*記憶:参
山は霞がかっていて、頂上が見えていない。しかしそこを通らなくても国の境を渡ってさえしまえば、とりあえずは逃げ切れる。ふらつく足を引きずり、岩だらけの山道を歩いていく。道がようやく下り坂になってきたところで、氷蔵はふと霧とは違う湿気を感じて足を止めた。何やら、水音がする。
『こちらにも川があるのだな・・・』
そのまま誘われるように歩き始める。浅くない傷は熱を持ち、触れた額も、いつもより熱い。触れた手が冷たいせいではないはずだ。
暫く歩き、氷蔵は着いた澤に手を入れて驚いた。
『ぬくい・・・。湯が出るところが近くにあるのだろうか・・・』
風呂ほど暖かくはないが、傷付き冷えた身体に心地好い温度に、次第に氷蔵の意識は途絶えていった。
“こんなところでお休みになっていては危険です”
そんな声が聞こえた気がする。ふわりと温かな何かに抱えられたような心地がし、次に気が付いたら着物のまま半身は湯に浸かって、肩の傷は雑にだが手当てされていた。
『ここ、は・・・』
『!起きしょうか』
『あなた、は・・・うっ』
『動いたらいかん。酷い傷じゃあ。ここじゃろくな手当はできんか、血は止まっとる。大人しゅうしとせな』
なかなか焦点の合わない目で声のする方を見ると、優しげな顔をした男性が座っていた。
『川辺に流れ着いとったんよ。あんまり冷たいからどざえもんかと思うたが、肩の傷に触れたら呻いたから、ウチの薬湯に浸けてみたんだ。効くだろう?・・・俺は半次郎と言う。あんたは?』
『僕、は・・・』
どうやら命の恩人らしいが、名前を告げて居場所が広まっては、万が一国を越えて追われた時に迷惑がかかる。氷蔵は困って俯いた。
『まぁ良いさ。肩の傷といい、訳ありそうだしなぁ』
『すまない・・・』
『なんも。湯に浸けただけんよ。生きてて良かったな』
『有り難う・・・』
『どうだ、動けそうか?』
『もう少し、血の気が戻れば・・・』
『まあまあ、言いなさんな。お侍さーよう。血の気は食って戻すもんしょう。鍋、食ってけ食ってけ』
『しかし・・・』
『血が抜けすぎだけ力がいらんだろうが、傷はそうひどくない。ウチの鍋を食えばたちまち治る!』
半次郎は豪快に宣言して立ち上がった。
『手ぬぐいと着物はそこだ。とりあえずは貸すから、隣へ来な』
そう言うと、彼はそのまま氷蔵の返事も聞かずに湯殿から出ていった。
『来たか!』
氷蔵が着替えて隣の部屋を訪れると(戸が1つしかなく通るしか無かったのだが)、半次郎は嬉しそうに笑って、囲炉裏の側へ招いた。
『茸の鍋があるんだ。ほら、食いな』
ずいずいと腕を押し付けられ、氷蔵は思わず椀を受けとった。恐る恐る口をつけ、その美味さに目を見張る。その様子を見ていた半次郎は嬉しそうに笑って、思い出したように奥に声をかけた。
『お千代』
『何、父さん』
すぐに現れた娘は、氷蔵を見て不思議そうに顔を傾げた。
『お客さー?来てたの?』
『ああ、客だ!で、千代。千歳の様子はどうだ?』
『よくない。全然熱がひかなんしょう』
『鍋は食えるかや』
『どうかな。呼ばれてみよか』
そういって千代がテキパキと椀に汁を盛る。その間に半次郎は氷蔵を振り返って言った。
『千歳つうのは妻の名でな、流行り病で今は伏せってるんだ』
『流行り病、ですか』
『なんでも三日三晩熱がひかないで、死ぬやつもいるらしい』
『父さん』
『すまんすまん、千歳は大丈夫だな』
咎めるような千代の声に、半次郎は苦笑いして謝った。
『よかったら、診せていただけませんか』
『お侍さー、医者もできるのか?』
『そうではないのですが、少し薬草に詳しいもので。・・・これの礼に』
氷蔵が軽く椀を持ち上げると、暫く訝しげに見ていた半次郎は納得したように頷いた。
『千歳、入るぞ』
半次郎が声をかけるが反応は無い。氷蔵は彼の後に続いて、床に寄った。
『わかるか?』
半次郎の声には答えず、そっと千歳の手をとって診る。それから顔を見て、最近の様子を千代に尋ねた。
『こういう、葉を見たことがありませんか』
氷蔵が小声で形状を言うと、直ぐさま千代が声をあげた。
『そなら、そこの川にいくらでも生えしょるよ』
『それが効くかも知れません』
『ならとってくる!!』
『ほんとに効くのうか、それが。ここらじゃ誰も見向きせんただの草やしょう』
『僕の判断が合っていれば。大丈夫、栄養価の高い草です。違っても毒にはなりません』
『・・・千代。行ってくれるか』
『うん』
父の許可が出て、ようやく千代は走り出た。半刻もすると彼女は小さな籠いっぱいに葉を集め、帰ってきた。
『半次郎さん、お湯をお願いします』
『わかった』
その間に氷蔵は葉を小さくちぎった。千代に巾着を借りて袋状にし、その中にちぎった葉を詰め込んでゆく。時々肩の痛みに顔をしかめる氷蔵を見て、千代も横から手を出した。
『兄さー、どんくらいの湯だね』
『それで充分です。後は椀を二つ程借りられますか』
『千代』
『はい』
弐刻もすると、茶碗1杯の淡い緑をした液体が出来上がった。
『こ、これか?』
一見茶の色をした不思議な香りのする液体を見て、半次郎は怖じけづいたように氷蔵を見た。
『飲ませてあげてください。悪い味はしませんから』
証明するように残りの方を少し飲んでみせる。その椀を奪うように半次郎も薬を舐めると、納得したように妻の手をとってゆっくり抱き起こした。そうして恐る恐る薬を含ませているのを確認し、氷蔵はそっと囲炉裏の側へ戻って火にあたって待つことにした。




