第一話
四方を美しい海に囲まれたアルメキア王国。
その国では、古くから人と神との交流が盛んであった。神の一族は王国一帯の海と空を治める一族で、父神を中心として、人々を暖かく見守っていた。そんな優しく寛大な神一族を人々も敬い、深く慕っていたが、何事にも光と影は存在しているようで、優秀な神一族の中にも、一つ困った問題があった。
一族の末っ子にあたる男神は、その名をシルバンティスと言う。シルバンティスは、類い稀なる力を有していたが、それ故に力に驕り傲慢でどんなに懇願されても人々の願いを叶えようとはしなかった。
末っ子の対応に長年頭を抱えていた父神は、友であり守護しているアルメキア王国、国王に助力を求めた。父神に泣きつかれた国王は、友の為に国内全域にあるお触れを出す事にした。
シルバンティスの人間嫌いを治すために、国内の人間を仕えさせる事にしたのである。
一方、そのお触れを聞いた民衆は、前代未聞の事柄に戦き騒然とする。神の一族でも、爪弾きにされている末っ子のシルバンティス。その横暴ぶりや傲慢さは民の間でも有名で、もはや伝説となりつつあった。シルバンティスは決して人前に姿を晒そうとはしなかったが、それでも憶測が憶測を呼び、いつの間にか神であるにも関わらず、悪魔のような印象すら持たれていた。
当然、そのような神に勧んで仕える者は居ない。
結局、父神と同じように頭を抱えた国王は、最終兵器を投入することにする。国王は二男四女の子供に恵まれていたが、その中の一人を仕えさせる事にしたのである。
「ティアリーン、お前をシルバンティス様の元に向かわせようと思う」
後日、選び出した一人にその事実を伝えた。
ティアリーンと呼ばれる少女は国王の長女である。長女らしく他の兄妹達をまとめるしっかり者で、周囲への気配りも忘れない。本来ならば、困り者の神になど仕えさせたくは無い。
しかし、国王は英断する。
なぜなら、彼女には他の妹達と比べ、王女として少々困った所があったからだ。
決して、嫁ごうとはしない男嫌いの王女。城内でティアリーンはそのように囁かれていた。そう、ティアリーンはなぜか縁談に快く応じようとしないのだった。
他国の王族と見合いをさせてもあれやこれやと理由を付け、必ず破談にしてしまう。これは王族として致命的な欠点である。父である国王が何度理由を聞いても答えず、ただ頑なに拒み続けるティアリーンの存在。妹姫達は、続々と嫁ぎ先が決まっているのに十七歳になったティアリーンには浮いた噂の一つもない。
その結果、国王はティアリーンをシルバンティスの元へと送る事に決めた。
婚姻という王族としての大切な務めを疎かにしてしまう娘への戒めの意味もあった。
案の定、ティアリーンは父の言葉に顔をしかめる。
「お父様、私はこの国から出たくありません」
母親譲りの美しい銀髪に翡翠色の瞳。ティアリーンはその瞳に暗い色を宿らせて国王を睨み据えていた。
「わしは、この国を出ろと言うているのではない」
ティアリーンが抵抗することを予測していた国王に動揺はない。娘を不憫に思う親としての感情を切り離し、淡々と事実のみを伝える。
「お前は王族としての務めを全うしようとはしない。どんなに縁談を持ってきても断ってしまうではないか。それでは、他の兄妹や民に示しがつかないのだ。シルバンティス様の元へ行き、しばらく頭を冷やすが良い」
「……」
痛い所を衝かれたティアリーンは二の句が告げない。確かに、自身でも王族として役目を果たせていない事は自覚していた。
「で、ですが……」
