断章 -04
かつて青年だった男の場合
裏手の広場で元気に走り回る子どもたちを二人で見守る。
妻の表情は明るい。心底自分の子を愛し、慈しむ目をしていた。
元々子どもが好きな人だった。
海外の有名大学で出会った彼女は、当初から慈善事業にも精力的で、初めて会った時も施設の子どもたちと遊んでいる所だったのを思い出す。趣味などなく、与えられた課題をより良くクリアすることしか頭になかった自分とはあまりにも違う彼女の笑顔に、どうしようもなく惹かれていった。
一般家庭に生まれた彼女との交際は、それなりな大恋愛だったと数少ない友人は言う。
らしくもなく、初めて家に逆らった。けれど御門の力や影響力は何処に行ってもついてきて、ある時とうとう諦めてしまった。それを精一杯の愛情で繋ぎ止めてくれたのが妻だ。
幾つかの条件と、納得させるだけの実力を見せたことで婚約は決まり、その頃から御門の家が今まで隠していた研究にも参加した。
「おとーさまっ、おかーさまっ」
「どうしたの、ツカサ?」
駆け寄ってきた子どもを受け止め、愛情たっぷりな声で妻が言う。
私たちの子。御門ツカサ。
様々な原因があって、もう五歳を迎える息子の成長は芳しくない。
やや脳に問題が発生しており、物覚えが悪かった。言葉を話せるようになったのも最近になってだ。ただこれは、訓練することである程度克服出来るものらしい。
「ことりさんが、けがしてる」
両手で大切そうに持っていたものをこちらへ掲げる。
スズメだろうか。警戒心の強い野鳥が人間に抱えられても逃げないということは、余程弱っているのかもしれない。
「大変っ。あなた、この周辺に動物病院はありました?」
「調べさせる」
すぐさま秘書を呼び出して指示をした。
車も用意させ、場合によっては医者ごと連れてくるつもりでヘリを回させる。動物病院にヘリポートはないだろうが、訓練させた者を乗せておけば飛行しながら安全にピックアップ可能だ。ここならばヘリポートもある。
あまりにも手際よく準備したせいか、妻が呆れて笑っていた。
「ん、おかしいか」
「いいえ。あなたらしいです」
「そうか」
妻と交際を始めてわかったことだが、どうにも自分は周囲とズレているらしい。
必要だと思える用意を徹底的にすればするほど、周りは驚くか呆れる。以前はそんなことにも気付けなかった。が、やはりまだやり過ぎる部分があるらしい。
「お父様が小鳥さんを助けてくれるから、もう大丈夫」
「ほんとっ? ありがとうございます、おとーさまっ」
「問題ない」
「もう、自分の子どもにくらい気安く話してはいかがですか?」
「あぁ…………いや……問題ない」
また笑われてしまった。
しかし彼女の笑顔を見ていると安心する。ここの所、父が更に御門の勢力を広げようとしている一環で妻と社交会に出る場面が増えた。
才女とはいえ、一般家庭で育った彼女にあの空気は合わないらしく、大きな負担を掛けていたが、こうして見ていると安心そうだ。
しばらくしてヘリでやってきた医者が治療をしているのを、一緒に遊んでいた子どもとで熱心に眺めていた。
その子どもを、ツカサを兄と呼んで慕う少年を、妻は誰かの子どもだと思っているようだった。
ツバメの不調は栄養不足に加えて悪いものを食べたからだった。
薬を少量呑ませ、用意していた餌を与えると、一時間としない内に体力を取り戻して飛び去った。
「ばいばい」
手を振るツカサを妻が抱く。
嬉しそうに、あの優しげな笑顔で頬を寄せる。
「んっ……おかーさま?」
「優しい子。あなたは今、とてもいい事をしたの」
「はいっ」
褒められてむず痒かったのか、年下の少年と目を合わせて笑う。
そのまま二人してまた広場で遊びはじめた。
ツカサから手を離す時、妻がとても不安そうな顔を見せていたことに、私は動揺していた。
時折、こうして彼女は怯える。特にツカサを抱いて愛情を注いだ後、その手を離す時に。
流産と報告されたが、産まれた当初、子どもには息があった。
難産であったこと、事故現場で強行するしかなかった緊張もあって、誰もがほっとしていたという。無事に産まれた息子を抱いていた妻から、レスキュー隊が子を受け取った後、そのまま死亡してしまった。
その時のショックが妻には深く刻まれている。
錯乱した彼女は記憶の一部を欠落しており、後に起きたことを覚えていない。分かっているのは出産の時に何かがあったというだけで、こうしてツカサを定期的な検診へ連れてくることに疑問も持たない。
いずれ気付くのか、それとも生涯このままなのか。
話すべきなのかもしれない。聡明な彼女であれば、順序立ててじっくりと説明していけば、きっと理解してくれる。ツカサは私達の息子なのだから。
そう、話しておけば良かった。
知ってさえいれば、あそこまで妻がツカサを拒絶することはなかったかもしれない。
私は結局、自らの胎内から子を産み落とすという行為が、女にとってどれほどの意味を持つか。なによりその子を目の前で失った衝撃がどれほど強烈であったかなど、まるで理解していなかったのだ。
一年後、ツカサと買い物に出掛けていた妻が再び事故に巻き込まれた。
報告を受け、病院でツカサを引き取った私は、秘書から受け取った連絡で、妻が一人で家に戻っていたことを知る。
電気のついていないリビングで、妻は震えていた。
そこら中に陶器の破片が散らばっており、秘書が近づこうとするとひどく暴れた。私だけがリビングへ入ることを許された。
割れていたのは、ツカサが使っていた食器だ。覆い被さっている布切れは衣類だろうか。プラスチックのお皿や箸でさえ力任せに壊され、近づいて手を取れば、妻の美しかった両腕は血まみれになっていた。
たった数時間前、あれだけ幸福そうに笑っていた人の落ち窪んだ目を受けて、私はかつてないほどの衝撃を受けた。まるで別人のように、彼女の目には暗い淀みが生まれていた。
だが、掠れて聞こえた言葉にこそ、私は己の罪深さを感じずには居られなかった。
「……ツカサは何処」
「表で秘書と一緒だ。怪我もない」
「アレは違う。ツカサじゃない。私と貴方の子どもじゃない」
「違う。あの子はツカサだ。君と私の子どもなんだ」
「違う……アレは」
リビングの扉が開く。慌てた様子の秘書が目に入った。その前に、小柄な少年の姿がある。ツカサは自分を置き去りにした母親を、心底心配そうな表情で見ていた。
事故現場の状況については、既に報告を受けていた。
専用に編成が進んでいた処理班が急遽出動し、状況を隠蔽している筈だ。
妻は、見たのだろう。
あの時、私は妻の口を塞げばよかったのか、それともツカサの耳を塞げばよかったのか。
結局私は何も出来ず、妻は言葉を発し、ツカサはそれを聞いた。
「アンタは……化け物よ……」




