手に流れる涙で顔をくしゃくしゃにしたティアリーンが見やると、なぜかシルバンティスの嬉しそうに輝く瞳と視線がぶつかった。
「君は他に行く場所が無いようだから、ここに置いてあげても良いって言ってるの」
「シルバンティス様……」
また、あの大変な日々が繰り返されるのか。ティアリーンは少し不安になったが、こちらを見上げる少年の顔が本当に幸せそうに輝いていたので、思わず一緒になって微笑んでしまっていた。
結婚するのなら、見目の麗しい伴侶を。と何よりも容姿を求めていたのは確かだったが、今では不思議とこの困った少年神の傍に居ることを何よりも願っているティアリーンが居た。