ご主人様
優斗が目を覚ますと、目の前にフレイの顔があった。
状況に驚きながらも、こうなった理由を思い出した優斗は、赤面しながらベッドから抜け出した。火照った顔を冷やすために窓を開ける。外の様子から、どうやら朝らしいと判断する。
「おはようございます、ご主人様」
「おはよう、って、おおう」
むくりと起き上がるフレイに驚きながら、優斗は椅子に腰かけた。フレイの方はベッドの上で、いわゆる女の子座りをしている。
「何故にご主人様?」
「今の私は預かられた商品ではなく、貴方様の所有物だからです」
「うわぁ、予想外の反応」
優斗の言葉に、今度は何の反応も示さなかった。
フレイが、と言うよりも奴隷は登録時に首輪と共に基本的なルールを刷り込まれる。幾つかあるそれの中に、こういう項目がある。
1つ、主人には絶対服従。
1つ、己を殺し、奉仕する。
仮の主人から本当の所有者になった優斗には、それが適応され始めた、と言う訳だ。昨日までは買い付けた商人、リコスが彼女の中では主人と言う扱いだった。それが、買い取った、と言う言葉と村へ食糧を送るという契約がほぼ履行された事をきっかけに、切り替わったのだ。
「えーっと。そんな大げさにしなくてもいいんだけど?」
「奴隷は主人の所有物です。その魂の一片から髪の毛一本に至るまで、貴方様の物です」
「どうしようかなぁ、これ」
色々考えた結果、思いついたのは、とりあえず命令してみよう、だった。
「フレイ、命令するよ」
「はい。なんなりと」
「自分を守る事を最優先し、自分で考えて行動する事。失礼な口をきいたからと言って罰する様な事はないので、しゃべり方も元通りに戻す事。期限は命令解除をするまで」
期限を設けたのは、命令によっておかしな事になった時への対策だ。
優斗は別に、情が移ったとか、倫理的な理由だけで彼女を売らなかった訳ではない。この世界に不慣れな彼にとって、知識がそれなりにある現地人、しかも自分の命令に絶対服従な存在は色々な意味で都合がよかった。彼女の容姿と性格に惹かれた部分もなかったとは言わないが。
「わかりました、ご主人様」
「いや、ご主人様もやめない?」
「何故ですか? こう言うの、好きなんですよね?」
そう言って昨日買ってきた物が集められている場所へ視線を向ける。
優斗は一瞬だけ考えてから、その視線の意味に気づいた。エプロンドレスだ。
「いや、それ違う」
「侍女をメイドと呼んで慰み者にする貴族の話は、私も聞いた事があります」
覚悟は出来ています、と言わんばかりの言葉に、優斗は頭を抱える。そんなつもりは、ちょっとしかなかった、と言うのに。
もちろん優斗の、そんなつもり、は見て楽しむくらいで、それ以上の事は考えていない。
「とにかく、そんな気はないから。無理にご主人様とか言わなくていいよ」
「えーっと、では。この不能?」
「ナニソレ」
突然に飛び出した暴言に、優斗の言葉はカタコトになった。気のせいだろうか、と頬つねるが、痛みを感じて、それは夢かどうかの確認方法だったと思いだす。
「可愛い女の子と一晩同じベッドで寝て何もしない男は、不能か同性愛者だと教わりました」
「誰にだよっ」
正確には、男は狼だから気を付けましょうと言う内容だったのだが、優斗が知る由もない。
「不能ではないのですか?」
「違うっ」
「本当、ですか?」
急にしなを作って近づいてくるフレイに、優斗は焦った。
ベッドを下り、一歩一歩近づいてくるフレイ。真っ直ぐ見つめるその視線に囚われ、優斗は金縛りにあったように動きを止める。
潤んだ瞳、濡れた唇。ちらりと見えた舌先が、艶めかしい。
優斗の肩に手が置かれる。その感触で囚われていた意識を少しだけ取り戻した優斗は、逃げようと身をひねってサイドテーブルに足をひっかけてしまい、水差しが倒れた。流れ出た水飛び跳ね、スカートの裾を濡らす。
「み、ず。シ、ミに」
「後で洗います。ただの水ですし、大丈夫です。それに、今からもっと……」
もっとなんだ、と言う声は掠れて言葉にならなかった。
完全に気圧されている優斗は、なんとかこの状態を脱しようと身を引く。その努力は報われず、膝の上に跨ったフレイがその胸の中にしな垂れかかる。
「ご主人様。はしたない女はお嫌いですか?」
「いや、ってか、じゃなくって」
目を閉じた顔が迫ってくる。それをなんとか回避しようと更に身を引いた優斗は、フレイを巻き込んで椅子ごと倒れた。
「っつ」
「そこまで拒否するのは酷くないですか?」
さっと立ち上がり、ベッドに戻ったフレイは何事もなかったかの様に元の場所に腰かける。優斗は状況を把握することで精いっぱいで、椅子ごと倒れたまま起き上がる事が出来ない。
「えーっと、ほんとにフレイ?」
「はい。貴方のフレイです」
にこりと笑う顔は、今までに見たことのない表情だったが、それでもフレイである事に間違いはなさそうだ、と判断した優斗はようやく立ち上がり、起こした椅子に腰かける。
「君、生娘だって言ってなかったっけ?」
「そうですよ」
「どこで覚えたの?」
「ご主人様が仰った事ですよ。貴族の教育を受けたって。その中の1つに、男を誘惑するテクニックと言うモノがありまして」
貴族の女子は年頃になると皆が習うそうです、と楽しそうに告げるフレイは、今まで見た事がない、生き生きとした表情をしている。
更に、筋がいいって褒められた事もあるんです、と自慢げに語る姿を見て、優斗の中のフレイ像が音を立てて瓦解していくのが判った。
「それは分かったけど、なんで俺に迫る訳?」
優斗は、からかわれたのでは、と思っていた。しかしそれは、間違いだった。
「だってほら、ご主人様優しいですし。売られたくないじゃないですか?
