廻り逢う
ルナール公国・首都ルナール。
都市としては公国最大規模を誇る反面、この街の中心はとても人口密度が低い。
それは、中央にある公国最大の権力者が済む宮殿を囲むように、支配者階級である貴族の屋敷が並んでいる事が原因だ。
公国において貴族は、基本的に施政者を意味する。例外的に領主のみ、公から与えられた土地の自治を行っているが、基本的には国の意思決定を行う議会に参加するのが、貴族の仕事だ。
位階は上から順に、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵となっているが、公爵を名乗れるのは直系である公ただ1人。他の爵位は上限こそ決まっているが、空位の場合もある。
よほどの事がない限り貴族の邸宅がある付近に近づく者は少なく、当然、宮殿は通り抜け不可。そんな事情から、ルナールと言う街はドーナツ状に広がっており、交通の不便さから東西南北4つのブロックが別の街の様に独立している様に見える。
そんなルナールの中で、主要な街道から最も近く、中小規模の商館が多く存在する西ルナールに宿を取った優斗は、ヴィスに身を清める様に言い含めると、夕食を調達する為に街に繰り出した。安さと安全性と言う注文により、不特定多数の人間が出入りする食堂や酒場を併設しない宿が紹介された事は、優斗にとって予想外の事だった。
夕食を調達して宿に戻り、扉をノックした優斗は、反応が返ってこない事で自分のミスに気付く。
それはまだ、ドアノックにはきちんと答えるべし、と言う教育をしていない事だ。
「ヴィス」
「ん?」
「入るよ」
「うん」
声には応えてくれるのか、とヴィスの判断基準が何なのかと考えていた優斗は、更にもう1つ気づく。
果たして、まだ着替え中であったとして、ヴィスは優斗の入室を拒否するだろうか、と。
「着替え終わった?」
「まだ」
「おい!」
思わず声を荒げた優斗は、ドアノブから手を引くと大きなため息を吐く。
これはもういっそ、立派な淑女にするくらいの気概で教育に挑むべきなのかと悩みながら、優斗は今は亡きヴィスの父親に向けて、恨みがましく呪詛を吐く。
実はあのスタイルでクシャーナより年下とかないよな、と言う恐ろしい考えが思い浮かんでいた優斗は、もうそろそろかなと再度ヴィスに呼びかけると、今度は着替え終わった旨を聞き、安心して扉を開ける。
「夕食買ってきたよ、って、それ」
「ん?」
優斗は首を傾げるヴィスに視線を固定しながら、備え付けの机に夕食を置いて行く。
ヴィスが着ているのは、甚平と言う名の和服だ。
染め柄が公国風なので似非甚平と言いたくなる様な胡散臭さはあるが、優斗はその姿を、なんとなく良い、と感じていた。
「似合うよ」
「そう?」
褒められたと認識していないのか、ヴィスはどうでも良さそうな反応で椅子に腰かける。
何故甚平を選んだのだろうと考えた優斗だが、すぐに心当たりを思い付く。
優斗は最近、甚平を寝間着代わりにしている。もちろん野宿では普段着のままだが、宿に泊まる際は、寝る前に極力着替える様にしていた。そして、ヴィスに渡した服の入った袋は、一番上にアニーが試着した浴衣、次に女性サイズの甚平が入っていたはずだ。
初見で浴衣を着るのは難しい。しかし甚平なら浴衣ほど難解ではなく、何より優斗が着ている姿を見ているので、想像し易い。
「さて、食事にしようか」
「うん」
「わかってると思うけど」
「うっ……」
優斗は予告通り、ヴィスの食事方法にあれこれ指摘を入れて行く。
野宿の間はさほど厳しく言わなかった優斗だが、宿で食べる時にはそうはいかない。あまり零されては掃除が大変で、何より外食する度に恥ずかしい思いをするのは優斗の方なのだ。
お淑やかに、は高望みでも、せめて普通に、落ち着いて食事が出来る様に、正確には優斗が心穏やかに食事が出来る程度にはなって欲しいと切実に思っていた。
「上手くできたら、今日は字の勉強は止めようかな」
