*何も知らない“カノジョ”
天青はようやく着られた着物を隅から隅まで観察していた。菫色の生地に、目と同じ帯。裾に描かれた桜の花びらの刺繍が何とも品が良い。
心地好い柔らかな肌触りに、頬を緩ませながらさっきまで自分が着ていた無地の白い着物は畳み込んだ。
『いいか天青・・・・・・そこを動いたら、斬る』
そう言って春隆は、天青の首に刃を当てた。冷たい感触が背に緊張感を走らせる。暫くじっとしていた天青は、あてられた物を見ようと首を少し動かした。すっと刃が肌を浅く裂く。
『!おい、動くなと』
『・・・それは、何に使うものなんですか?』
『・・・は?』
『い、痛いから、危ないものだとは思うんですけど・・・』
『・・・・・・本当に、知らないのか?』
『はい。・・・?』
小さな傷が少しだけ痛んだが、天青は動かずに春隆を見上げた。暫く険しい顔のまま視線を外していた春隆は、突然ふっと力を抜いて刀を外し、そのまま別の部屋へ消えてしまった。
少しして、戻ってきた時に持っていたのが今着ている着物と薬壺だ。
『傷が残ったら悪いから、診せてごらん』
そういって天青を後ろから抱え込み、首筋に顔を寄せた。かかる吐息がこそばゆくて目の前にある腕に手をかける。
『・・・よかった、たいしたことなさそうだな』
『!』
ペロリと舐められた、舌の感触に戦いてかけていた手に力を入れてしまった。天青の様子に春隆が苦笑する。
『これくらいの傷なら舐めとけば治る。が、一応薬はつけておこうか』
そうして薬を付けられた後に、ぱさりと布が膝に落とされた。
『着替え、持ってないんだろ。君は動かずにそれに着替える事に専念しろ。僕の予想が当たれば、時間がかかるはずだ』
『え・・・?』
『半時は来ないから、ここで着替えれば良い。気になるなら、好きな部屋を使ってくれて構わない』
『はい・・・』
そういって春隆は“すいじば”へ行ってしまった。
『さっきのアレは・・・・・・命を奪うもの、だ』
帯を整えながら、去り際に彼が遺した言葉の意味を考える。
『しかし・・・・・・きっと、護る為にも使えると思っている。だから、さっきは悪かったよ。脅すような真似をして』
触れた刃はとても冷たく、恐ろしい感じがした。しかしそれとは対照的に、春隆の目は寂しげで、辛そうに眉根を寄せていた。彼はきっと、あの刃のような人ではないはずだ。それが天青に落ち着きを与えた。
(それに、この着物。)
まだ形が崩れていない。袖に顔を埋めて、微かに香る糊の匂いを天青は思い切り吸い込んだ。
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「・・・君は、幽霊だったのか?」
部屋に入って第一声はこれだった。春隆の視線の先には渡した着物を着た天青が、春隆の言った事が理解できないという顔で座っている。
「帯、逆。左が上だ。右だと死人か幽霊。君は、幽霊なのか?」
「えぇっ!?」
「やっぱりな・・・。さっきまでの着物は、どうやって着てたんだか」
そういって天青を背中向きになるようくるりと回転させた。
「帯も下手だし。僕に直されるか、自分でやるか選べ」
「ハルさんが・・・?」
「このまま後ろから帯を解いて上下を直し、且つ帯を結び直す。それか、自分でやるかと聞いている。最も、やり直したところできちんと着付けられるなら、だが」
「・・・・・・」
春隆は薄ら笑いを浮かべた。半時も与えたのにこれだ。この選択肢は始めから無いに等しい。
「さ、どうする?」
「ご迷惑ばかりおかけしてすみません・・・。お願い、できますか?」
「わかった」
持っていた鍋を囲炉裏に下ろし、どうやろうかと腕を組む。
「よし、こうしよう」
そう言って天青を後ろから抱きしめ、髪に顔を埋めた。
「ハルさん・・・?」
「前からやるわけにはいかないだろ。こうしてたら見えないから。じっとしてなさい」
