49 母
母、御門ユウヒの場合
檻のような白亜の建物から出ると、強い日差しに目が眩む。
用意していた日傘を差して車へ向かう。その脇では、すっかり白髪が目立つようになった夫が細長い端末を手に何かを話していた。
「お待たせしました」
「ん…………じゃあ、また後でな」
通話を終えると、その端末を操作して助手席のドアを開けてくれる。日傘を折りたたみ、乗り込むと、程よい涼しさに身体の力が抜けていった。透明な車のガラスも、最近の新技術で強烈な日差しをかなり緩和してくれる。
「もう着いているらしい」
「あの子ってば……」
最近になって一人で出歩くことが増えた自分の子を想い、病院で冷えきってしまった心に熱が灯った。走り出した車の中で、私は今の平穏な日々を思い返していく。
病院へは、毎月一日に通っている。
もう随分と経つのだから、そんなに心配しなくてもいいと言っても、夫は頷いてくれない。それも仕方がないと、私は思っている。
一度離縁しておきながら、私たちはまた再婚した。
相当な反対があったのだと聞いている。今でも親戚の集まりがあると、かつて私が重ねていた不義を批難する声がある。当然の事だと、今なら受け止められる。私のしていたことは決して許されていいことじゃない。
それでも当時は、自分を抑えられなかった。
今でもまだ、あの時のことを思えば震えがくる。
車が停まった。
いつの間にか到着していたらしい。
自分でドアを開け、日傘を差して降りる。
陽の光は苦手で、私は外出時にはほとんど日傘を差していた。強い光に心が焼けそうで、そしてそれは私の弱さがそうしているのだと、そういう自覚はある。
風がふいて心地良い空気が流れた。
そっと周囲へ目を向けると、小さな森のような場所に私は居た。
この街は少し変わっていて、非常に先進的な都市でありながら、街中に木や花なんかの自然が溢れている。それも作られ、管理されたものとは違う、自然と融合したような景色で。
不思議と自然も人の住む家や道路は避けて育ち、互いに遠慮しあっているような状態で街は発展している。
カラン――という音が幾つも重なって、向かっていた先の扉が開く。
出てきたのは黒い髪の、とても可愛らしい顔つきの女の子。私と、夫の子。
「お父様! お母様!」
輝くような笑顔でこちらへ駆けてくる姿に、自然と笑顔が浮かんだ。
この子は、復縁してから夫との間に出来た子だ。
検査も受けて、しっかり二人の子であると証明されている。
欲したのは夫からだった。
私にはもう、子を育てていける自信がなかったから、最初の内は断ってばかりだった。けれど、折角私を再び迎え入れてくれた夫への罪悪感と、夢に出てくる生まれたばかりの赤ん坊を抱く感触が忘れられず……。
今では、この子の存在に私は救われている。
とても優しくて、よく笑う子。どれだけ後悔し続けても消える筈のない私の罪を、この子の笑顔だけが洗い流してくれるように思えてしまう。決してそうではない筈なのに。
飛び付くように私の手を取り、反対の手で夫の手を取った子を見て、ほんの少しだけ胸が傷んだ。
三人で手を繋ぎ、大きな樹のアーチを抜けていくとそのお店はある。
自然に囲まれたオープンテラスの奥には、木とレンガで出来た、ちょっと大きな一軒家。一階部分を大きく改造してお店とし、二階を住居としているんだろうことが伺える。
談笑するカップルの脇を私たちは抜けていく。
扉を開けると、あのカラン――という音がまた聞こえた。
「いらっしゃいませ」
なごやかな雰囲気によく合った、やわらかな声が耳の奥を撫でる。
毎月一日に、私たちはこのお店で食事を摂る。病院での検査次第で昼か夜かは変わるけど、どんな時間でも必ず夫は予定を空けて、家族三人揃っての時間となっている。昔には無かったこういう夫の気遣いに、私も嬉しくなる。
いつもの、窓際から少し外れた奥の席へ座ると、店員が寄って来て水を置いた。
「頼んであったものを」
「はいっ」
私は努めてその人を見ないようにしながら、席に着いた娘の髪を整えてやる。はしゃいで走っていたから少し乱れている。手鏡を渡して、自分の状態も確認させてあげると、嬉しそうに目を細めてはにかんだ。
「ありがとうございます、お母様」