「!?」
ヴィスが何かを決意した目で、軽く息を吸い込んで、吐き出す。
とは言え、一朝一夕で作法が成る事はなく、食事風景は今までよりまし、程度のものであったが、ヴィスの努力をかい、そして何より旅の疲れを癒す為に、優斗は早々に寝床に入る事を決める。
「おやすみ」
「おやすみ」
2人は食事を終えた後に特に何もしていなかった為、月明かりで過ごしていた。
眠るにあたってそれを遮る為、ヴィスが木窓を閉めると、部屋が暗闇に包まれる。優斗の何倍も夜目が利くと言う理由で行われた役割分担を終えたヴィスは、少し迷ってからベッドへと潜り込む。
「って、何でこっちに?」
「お父さんが喜んだから」
優斗はそれを聞いた瞬間、何のこっちゃ、と思った。
しかしすぐに、ヴィスの質問に対する返答として、一例を上げた時の事を思い出す。
その間に、ヴィスは優斗に身を寄せていく。
「いや、それはどうよ?」
「嬉しそうに頭を撫でてくれた」
それは頭を撫でろと言う催促なのかと言う疑問が浮かぶよりも早く、優斗は反射的にヴィスの頭を撫でていた。
くすぐったそうにそれを受け入れるヴィスの姿に、優斗の中である種の煩悩が膨れ上がる。
そこには、合意さえあればこのまま押し倒しても問題無いんじゃないかな、と言うモノも含まれていた。
優斗がフレイに手を出さずに堪えていた時、それをしなかった理由の中で最もネックだったのは逆らう事の出来ない状況、すなわち奴隷であったことだ。それ以外の女性にも誘われた記憶はあるが、同じ理由か、もしくは吊り橋効果的な状態で、熱に浮かされて冷静な判断が出来ない子供ばかりだった、と優斗は記憶している。真実はどうであれ、少なくとも優斗はそう思っていた。
そしてヴィスの正確な年齢は不明だが、見た目からは十代の半ばから後半と予想される。16歳のフレイが対象内であれば、ヴィスもまた対象内と言っても、ほぼ問題ないだろう。
それらの理由から、ヴィスは優斗がこちらに来てから初めての、彼の倫理観に抵触しない同衾相手であると言える。
「あー、えと」
それなりにふくよかな胸を持ち、しかしそれ以外は狩人らしく引き締まった身体。
何度か抱き着かれた際の感触を思い出した優斗は、胸意外も十分柔らかくて気持ちが良かったと思い浮かび衝動的に手を伸ばしかけるが、自重する。
雄の本能に身を委ねつつある優斗だが、それでも超えてはならない一線と言うモノは弁えている。優斗はそのハードルを越えるべく、暗闇に慣れてきた目で隣に眠るヴィスの方を見つめる。
「ヴィス」
優斗が睦言の様に優しくヴィスに囁きかける。
今の優斗は、彼女を愛しているのか、とか、貞潔が、などと言う事柄について、考えてもいなかった。幼馴染と過ごしていた頃や、フレイと共にあった時期ならばそれらが頭を掠めたかもしれないが、今の優斗にはそう言った枷も存在しない。
「ねぇ、ヴィス」
すぅすぅ。
再度囁きかけた優斗への返答は、静かな寝息だった。
それ対する優斗の反応は、キョトン、と言う擬音語が聞こえてきそうな程のものだった。
優斗には最後の一線として、事に及ぶなら同意の上でと言う思いがある。その為、彼の思考はヴィスから同意を取る方向にばかり向かってしまい、重要な事を失念していた。それは、ヴィス自身が言った、お父さんは、という言葉の意味だ。
それにヴィスの羞恥心が薄い事や、男女の機微に疎い、と言うかむしろ異性関係に無頓着である様にすら見える事を合わせて考えれば、ヴィスの行為がそう言った意味を持たない事は明白だ。
「おと、さん……」
「なんかなぁ」
無防備な寝顔を見つめていた優斗は、いつの間にか頭にのぼっていた血が冷えている事に気付く。
ヴィスが寝返りを打ち、その拍子に腕を巻き取られた優斗は、押し付けられる感触にどきりとしながらも、その無防備さ故に何も出来なかった。
触れる事は簡単だ。しかし、触れてしまえば元に戻らないモノが確実に存在する。少なくとも、優斗は寝込みを襲って知らぬ顔を出来るほど、厚顔無恥ではない。