気丈なティアリーンにしては珍しく、おろおろと視線を下方に漂わせる。そんな娘の様子に心が締め付けられるのを感じて、国王が優しく諭すように声を掛けた。
「安心しなさい。なにも生涯仕えろと言っているわけではない。父神様の心痛を取り除き、シルバンティス様がお心を開きさえすれば、すぐにでもお前を呼び戻そう」
「……」
父の言葉を聞いてもティアリーンの表情は晴れない。国王は簡単そうに言うが、それがどんなに難しい事なのかはティアリーンにも容易に想像がつく。娘の頑なな態度を見た国王は、ふと閃いた考えを口にした。
「無事務めを果たす事が出来たのならば、神の一族も満足されるだろう。お前の願いを一つ位は叶えてくれるかもしれぬぞ?」
「えっ……」
今まで伏せていた顔をピクリと動かすティアリーン。国王の言葉を理解するかのように、ゆっくりと顔をあげると先程とはうってかわった静かな瞳で問い返した。
「本当に、私の願いを叶えてくださるのでしょうか?」
国王は、娘が決意を固めつつあるのを感じ、気持ち、前のめりで頷いた。
「うむ、流石に何でも叶えるというわけにはいかないだろうが。わしからも父神様にお願いしておこう」
「そ、そうですか……」
「それで、その願いとは?」
国王はティアリーンの願いが可能な事柄なのかを確かめるために内容を問い掛けた。ティアリーンは少し躊躇したのち、唇を湿らせるとその願いを口に上らせる。
「私の願いは……」
こうして、ティアリーンは男神シルバンティスの元へと送られたのである。
国王からの命令を受けた後、気が変わらぬうちにと、早々にティアリーンは海底にある城へと送り届けられていた。父神の力を借りて向かったそこは海底であるにも関わらず、城を包む一帯が不思議と清涼な空気と泡に覆われていた。城の入り口から足を踏み入れると、螺旋階段を登って城の中を探索する。王国での噂通り、広い城内には一人も使用人の姿がなかった。
「……シルバンティス様はどこにいらっしゃるのかしら?」
父神から、ティアリーンが来ることは知らされているはず。なのに、シルバンティスの姿はどこにも見当たらない。 勝手に城内を歩き回ることに罪悪感も感じていたが、いつまでも突っ立ているわけにはいかないので、そろりそろりと中を見て回っていた。数刻の時間を掛け大広間、居室、厨房など、至るところを歩き回ったが、やはり何処にもシルバンティスの姿は無い。
「まさか、私が来ることを嫌がって逃げ出した、とか?」
ティアリーンが嫌な予感を胸に過らせたとき。一際大きな扉がその目に飛び込んできた。草花の紋様が刻まれた木製の両扉。重厚感溢れるその扉の取っ手に手を掛けると、ティアリーンは頭をちょろりとその隙間に挟むようにして、中を覗き込んだ。
「まあ!」
中を確認した途端、驚きの声が漏れ、瞳を大きく見開かせてしまう。そこは膨大な量の本が置かれている蔵書室であった。ティアリーンの身長の何倍もあろうかと思えるほどの室内には、埋め尽くすように本が置かれている。
「す、素晴らしい、素晴らしいわ!」
感嘆の声が室内に響き渡るが、興奮しているティアリーンはそれには構わず、中へと足を踏み入れた。
「まあ、私が読みたかった本も置いてあるわ」
そんな事を呟きながら、周囲を見渡していると、突然、頭上から声が降ってきた。
「お前は誰?」
「うっひゃあ!」
まさか、他に誰か居るとは思っていなかったティアリーンはその声に驚き、盛大に肩をびくつかせた。
「どどど、どなたっ?!」
声は上から掛けられた。ティアリーンは恐る恐る後方を振り返り、上の本棚を見上げる。しかし、高すぎる棚には梯子が掛かり、奥も暗闇となっている為、声の主を確認することは出来なかった。