髪を崩さないよう、そっと撫でて受け取った鏡を仕舞う。
手持ちのバッグは壁際の棚へ置く。棚の上には幾つかのハーブがあって、仄かな香りが漂ってきた。
ここは、ハーブティーや香草焼きなんかが特徴のお店だ。一品一品がとても凝ったものになっていて、中心街から離れた場所にあるというのに、それなりな人気があるという。ハーブも裏手で自家栽培されているらしく、表のテラスの周辺にはそこから伸びる細い水路があった。
「オリジナルブレンドです」
と、いつの間にか別の店員さんが近くに居て、カート上でハーブティーを作ってくれる。ハーブティーは紅茶やコーヒーなんかとは違って、ガラス製のポットで淹れるのが普通だ。色鮮やかに染まっていく光景を見て、娘が目を輝かせる。
「綺麗……」
何度見てもコレが好きなようで、がっついで見る娘に店員さんも困ったように笑う。
笑顔にとても透き通った印象のある人だ。彼女はいつもどこか緊張していて、けれどこちらが何か反応を返すと、心から嬉しそうに笑う。とても綺麗な笑顔だ。
ガラスのカップに注がれた赤いハーブティーが三つ、丸テーブルに並ぶ。
「ありがとう」
夫が礼をすると、彼女は深々と頭を下げ、幾らか軽快な足取りで奥へ引っ込んでいった。
代わりに出てきた女の子を見て、娘が声を上げた。
「居たー!」
「あ、待ちなさい」
私の静止も無視して席を飛び出した娘に、夫が軽く声を漏らして笑う。もうっ、お行儀が悪いんだから注意してください。
娘は、一つか二つほど年下らしいその子へ抱きつくと、お人形ように可愛がりながらこちらへ連れてくる。
「はい、ここね」
「……」
あまりの扱いに抗議でもしているのか、女の子はむすっとした表情でそっぽを向く。
手にしていた文庫本をテーブルへ置くと、メガネのつるを押して位置を調整する。元気いっぱいなウチの子とは真逆で、とても物静かで落ち着いた子だ。
彼女は、このお店の子らしい。
何度か通う内にすっかり彼女のことを気に入った娘は、よくここへ一人でやってきて入り浸っているらしい。そんな日には家での話題が彼女一色に染まる。妹が欲しかったのかな、と私は思ってる。
私の視線に気付いた女の子は、こちらにもむっとした目を向けて、しかし娘がしがみついて離れないのを知っている為、素直に文庫本を開いて読み始める。
「お待たせしました」
そうこうしていると、最初の店員さんが料理を持ってきた。
思わず私は顔を伏せて、離れていくのを待つ。ふと、視線に気付いて女の子を見る。けど彼女が見ていたのは私ではなく、店員さんの方だったらしい。
不機嫌そうに眉を寄せ、小さく頬が膨れてる。
「いっしょに食べましょう?」
「……うん」
娘の行動はいつものことなので、店員さんも夫といつもの会話を交わし合うだけだ。代わりに幾つか小皿が追加で提供されて、たまに意見を聞かれることがある。
お店の中は静かだった。
今日は検査が長引いたせいで、もう二時を回っている。私たち以外の客は表のカップルくらいか。
カウンター内へ戻っていった店員さんを確認すると、私たちはキチンと手を合わせていただきますをする。こういう基本的な礼は、子どもが居るとやるようになるものだ。
どの料理もとても美味しかった。
ハーブの入ったトマトソースのパスタは私も娘もお気に入りで、お互いに取り分けて食べる。お店の女の子にも取ってあげると、短く「ありがとう」と言われた。夫は鶏肉の包み焼きが好きなようで、今もアルミホイルと格闘している。しばらくすると季節の野菜やキノコ、チーズなんかに覆われた鶏肉が出てくる。脂身の強そうな一品ながら、ハーブの存在が味を比較的さっぱりさせてくれるものだ。
「うん、美味い」
満足そうな声を聞いて、思わず笑ってしまう。
夫は、随分と笑うようになった。
硬い話題以外での口下手は相変わらずだったけど、何気ない話を振ってくれる事も増え、以前よりずっと家族の時間を大切にしてくれている。また、前はあまり聞かなかった仕事の話も教えてくれる。
この特別行政特区での仕事は余程楽しいらしい。
食事も終盤に差し掛かると、一足先に満足した娘が、もう疼きだしている。
「ねえお母様、遊んできていい?」
しっかり女の子の手を握り締め、
