*記憶:伍
襖を開けて入ってきた相手を見て、初めて氷蔵は僅かな緊張感を覚えた。半次郎の言うままについて来てしまったが、まだ平助率いる追手から逃げ切れた保証もない。裏で話が回って、斬られる事も考えられるのだ。
『そう、警戒なさるな。初対面の素性も知らぬ者を斬るほど、私は悪名高くはないぞ』
読まれていた事に冷や汗が流れる。と同時に、穏やかな口調に詰めていた呼吸が平常に戻るのを感じた。
『達者か、半次郎』
『ええ、橘様も。わしは大丈夫ですが、妻が巷の病に伏せりましてな』
『・・・悪いが、薬ならもう・・・』
『違います、違います。今朝方熱は引きました。むしろ、薬を持ってきしょうですよ』
『・・・いつぞやも聞いた台詞だな。聞こう。その男か?』
『と、この草』
半次郎が運び込ませたいくつもの籠を開いて中を見せる。
『川辺に沢山生えている草ではないか』
『これを使って熱を下げる方法を知っとうですよ。しかも、医術に優れた北からのお客ですや』
『北の、客、か』
『刀を持っていて薬がわかるお人は、久しぶりですなぁ、橘様』
『・・・春望か』
目の前で広げられる会話を呆然と眺めていた氷蔵は、呟かれた名前に驚いて顔を上げた。春望。漢の詩から付けられたという名前は、氷蔵の剣の師範の名である。二人の会話から、氷蔵は同一人物ではないかと考えたのだ。
『師範を・・・知っておいでですか・・・?』
『せんせい?』
『・・・武内、春望・・・・・・わたしの剣の師範であり、父でございました。・・・ご存知、なのですか』
恐る恐る口にした氷蔵を、半次郎も橘も驚いたように凝視していた。
『こりゃ、驚いたな、橘様』
『まったくだ。おい。竹刀を』
橘が襖を開けて声をかけると、すぐさま橘に二本の竹刀が手渡された。
『橘様、このお方は怪我をしていらっしゃる。刀は・・・』
『ほう。どれくらいの怪我か』
『・・・左肩を』
『では、それを踏まえて一太刀だけ交えようぞ。本当に春望の弟子であれば、この狭い部屋でも私の打ち込みをかわせようからな』
『・・・承知』
橘に放られた竹刀を握り、半次郎を離れさせて間合いを詰めた。
『私は主の太刀筋を見たいだけだ。よって、私がそなたを打つ事はないが、そなたは私の竹刀を打ち落としても良い。身分は気にするなよ。しかし、・・・狙うのは腕だけに致そうな、防具を着けてはいないのだから』
ふと笑った橘が、スッと竹刀を構えて立った。今の言葉を受けて、氷蔵は肩の力を抜いた。身分を気にせずとも良いのなら、先に竹刀を打ち落としてしまえばよい。その場所も、狙うのが腕だけと決まれば、簡単に決められた。あとは橘がどう打ち込んでくるかだ。
『覚悟!』
目の前の気が膨れて襲い掛かる。氷蔵は聞こえるきぬ擦れの音や、微かな風を感じて目を閉じた。
カラン。
一陣の風が吹き抜け、竹刀の落ちる音がする。
『・・・おやまあ』
半次郎の声で我に返り、手ぶらになった橘は驚いたような顔をしていたが、すぐに嬉しそうな顔になり、それも消して、厳格な雰囲気で膝をついた。
『自然流、春望の息子殿よ。積もる話は後にしよう、私は、まずはこの国を救いたい。・・・薬の作り方を教えて貰えないだろうか』
そのまま深く頭を下げる橘を見て、氷蔵は事の重大さわ理解した。もとより出し惜しみをする気はない。頭を下げる橘の正面で、彼より深く頭を下げて短く告げた。
『手伝わせていただけますか』
『・・・有難う!半次郎、必要な物はわかるか?』
『ええ。主に人手でしょうや。草集めを頼めますかね』
『他には?』
『女子の手を借りたい。火と湯は使い慣れていやしょうから』
『よし、わかった。そうさせよう』
その他幾つかの確認をすると、橘は勢いよく襖を開けて声を響かせた。
『隊をイからホまでの5班に分けろ!イとロとハは草を集めに川へ行く。こちらに集まって色形をとくと見て覚えよ。ニとホは伝令を飛ばすぞ、各々馬を用意して待機せよ!』
『はっ』
『・・・どうや、橘様はわかるお方じゃしょうが、先生?』
自分の国の頭とのあまりの違いに目を丸くする氷蔵に、半次郎が笑いかける。
『・・・みたいですね』
彼の的確な指示により、瞬く間に籠がひとつ川へ行く組に持ち出され、屋敷中の女達が氷蔵の周りに集まった。
『では、頼めるか』
橘本人も袖をたくしあげ、氷蔵の前に膝をつく。
『・・・はい』
まずは、葉を細かくちぎってください・・・と、声をかけながら皆の間を歩き、氷蔵は数日に渡って薬の作り方を教え続ける事になったのだった。