「……寝るか」
自分に言い聞かせる言葉と共に、優斗から思わず苦笑が零れ落ちる。
無防備さが信頼の証なら、そこに付け込めば同意を得る事は可能かもしれない。そうすれば優斗は、己の忌避する一線を越える事なく、行為に及ぶ事が出来る。
しかし優斗は、しばらくの間そうしないでおこうかな、と考えていた。それが全幅の信頼に応える、唯一の方法だと、なんとなく気づいてしまったからだ。
「おやすみ、ヴィス」
空いている手で髪を一掬いした優斗は、少しだけ弄び、感触を楽しんでからそれに唇をちょんとあてる。
彼女の心がもう少し成長するまでは、甘んじて保護者役を引き受けよう。
そんな風に考える優斗がヴィスに向ける視線に既に色事の気配は無く、ただ優しさだけを湛えた微笑みを浮かべ、慈しむ様に見つめ、髪を撫でる。
欲望と本能が父性と理性に敗北した夜。それは、優斗の負った心の傷が少しだけ癒された夜でもあった。
翌日、遅めに起きた優斗は、完全に明るくなってからヴィスと共に宿を出た。
買い物や自分の用事もあるだろうと考えた優斗が、着いて来なくても良い、と告げたところ、ヴィスから、私は護衛、と言う言葉が返ってきた為、優斗は仕方なくヴィス同伴で貴族街へとやって来た。
目的は当然、クシャーナとの面会だ。
「すいません、クシャーナ・ユーシア様が滞在する館はこちらでよろしかったでしょうか?」
「あん? 何だ、貴様」
「これを」
似たような対応をされた経験のある優斗は、予め準備しておいた封筒を差し出す。
その後の対応も前回と大差無く、迎えとして出て来た侍女に連れられて応接間に通されると、しばらくお待ちくださいとお茶と茶菓子が出される。
しばらく待たされ、優斗に促されたヴィスが、作法を守らなければ、零さない様に食べなければと言う緊張の中でぎこちなくお茶菓子を食べていると、扉が開かれる。
「お待たせしました」
「あ、っと、うん。いや、そんなに待ってない」
「私はこの方とお話があります。下がっていて下さい」
「畏まりました。では、1時間後に」
「はい」
ついてきた侍女が扉を閉めると、部屋の中には真面目な顔をしたクシャーナが残される。
クシャーナの余所余所しい雰囲気に、優斗は言葉をかける事を躊躇してしまう。
その間にもゴシック・ロリータの上等な服を身に纏ったクシャーナが、静々と優斗に向かって歩いて来る。その姿に、出会いがしらに飛びつかれる事を覚悟して立ち上がっていた優斗は、拍子抜けしてしまうと同時に、対応に困ってしまう。
優斗は目の前にまで来たクシャーナを見下ろしながら、反応を待つ。
「久しぶり、お兄ちゃん」
「あぁ、ひさしぶり、クーナ」
「会いたかった!」
近距離から不意打ち気味に抱き着かれ、優斗はバランスを崩してしまう。
それでも何とか踏みとどまると、安堵と共に浮かび上がってくる笑みを携えながら、クシャーナの頭を撫でる。
「えへへ」
「元気だった?」
「うん!」
優斗は抱きついて来るクシャーナの肩を押し、少しだけ距離を取る。
クシャーナは当然、不満そうな顔をするが、目が合うと少し照れ臭そうに微笑む。
そこでようやく、ヴィスを放置したままだと気づいた優斗は、彼女を紹介する為に、まずソファーに座る事を提案する。クシャーナがそれに頷き、優斗の隣に座ろうと腕を取る。
「……あれ?」
「あぁ、うん。何というか」
そこに居る人物を見て、クシャーナが首を傾げる。
優斗はあえて自分からそれに触れる事はせず、ひとまずクシャーナをヴィスの正面に座らせると、自分はヴィスの隣へと腰かける。
その行為にクシャーナが少しだけ機嫌を損ね、目を細める。
「お兄ちゃん、その人は?」
「ヴィス」
優斗の説明より早く発せられたヴィスの自己紹介は、彼女らしい、端的なものだった。
それに対してクシャーナは、ヴィスを見据え、しばらくの間じっとその姿を観察すると、優斗に寂しげな、そして何処か責める様な色を帯びた視線を向ける。
