***別れ
夜はほとんど眠らなかった。いつものように、布団を並べて、もう見慣れた天井を見つめる。
昔にも、見た。この部屋で・・・。その時も、大切な人と一緒に・・・・・・。
春隆が寝ていない事には気が付いていたが、何を言うのも違う気がして、春はただ静かに時が流れるのに任せた。
朝になったら・・・・・・。
夕方、春は帰り際の夏を捕まえに急いで外に出た。ただ名称として呼んでいた時と違い、まだそこにいると感じる事ができる。
『夏さん』
『なんだ?』
すぐに姿を現した夏が、目の前に立って春を見上げる。
『時間、早めても構いませんか』
『・・・良いのか?』
『はい。朝までに・・・』
『それなら、そうしよう。私が、朝だと思う最後の時間に使いを送ってやる。次の行き先までは、今回は我々が案内しよう』
『ありがとうございます』
『うむ。では、また明日』
『はいっ』
こんな、数時間前の約束が、随分遠く感じられる。そのまま何刻も過ぎた頃、春はそっと布団を抜け出した。
襖の閉まる音を聞きながら、春隆はうっすら明るくなりはじめた外を見た。まだ鶏も鳴かない時間だ。出ていくにはまだ早い。
何処に行ったのか・・・。
訝しく思っていると、遠くから耳慣れた包丁を使う音がする。
今日も、何時も通り朝餉を作る気だろうか。
春隆はふっと笑って布団を退けた。
「はる」
「あ、ハルさん」
声をかけると、襷掛けをした春が振り向いた。
「おはようございます」
「ん。おはよう」
何時も通りの笑顔に安堵する。この感覚は、春隆には初めてのものだ。
「朝から、どうしたんだ」
「あ・・・ええと、少し思い出して、お菓子を作ってみようかと思って」
「菓子?」
「はい。くす・・・春望様が、お好きだったんです。また作ってあげられたら良かったのですけど・・・。少し、材料があったから、ハルさんにも食べてほしくて」
「僕が師範の代わり・・・?最後に、か?」
「・・・・・・お茶、いれますね」
春隆の問いに困ったような顔をして、春は急須を準備し始めた。
縁側に並んで座る。空が、薄紫のような青のような色になってきていた。
「紫だちたる雲・・・清少納言か。天青の目の色は、これかもしれないなあ」
「え?」
「春によく見られる空なんだ、これは」
春隆は、山の稜線をなぞる雲を指差して答えた。
「・・・そうだ。ハルさん、これ、なんですけど」
暫く共に見つめていた春は、思い出したようにひとつ皿を差し出した。
「胡桃餅?」
「はい。そば粉で作ってあって・・・。それに、ちょっと桜が入ってます。仕上げに炙ってあって・・・」
「なるほど。戴こう」
ひとつに手を伸ばし、ゆっくりと頬張る。
「うん。・・・美味い」
「よかった」
春は、それは嬉しそうに笑った。その顔を見て春隆も表情を緩める。
「師範は本当に好きだったんだな。納得できる」
「ええ、それはもう、作る度にいくつもいくつも・・・」
「違う。君を、だよ」
「え?」
「気に入ってしまうのも無理はない」
「・・・・・・」
「何をさせても及ばないところは多々あるが、それでも一生懸命なところとか、よく笑うところだとか。春はとても魅力的だな」
「それは、季節の・・・」
「いいや?君の話」
「・・・ありがとうございます、ハルさん」
「それは僕の台詞だな」
「いいえ。ハルさんが拾ってくださって、素敵な名前もいただいて、あたたかい居場所をいただいて、・・・・・・ご迷惑ばかりかけてしまったけれど、・・・ハルさんに会えて、・・・側にいられて・・・わたし、とても幸せでした」
「春・・・・・・。迷惑だなんて、僕は一度も」
春隆の言葉を遮るように、春は首を振った。
「最後だけでも天青とお呼びください。私、この名前が好きだから・・・」
「天青」
「はい。ハルさん、私、春望様が大好きでした」
「・・・そうか」
「でも今は、同じくらいハルさんも大好きです」
「・・・天青・・・?」
伏せられた目が、心なしか光って見える。
「本当は、ここにずっといたい。ハルさんと、千代ちゃんたちと・・・此処でずっと暮らしたい。ここの生活は本当に楽しかったけれど・・・・・・」
「!それなら・・・」
「でも、もうお別れなんです」
何かを振り切るように頭を振る彼女に手を伸ばす。頬が少し濡れていた。
「ハルさん、あのお花!なんて言うんでしょうね」
突如、大声を上げて天青が立ち上がった。駆けていく庭の端に見える塀の向こう側で、小振りな黄色が花びらを広げている。春隆の手は、空に触れて止まった。
「・・・向日葵が、どうかしたのか」
「・・・時が来たみたいです。私はもう、行かないといけない・・・」
「もう時なのか・・・」
「全部話せなくてごめんなさい。私、はやく行かないと。ハルさん、どうか・・・・・・お元気で」
「天青?」
濡れた頬のまま、極上の笑顔をみせる彼女に春隆は慌てて駆け寄ろうとした。
「待ってくれ。まだ・・・だ、待て、行くな・・・・・・っ!!僕は、君に何も・・・・・・」
日の出と共に、強くなっていく陽の光に、彼女の姿が霞んでゆく。
「たくさんたくさん、ありがとうございます、ハルさん・・・・・・」
大好きです
さようなら
柔らかな陽の光の中で、風の囁きのような大きさで、優しい声が聞こえた気がした。
「天青?・・・・・・こっちの気も知らないで一方的にっ・・・・・・・・・」
今の今まで彼女が在ったところに、何もない。
どうしようもなくなって、春隆は裸足のまま表へと駆け出した。




