異世界転生した男の誤算
ある日。
ふと気がついた。
いや……気がついたというよりは、思い出した、といった方がいいかもしれない。
俺には、「今とは違う世界」で生きていた「前世の記憶」があるって事に。
そこは「チキュウ」という星の「ニホン」という国で、俺は「サラリーマンエイギョウ」という仕事をしていたということ。「サトウコウイチ」という名前だったこと。「ネットゲーム」が好きで、いつも「パソコン」と呼ばれる物の前に座っていたこと。「トラック」という馬車に轢かれて死んだこと、など。
俺は、思い出した。
魔術文明の発展したこの現世とはまったく違う、科学文明の発展した異世界での過去世の記憶を。
***
「だからさー、俺は生まれる前はこことは違う異世界の人間として生きていたんだ。で、その時の記憶を思い出したんだよ。ね、すごくね?」
「あっそ。でもだからって、それがアンタの算術の成績が悪い言い訳にはならないし」
幼馴染であるミューシャは、その整った顔を思いっきりゆがめながら言い放った。
「というか、アンタのその妄想はどうでもいいから!」
「妄想いうなよ! 妄想じゃなくて本当なんだって」
異世界に生きていたという過去世の記憶は俺にとって重要な「アイデンティティ」なのだ。否定するんじゃない!
俺がにらむと、ミューシャは軽く肩をすくめた。
「算術だけじゃなくて魔術理論もダメじゃん。語学と歴史はまあまあだけど。つーか、もしかしたらその前世の記憶ってのがあるからダメなんじゃないの?」
「えー。……俺さ、その異世界で生きてたときは、算術が得意だったよ。あ、その異世界では算術って言わないで「スウガク」って言うんだけど。でも魔術は無かったんだよ、代わりに「カガク」。だから俺って魔術理論苦手なのかなぁ?」
「そんなこと私に聞かれたって知らないよ! ところで、試験勉強は? するの? しないの?」
「しますします! 教えて下さいミューシャさま!」
「よろしい。では、さっさと問題集を開きたまえ」
思いっきり上から目線な言い方に、カチンとしなくもなかったが、分からないところを教えてもらう立場なので何も言えない。
仕方なく、目の前に迫った学年昇格試験の勉強をするため、俺は算術の問題集に取り掛かった――。
過去の記憶と知識は、実のところ、バッチリある。
はっきりと思い出したのは、王国魔術学院に入学した前後だったか。
異世界での俺は理数系の大学に通っていたし、社会に出てからのスキルも高いほうだった。
二十代半ばで散った人生だったけれども、大人として生活していた記憶もある。
だから、この学院に入学したとき、正直、楽勝だと思ったんだ。だって同い年の周り奴らなんてまるでガキにしか見えなかったし、今まで勉強してきた異世界での記憶があるぶん、アドバンテージが多いはずだと思ったからだ。
思った、んだけれども。
「だからー! なんでこうなるの!」
目の前でミューシャが怒っていた。
「また繰り上がりで間違えてるってば。何度教えれば分かってくれるのかな、アンタの頭は!」
そう言われても……。
俺は指摘された箇所を見直した。
「どこ?」
「ここ!」
――あ。
「そうだった、ここね」
へらっと笑いつつ、俺はその箇所を計算しなおした。
「ホント、バカ」
相変わらず辛らつな言葉を吐くミューシャに、俺は一応、反論と自己弁護を試みる。
あんまりバカにされっぱなしってのもよくないしな。自分の精神衛生上。
「さっき、俺、前世の異世界の話したじゃん?」
「またその話? しつこいって!」
「いいから聞けよ。で、その世界ではさ、算術は十進法だったんだよ」
「はい?」
「だから十進法。他にも六十進法とか二進法とかもあったんだけど、基本的に十進法だったからさ、そのクセが時々出るんだよ」
幼い頃から学習塾に通わされ、鬼のように計算をさせられていたのだ。もはや条件反射と言ってもいいかもしれない。自分でも気をつけてはいるのだが……。
「うわー。使えないね、異世界の、過去の記憶って」
ミューシャは哀れむような瞳をむけ、ポツリとつぶやいた。
うん。
自分でも薄々は気がついていたんだけどね。
やっぱり認めたく無かったというか。
「……だよね」
なぜなら――この世界での算術は、「十八進法」で成り立っているのだから。
俺は、前世の知識の「十進法」を忘れ去るべく、前世と同じように鬼のように計算をし続けるしかなかった。
前世で生きていたときの、異世界の知識、常識。
それが、この世界ではまったく役に立たないどころか、有害に作用するなんて。重要かつ根本的な事を、失念していたらしい。
かつての「俺」がむさぼるように読んだ「ラノベ」や、睡眠時間を削ってまでプレイした「ゲーム」のような、そんな都合のよい展開は俺には来なかったって事だ。
そんなことを考えていたら、
「あ、ここも違うっ!」
パコーンと、ミューシャに問題集で頭を叩かれた。
ちぇっ。