「はい・・・」
「うで。少し上げてて」
「はい」
大人従う天青の帯を解いていく。そのまま腕にかけて、左前に着物を直した。裾を合わせて、きっちりと身体にそって着付ける。春隆の手は、見えない分慎重になった。
「よし。もう見ても大丈夫だろう。ほら、こっち向いて」
「はい」
最後の帯は、慣れていない女性物である為に自信がない。今度は前から抱きしめるようにして、丁寧に帯を組んだ。最後に軽くポンと叩いて天青を解放する。
「あ・・・」
「ほらできた。これが正解だから。練習して慣れなさい」
「はいっ」
天青は、きちんと着付けられた着物を確認するようにくるりと回って歓声をあげた。
「凄い!綺麗ですっ」
「当たり前だろう。この国の衣装は美しい。きちんと着付ければ、な」
「・・・そうですね。そうだ、ハルさん・・・・。この着物」
「なんだ?」
「用意、してくださったんですよね。わざわざ」
「・・・何でだ」
「糊の香りがします。それに、ここにはハルさんしか住んでいないみたいですから、こういうのは、置いてないでしょう?」
「!!」
春隆は驚いて天青を見た。
(なんで、そんなカンは良いんだこいつは・・・・)
「ありがとうございます、ハルさん」
「・・・気に入った、か?色とか・・・」
「はいっ!」
相変わらずの微笑みから顔を反らせる。視線は囲炉裏の火に落としたまま、片手で手招きをした。
「ならよかったよ。・・・ほら、こっちに来い。飯にしよう。さっさとしないと冷めてしまう。腹は空いているか?」
「いえ・・・・・・」
「それは健康じゃないな。それでも食べないのは良くない。無理にとは言わない。出来るだけでいいから食べなさい」
「はい」
囲炉裏に吊された鍋の蓋をとると、中から湯気と旨そうな匂いが立ち上った。
「まだ寒いから、やっぱり今は鍋が1番。山菜とか茸を一緒にして飯に掛けても良いし、軍鶏なんかと食っても旨い」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
天青の口調を真似ながら、汁をよそった椀を渡す。同じように、握った米も皿に乗せた。
「やってみれば良い。飯を崩して、汁に入れてみな」
「はい」
天青が言われた通りにするのを見守る。
(そういや、箸は普通に使えるんだなあ)
「・・・ハルさん?」
「ん?」
「おっしゃる通りです!」
「え?」
「ごはん、入れるととっても美味しいんですね」
考え事をしている間に試し終わっていたらしい。
「ああ、そうだな。じゃあ僕も食べよう。いただきます」
「・・・ハルさん、それ」
手を合わせて、汁を一口啜ったところで天青が尋ねた。
「“いただきます”って、どういう意味ですか?」
「意味か。そうだな。簡単に言えば感謝だな」
「感謝?何に?」
「食材になってる山菜や茸も、動きはしないが命だからな。逸れを頂戴するわけだから、感謝するんだ。何処かの寺では、“本当に生きんが為に今この食をいただきます”と云う食作法と呼ばれる文句もあるらしい」
「じきさほう」
「そうだ。この国の人間は、常に自然とともにあって自然に感謝しながら生きてきた。もう意味を知ってる人もあまりいないし、いただきますと言わないやつもいる。そういう僕だって偉そうな事は言えないんだがな。長年言ってきたから、言わなきゃ収まりが悪いだけで、毎回食作法のような心持ちで唱えてるわけじゃない」
「・・・それでも」
「ん?」
「ハルさんは、きちんと意味を知ってて云ってらっしゃるんですよね。知らなかったわたしに教えてくださるくらい」
「・・・まあ、な」
「それって、とっても素敵な事ですねっ」
にこにこと言われて、柄にもなく照れた。
「・・・・・・はやく食え。冷める」
「はーいっ」
それから一口毎にいただきますを繰り返す天青を横目に、春隆は鍋を片したのだった。