優斗はクシャーナの視線を、何故フレイが居ないのか、と責めるものだと誤解した。そして早くも別の女性を連れている事に、思春期の少女特有の潔癖な部分が拒否反応を起こしているのだろうと考え、更に昨夜、ヴィスに対して抱いた様々な感情を思い出してしまい、焦りながらも言い訳をすべく、口を開く。
「お兄ちゃん、この女の人……」
「いや、あのな、クーナ。ヴィスは俺が雇ってるだけで、そう言う関係じゃ――」
「何でこんなに胸がおっきな人なんですか!?」
「ない、って、は?」
クシャーナの予想外な指摘に、優斗は口を開けたまま固まる。
そんな優斗に、クシャーナは構わず思いのたけをぶちまけ始める。
「フレイさんくらいなら、まだちっちゃな私でも対抗出来たのに。やっぱり男の人は大きい方が良いんですね。
あぁ、どうしよう。こんなちっちゃな胸じゃお兄ちゃんの心は繋ぎ止められないんですね。もし、あそこまで大きくならなかったら」
何を心配しとるんだ、とか、ああ見えてフレイはそれなりにあったぞ、などと言うつっこみが大量に浮かんだ優斗だが、それを手に取った杯を傾ける事でお茶と共に飲み込む。
お茶を口にした事で落ち着いた優斗は、胸元を触りながら不安げな表情を浮かべるクシャーナにどう言葉をかけるべきか、迷いながら解を探す。
「あー、クーナ」
「なんですか?」
「まだ5年ある」
「そうですよね! 私にはまだ成長の余地が」
ヴィスにもある可能性はあるけど、という言葉が思い浮かぶがもちろん口にはせず、一先ずご機嫌を取れた、と優斗は安堵する。
そして自己紹介を終えてからまた茶菓子を頬張る事に従事しているヴィスを横目で見ると、しばらく放置しても大丈夫だろうと考え、優斗は当たり障りのない話題を口にする。
「そんな事より、領主になって、どう?」
「そんな事、って言うのは酷くないですか、お兄ちゃん」
「ごめんごめん。で、どうなの?」
「むぅ」
剥れるクシャーナに冷や汗をかきながら、優斗は笑顔を絶やさぬ様、取り繕う。
しばらく優斗を睨んでいたクシャーナだが、今の自分が見せている表情がどんなものか気づくと、可愛くない顔を優斗に見せてはいられないと慌てて笑みを取り繕い、話題転換に乗った。
「あんまり仕事してないけど、皆が助けてくれるから大丈夫だよ」
「そっか。騎士団の皆は元気?」
「うん。トーラスはついて来てるから、後で会う?」
「もちろん」
「じゃあ、後で伝えて置くから、どこに泊まってるのか教えて」
「わかった」
優斗が返答した直後、クシャーナの笑みに一瞬だけ、にやり、と表現されるものが混ざった事に、優斗は気付かなかった。
そのまま雑談に移行し始めた会話は、優斗の隣で茶菓子を口にし続けているヴィスが混ざる事なく続いていく。
ヴィスがそうしているのは、別に彼女の食い意地が張っているからではない。彼女の食に対する姿勢がそういったものでない訳ではないが、今回に関しては優斗からそう、指示、されたからだ。
「ユーシアはどう?」
「元々、領主が騎士と言う国ですから」
「あぁ、そう言えばそんな事言ってたっけ」
ユーシアは大きな手柄を立てた騎士が領土を賜り、領主となったと言う歴史がある。
この場合、賜った直後の領主に政治能力などあるはずもなく、政治向きの事をする別の人間が雇われる事が多い。その結果、統治に関して領主の存在を重きに置かない政治形態が発生する。ユーシアで言えば、領主は最終承認を行うだけで、話し合いや決定は基本的に各部門で行われている。その最終決定権も、次期当主や親族が代理人となる場合もあり、現在のクシャーナもそれに当たる。
それ以外にも、大地主が領主に任命されると言う事もある。これは開墾・開拓が盛んにおこなわれていた時期によく見られたもので、そう言った地主のほとんどが大規模な商会の主であった為、政治形態もそれに準ずる事が多い。
「今はアロウズさんが?」