だから私の売りの1つである処女を貰ってもらって、売値を下げれば売りにくくなるんじゃないなあーって」
納得の理由に、優斗は呆れるしかなかった。早速、自分を守れと言う命令を実行してくれているようだね、と言う皮肉が思い浮かんだが、口から出さず、飲み込んだ。
「ぶっちゃけるね」
「基本、ご主人様の命令は絶対ですから。問いに嘘を返す訳にはいきません。と言うか、やりすぎるとこれが締まってきます」
首輪を指差しながらフレイが愚痴る。言葉づかいはそれなりに丁寧なのだが、如何せん投げやりだったり楽しげだったりするせいであまり敬意を感じられない。
「ところでご主人様、この後どうされるのですか?」
「ご主人様は止めようよ。この後はロード商会の使いを待つ予定だけど?」
「では、甲斐性なしと呼びましょう。そうではなく、今後、この取引の後です」
「……甲斐性なしって、酷くない?」
フレイに鼻で笑われ、優斗はため息を吐いた。
確かに今の優斗は手持ちの資金がほとんどない状態だ。資産としてはホロ付荷馬車に上質な女奴隷とそれなりだが、片方は商売道具で、片方は助言者なので手放せない事を考慮すれば、行商に使える資金は財布の中身と唯一残った宝石が1つだけだ。
元手が少なければ儲けも少ない。これは商売の基本だ。そこから考えれば、現在、優斗が稼げる額はとても少ない。すなわち、事実、甲斐性なしなのである。
「大丈夫ですよ、不能でメイド好きの変態な上に甲斐性なしのご主人様でも、私はちゃんと尽くしますから」
「泣くぞコラ。っつーかさすがに酷すぎだろ、その言いようは」
優斗の発言に、フレイはにやりと笑う。その笑みを不敵な物にシフトさせながら、勝ち誇ったように口を開いた。
「しゃべりかたを戻せとおっしゃったのはご主人様です。失礼な口を利く許可も頂いています」
「う、確かに」
「お嫌でしたら、命令を撤回してはいかがですか?」
ここで撤回したら負けた気がする。そう思いながら、優斗の頭にはもう1つの事が思い浮かんでいた。
フレイの態度が地だとして、優斗の機嫌を損ねる態度を取るだろうか。彼女は賢い。ならばこの行動にも意味があるのではないか、と。
実際、フレイは本気で優斗が自分に自由を与えてくれるのかを確認する意味も込めて、大げさに悪ふざけを行っていた。逆らえば屈服させられるのであれば、以降も従順な態度を貫くべきだ。しかし数日間一緒に過ごし、彼は本当に、本気で、馬鹿みたいにお人よしなのではないか、という淡い期待をフレイは抱き始めていた。だからこそ、確認が必要だった。とはいえ、全てが演技だった訳ではないが。
「好きにしてくれ」
大きなため息を吐いきながらそう告げた時、フレイはあからさまにほっとする反応を見せた。
自分は間違っていなかった。そう思った優斗は、しかし念のため釘を刺しておくことにする。
「ただし、人前ではちゃんとしてくれよ」
「もちろんです。この状態で貴族の侍従なんて出来ませんから。実はこう見えて、意外と猫かぶるのは得意なんですよ」
全然意外じゃないけど、と思いながら優斗はまたため息を吐いた。
その後ロード商会の使いが来るまでの間、2人は初めてのくだらない雑談に、花を咲かせ続けた。
ようやくフレイさん、本領発揮です。