「食べたばっかりだから、無理をしないように。道路には飛び出しちゃ駄目だからね」
「はいっ。ねね、行こ」
花開くような笑顔を浮かべて娘は女の子と一緒にお店を出て行った。女の子の「いってきます」という声に店員さんが笑って手を振る。
鐘の音が胸の奥へ響いた。
「ん……すまない。電話だ」
少しして夫の端末に連絡が入った。
大抵の場合は留守電に繋ぐ所だったが、今回は相手が悪かったらしい。店員へ一言告げて外へ出て行った。
赤いハーブティーで喉を潤す。
目線を店の奥、ハーブティーを入れてくれた店員さんの消えていった場所を見る。けれど出てくる様子もなく、店の中にはあの店員さんと私、二人だけになった。
少し、胸が痛くなる。
発作とまでは言わないが、過去を思い返したり、なにかそれを想起させるようなものに触れるとこうなってしまう。あの店員さんと居ると必ずそうなる。長い黒髪を後ろで纏めたあの人は、鼻歌を唄いながら片付けをしていた。少し前に空いた皿を下げていった分だろう。
作業を続ける後ろ姿を眺めていて、懐かしいような、息苦しくなるような気分になった。
唄っているのはなんだろうか。
音色はどこかで聞いたことがある。けれど歌詞とタイトルが浮かんでこない。
なんだったか……。
ぼうっと後ろ姿を見ながら考えていたら、不意に店員さんがこちらを向いた。
目が合う。向こうも驚いたようで、けれどすぐ柔和な表情で会釈をする。こちらも会釈を返した。私は店の人とはほとんど話したことがない。注文は主に夫がするし、娘の件でも私より夫のほうがずっと親しげに話しているのを見る。
そういえば、ここの店員に対して、夫が驚くほど気を許しているように感じる時がある。何気ない会話一つ一つも噛みしめるように頷いていて、更には御門の娘を預けることに、何の疑問も感じていないようだった。
テーブルへ目を向けて考え込んでいると、目の前にガラスの小皿が置かれた。
小さなハーブが脇に添えられた、青と白のアイスだ。驚いて顔を上げると、あの店員さんがすぐ近くに立っていた。ドキリとする。まるで、娘を抱き上げた時のようなあたたかな熱に身体が震えた。
「試作品のハーブアイスです。よろしければ食べて下さい」
「ぁ、ありがとう、ございます」
店員さんは近くに立ったままだ。
試作品、ということだから、意見を聞きたいのかもしれない。
震える手でスプーンを取り、掬い、口へ入れる。
「…………おいしい」
とても爽やかな味。身体へ染みこんでくるような味に、自然と震えが収まっていた。ハーブには鎮静効果があるというけど、それだけじゃないように思える。
「とてもおいしい。デザートでこんな風に感じたのは初めて……なんだか、やさしい味」
すると今度は店員さんが息を詰め、何かが溶けるようにくしゃ、とした笑みを浮かべた。今まで落ち着いた表情ばかり見ていただけに、その表情は心底意外だった。整った顔立ちが不格好に崩れる様は、なんだか子どもを見ているような気分にさせる。
「ありがとうございます……っ」
「こちらこそ、いつもおいしいご飯をありがとう」
言われた礼まで子どもっぽくて、なんだか自然と言葉が返せた。
すると、店員さんは不意に目に涙を浮かべ、それに気づくとお盆で顔を隠し、深々と礼をして店の奥へと引っ込んでいった。
その背中をじっと見つめ、私は店員さんが口ずさんでいた鼻歌を真似る。
美しい音色。
どこまでも広がるようでいて、その広がった世界へ必死に手を伸ばす歌。
不意に空が見たくなった。
荷物を置いたまま店を出る。表で談笑するカップルの脇を抜け、強い日差しの中を日傘も無しに歩いて行く。娘たちが少し離れた場所で遊んでいる。車の近くで夫が電話している姿が見えた。
無性にこのまま散歩をしたくなった。
「今、私の」
そうだ、そんな歌詞だった。
どこまでも突き抜けるような青さを見上げ、その中央に一つの梯子を見つけた。ずっとずっと空の彼方まで通じているソレへ、私は求めるように手を伸ばした。
「願いごとが」
気付かない内に降り積もっていた想いが今、満たされたのだと思う。
「叶うならば」
会いたい。
私の、もう一人の、大切な……、
「翼が欲しい――」
次回、最終話。