「それと、ルエインお兄様です」
「あー、あの人かぁ」
ルエイン相手にあまり良い印象の無い優斗は、思わず顔を顰める。
典型的な貴族、とも言える下を見下す態度は嫌いだが、同時に利用して逃げたと言う負い目がある。
その一件が王国の開戦で有耶無耶になったとは言え、裏切ろうとした事は事実であり、しかし相手が自分をどう思っているのか判らず、優斗の中では総じて、苦手意識として認識されている。
「そう言えば、あれ以来王国の方はどうなの?」
「休戦の申し込みがあった、と聞いてます」
公国はそれを受け入れると聞き、優斗は三国の関係を思い浮べる。
公国は、帝国と同盟し、王国と休戦。帝国と王国がまだ戦争状態。
そこから優斗は、ルナール公国が外交で優位な立場に立っているのでは、と言う疑問に思い当たり、その理由を考え始めるが、思い付く前に正面から向けられる視線に気付く。
話の途中に思考の海に落ちるのはマズいと、アニーの助言を思い出しながら優斗は意識をクシャーナに向ける為、次の話題を口にする。
「もうすぐ式典らしいね」
「はい。ようやく本当の意味で正式な領主になります」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
ユーシアの地を守りたいと告げた少女が、実際にそれを認められる。
それを感慨深く思いながら、優斗は自然に、自分も出来るだけ手伝ってやりたいと思っていた。そしてその為に何が出来るか、真剣に考える。
そんな優斗の思考を辿るように、クシャーナが問う。
「ところで、お兄ちゃんはこれからどうするんですか? 私と一緒にユーシアに戻る、とか」
「いや、ちょっと約束があって」
「……女の人ですか?」
「いや、商談」
優斗はそう答えてから、商談相手が女の子であった事を思い出す。
しかし、クシャーナの言葉が示す、女の人、が自分にとって恋愛対象に入る年齢層を差すものだと考え、何よりあえて訂正する必要は無いと判断し、口にはしない。
優斗はクシャーナが自分に対して、親近感と一定以上の好意を寄せている事に、当然気づいている。しかし、フレイがいない今であっても、それに応えるつもりはなかった。
その理由、と言うか特に問題なのは年齢差だが、それと同じくらい、その好意があの事件による一時的な熱を発端とするものだと感じているからだ。そして何より、クシャーナは優斗にとって、年齢的にも、それ以外の理由でも恋愛対象として見辛い相手であり、そう言った感情をまったく持っていない。
「じゃあ、その後は?」
「そうだね。その後、ユーシアに行く事になるかな」
優斗の言葉に、クシャーナが顔を綻ばせる。
無邪気に喜んだクシャーナだが、すぐに優斗の旅に同行者が居る事を思い出す。
同行者は女性で、しかも前と違って奴隷ではない。そんな相手をあえて連れている事に、別の理由を勘ぐるなと言う方が難しい。
「商談はどこで行われるんですか?」
「王国の首都、かな」
「えぇ、危ないですよ!?」
「その辺はちゃんと考えてるから大丈夫」
「そうですか」
「そうそう」
「そうですよね。王国で商談と言う事は、あちらの許可証も持っているって事ですし。
と言う事は、お兄ちゃん、王国でも行商してた事があるんですか?」
クシャーナの指摘を受け、優斗は続く疑問に即座に答える余裕も無く、あ、と声を上げてしまう。
王国で商売をするには、当然、王国の商取引許可証が必要になる。サリスでの商談に関しては、優斗は引き受ける際に代理人であり、船便特有の理由で問題無いと説明を受けていたので今まで失念していたが、陸路で向かい、途中の街で商売をしつつ首都に向かうのであれば、それが必要な事は、明白だ。
「いや、商談と言っても物のをやり取りする訳じゃないし」
「? そうなんですか」
優斗の独り言に、クシャーナが返答する。
しかし、商談自体に問題が無くとも、影響はある。