「それは僕が聞いてるんだけど……」
面白がるような口振り。こちらに興味はあるようだが、姿を現す気は無いようで、声の主は変わらず暗闇から言葉を発している。女性よりは低いが、少し掠れた高い声。どうやら年若い少年のようだ。
なぜ、こんな所に少年がいるのだろう?ティアリーンは訝しんだが、姿が見えなければ話しづらいと考え、上に登るために金製の梯子に手を掛けた。
「今から、そちらに行くから少しお待ちなさい」
「えっ、いやいや、まずは誰だか名乗りなよ」
「……」
ティアリーンは、少し気分を害しながらもそのまま梯子を登り続ける。人に名前を訊ねる時はまず自分から名乗るのが常識だろう。そう、まだ見ぬ少年に教え諭すつもりだった。
「はあ、はあ、はあ……」
しかし、この梯子は高すぎる。城の生活に慣れ、怠けきっている身体を忌々しく思いながら、黙々と上へ上へと手を掛けた。
少年はどうやら名前を聞き出すのを諦めたらしく、暗闇からこちらの様子を大人しく伺っているようだ。
女性には、手ぐらい貸しなさいよね!ティアリーンが諭す予定のお小言がまた一つ増えた。
「こ、これで、最後……!」
ようやく最上部まで登りきり、最後の段に手を掛けた時。どれほどの高さまで登ったのだろうかと、下を見下ろしたのがいけなかったのか。
下を覗くように見た瞬間、ぐらりとバランスを崩し足を踏み外してしまった。
お、落ちる、落ちる、落ちる!
ティアリーンの胸中でその言葉だけが繰り返されたが、口を開く余裕はなく、ふわりと梯子から手が離れていった。
私はこんな所で死ぬのか。高い天井を見上げながら、ティアリーンの脳内は冷静にそんな事を考える。
そのまま、強く床下に身体を打ち付ける事を予想し、瞳を固く閉じたのだが。
「……?」
いつまで経っても、その衝撃はやって来ない。ティアリーンは訝りながら、ゆっくりと首を傾け、下を見下ろした。
「でえええっ?!」
甲高い悲鳴が迸る。それもそのはず、なんとティアリーンの身体は宙にプカプカと浮いていたのである。空中であるにも関わらず、ゆらゆらと浮いているその様は、海中にて泳いでいるようでもあった。
「な、な、な」
「……気を付けてよね、人間」
心底驚き、口をパクパクとさせているティアリーンに向かって、再び少年の声が響く。ティアリーンが上へと視線を戻すと、暗闇から姿を現した少年がこちらを見下ろしていた。
「……」
なんて、美しい少年なのだろう。自身の状態も忘れ、ティアリーンは呆けたようにその姿に見入っていた。歳の頃は、十三、四だろうか。とても整った容姿で、将来はさぞや見目麗しい青年になるだろうと、期待させるような少年だった。
深海のような濃い青色の髪に、同色の瞳。薄暗い蔵書室の中でも、不思議とその髪と瞳は光を集めて輝いていた。そんな大変麗しい少年だったが、今は目を細めてこちらを不機嫌そうに睨み付けている。
「ねぇ、聞いてる? 本当迷惑なんだよね。勝手に僕の城に入ってきて、死のうとするんだもん」
「……え?」
少年に見とれていたティアリーンの反応はすこぶる鈍い。その様子に嫌気が差したのか、少年の顔つきはますます険しくなる。
「だーかーらー、ここは僕の城なわけ。お前は一体何なの? 死にに来たんなら他でやってくれない?」
「……僕の、城?」
「だから、そうだって」
さっきから何度も言ってるのに……。と、ぼやいている少年を見返しながら、ティアリーンは考える。
僕の城。
僕の城……僕、の城ぉ?!