例えば、商談を終えて公国に戻るまでの間、まともに商売が出来ないのであれば、移動費や早くに到着してしまった場合の滞在費がそのまま手持ちから引かれ続け、無視できない程の出費となる。
「あー、ちょっとこれからの計画、見直さないとダメかも」
自分の浅はかさを反省しながら、優斗は候補2のルートを思い浮べる。
カクスに戻り、海路でサリスへと向かう。そしてそこから首都には向かわず、港でシャオジーの乗る船を待ち伏せる。会いたくない相手が何人か居るのは問題だが、費用が無駄にかかる事も、優斗にとっては問題だ。
船代と言うのはそれなりに高価な事もあり、どちらの方が出費が少ないか、すぐには計算できなかった優斗は、後でゆっくり考えようと、思考を中断する。
「むぅ。お兄ちゃん!」
「あ、ごめん」
「むむぅ。あ、そうだ」
むくれて頬を膨らませていたクシャーナが、何かを思い出してぱっと笑顔を浮かべる。
その表情のままクシャーナは小さな布袋を取り出すと、それを優斗に見せつける様に掌へ置く。そして訝しげな表情の優斗の目の前で、布袋からソレを取り出すと、優斗の方へと差し出す。
布袋から出て来た黒く、四角い塊を見た優斗は驚愕し、煩い程に鼓動を刻む心臓に呼応する様に、手が震える。
「そ、れ、は?」
「お母様の形見です」
寒くも無いのに全身が震えはじめた優斗は、歯をカチカチと鳴らしながらそれに手を伸ばす。
そして許可を取る事すら忘れ、優斗はゆっくりと手を伸ばし、それを手に取る。クシャーナはそんな余裕のない優斗の予想以上の反応に、半分は驚きながらも内心でほくそ笑む。
クシャーナが取り出した物。それは、優斗にとってなじみの深い物であり、見覚えのある物でもあった。
優斗は震える手で左手の上に置いてソレに右手の人差し指を向け、触れる。
「携帯、電話……」
「けーたいでんわ、が正しい名前なんですか?」
「あぁ。うん。そう」
「私はお姉さまから、ケータイ、とだけ聞いていました」
優斗は生返事しか返せなかったが、それでもクシャーナは上機嫌に頬を緩ませる。
優斗は先程触れた指を携帯電話――正確にはその電源ボタン――から離すが、当然ながら電源が付く事はない。何度か試すもやはりつく気配はなく、予想通りの反応に、優斗は手の中で携帯電話をひっくり返す。
拳を2、3度握り直して震えを止めた優斗は、ところどころ塗装が剥げている裏側のカヴァーを取り外すべく、手のひらを乗せる。しばらく力を込めていると、かなりの長期間が経過しているのか、記憶よりも開きにくいフタが、パキッ、と言う音と共に外れる。
「あ」
クシャーナの声に応える事なく、優斗は目を瞑る。
そして大きく深呼吸をすると、ゆっくりと目を開き、携帯電話に乗せた掌を見つめる。
「壊した、訳じゃないですよね?」
やはり返事をしない、と言うか出来ないほど集中しながら、優斗はゆっくりとカヴァーを退ける。
そこには角の丸い長方形のシールが張られていた。元々はプリクラと呼ばれる物だった写真シールは、既に印刷面が劣化し、真っ白だ。
優斗はこの機種の携帯電話を持ち、なおかつここに恋人とのツーショット写真を張っていた人間を、1人知っている。しかし、同じ様にこの機種の携帯電話を持ち、電池パックに写真シールを張っている者は、多くは無いが少なくもない。
「っは、ぁ」
優斗は呼吸すら忘れていた事に気付き、息を吐き出しながらも震えそうになる歯を噛みしめる。
そして本体とは逆の手で握っているカヴァーを、恐る恐る裏返す。
そこには優斗の記憶通り、相合傘が彫られていた。傘の左手にはゆうと、右手にはゆみの文字がかかれている。
それを凝視する優斗の双眸から、本人が気付かないほど自然に涙が零れ落ちる。
そして流れる涙と共に、確信する。
己の手の中にある物が、死に別れたはずの幼馴染にして恋人でもあった由美の携帯電話であると言う事を。
喪ったはずの大切な人、その欠片を見つける話でした。
ソレが意味するものはいったい何なのか、優斗くんは存分に悩む事になります。