「ままま、まさか」
ティアリーンは信じられない可能性に口を戦慄かせ、微かに震えながら問いを口にした。
「あな、あなたが、シ、シルバンティス……様?」
「うん」
「……うっそ」
そんな不遜な言葉がつい口を突いて出てくるが、それも致し方あるまい。少年の姿はティアリーンの考えていたシルバンティス象とは似ても似つかなかったのだから。父神には、複数の御子がいらっしゃるが、その姿は男神も女神も皆、成人姿であった。確かに目の前の少年も信じられないくらい麗しかったが、所詮は子供姿である。
「違う、絶対に違うわ!」
プカプカと浮いている状態で、顔を青ざめさせながら、そう繰り返すティアリーン。自称シルバンティスの少年は不機嫌を通り越し、心底馬鹿にした様子で言葉を返した。
「ちっ、これだから、人間は嫌いなんだ。自分勝手で、分からず屋で。……僕が神じゃなかったら、お前は今頃死んでるよ」
「あっ……」
ティアリーンはようやく自分の状態を理解した。つまり、このプカプカはシルバンティスによる術だったのか。つまり、この少年は本当に。
「シルバンティス様……」
ティアリーンは、現実を理解し押し黙ったが、内心では国王を罵りまくっていた。
こんな生意気で、偉そうにふんぞり返っている子供をどうしろと仰るのですか、お父様!
しかし、その叫びは、実際の声に乗ることは無かった。
「ふーん、父上がねぇ……」
蔵書室の中。
とりあえず、下に降ろしてもらったティアリーンは、シルバンティスにこれまでの経緯を説明する。なんと、事前に話がついていると思われたティアリーンの派遣話をシルバンティスは全く知らなかったのである。
「父神様ぁ……」
なんて、いい加減な放置ぶりだろう。道理で何の出迎えも無いわけである。ティアリーンが目の前のシルバンティスへと視線を下ろすと、腰の高さほどしかない少年姿の神は何かを思案するように考えに耽っていた。
「あ、あの」
もしかしたら、私がお気に召さないのだろうか。ティアリーンは自分の失態に頭が痛くなった。出迎えが無かったとはいえ、勝手に城内を歩き回り、名前の問い掛けを無視して、目の前で足を滑らせ死にそうになった。仕事をする前から、そんな無能ぶりをまざまざと見せつけてしまった。このまま、元の城に送り返されたとしたら、国王、並びに民になんと説明すれば良いのか。それに私の願いは絶対に叶えてもらえないだろう。ティアリーンはそう思い至ると、まだ思案顔のシルバンティスに向けて、必死で言葉を紡いだ。
「あ、あの、私、何でも致します! 掃除、洗濯、料理……なんでしたらお話相手でも」
「掃除、洗濯、料理は術でどうとでもなる。話し相手はいらない」
「ぐうっ」
ティアリーンが提案した内容は、一瞬でバッサリと斬られてしまった。盛大に肩を落としたティアリーンをシルバンティスが意地悪そうに見上げる。
「そんなに、僕のお世話がしたいの?」
「え、ええ、それはもう」
この子供の世話をしなければ、気に入らない縁談を断り続けなければいけないし、なにより私の願いを叶えてもらえない。そう思うと、藁にもすがる思いでティアリーンは何度も頷いていた。その様子を見てシルバンティスはふいに、にっこりと微笑む。
「なら、置いてあげても良いよ」
「ほほほ、本当でございますか!」
「うん、ちょうど暇してた所だし。暇潰しにはちょうど良いかな」
「……」
暇潰し。ティアリーンの胸中に不安が渦巻く。しかし、そんな様子には目もくれず、シルバンティスは楽しそうに言葉を続けている。
「まずは、掃除、洗濯、料理ね」
「えっ、それは先程……」
どうとでもなる、と言ってはいなかっただろうか。そう思い、ティアリーンが思わず口を挟むと、シルバンティスは人の悪い笑みを深めた。
「だから、暇潰しだって言ったでしょ。お前があくせく働くのを見て、笑ってあげる」
「……」
ああ、やっぱり帰りたい。ティアリーンは自分の城での優雅な暮らしに思いを馳せると、その遠くなった日々を心底懐かしく思っていた。