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異世界行商譚  作者: あさ
識る為の旅路
70/90

森ガール

 ようやく本来の目的地へと進み始めた旅路に、優斗はこれからの予定を指折り数えはじめる。


 式典まで、約2週間。

 バイスからルナールまでが三日ほどの道程である事から、順調に行けば約10日前に到着する計算だ。それがどう言った意味を持つタイミングなのか判らない優斗は、尋ねる予定のクシャーナが既に式典準備で忙しい可能性と、まだルナールにすら到着していない可能性を顧慮して、3パターンの予定を準備していた。


 1つ目は、すんなりクシャーナと面会し、ルナールに適度に滞在した後に王国へと向かうパターン。


 2つ目はまだ到着していない場合で、クシャーナを待ちつつルナールを観光、もしくは商売の種を探して時間を潰し、面会後は1つ目と同じ。


 3つ目は会えない場合のパターンで、その場合は手紙を出して滞在を知らせ、返事次第で行動を決める。


 どのパターンでも基本的に式典前にルナールを発ちたいと考えながら、優斗は荷馬車を停める。


「今日はこの辺で野宿にしよう」

 荷台に向けてそう告げると、優斗は荷馬車を降りて馬を手近な木へと繋ぐ。


 そして荷馬車の後ろ側に回り込むと、ホロが開くのを待ち、差し出される鞄を受け取る。


 ヴィスが御者台に居た午前中に役割分担は決めてあったので、2人は言葉を交わす事なく、お互いの割り振りを熟す為に行動を開始する。

 優斗が食事の準備、ヴィスは枝拾いと水汲みと言う、優斗にとってフレイが居た時とは逆の割り振りは、珍しくヴィスの提案により決定された。


 その役割分担に、当初、力仕事は男の自分がすべきだと考えた優斗だが、素早く、目の良いヴィスの方が枝を集める効率が確実に良い事に気付き、最終的には了承した。そもそも単純な腕力でも優斗が勝っているのか怪しいのだが、優斗はそれに気づいていない。


「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

 簡単な食事を終えるとしばらく雑談をして時間を潰し、適当なタイミングで眠る予定だ。


 雑談と言っても、ほとんど優斗が問い、それにヴィスが答えると言ったモノであり、話題豊富と言う訳ではない優斗の質問する内容は自然、彼女の事が中心となり、気づけば優斗は昨夜から気になって居たギフトに関する質問ばかりをぶつけていた。ヴィスは彼が眠るまで、それに嫌な顔をする事なく付き合った。


「おはよ。これ、何の匂い?」

 妙な匂いで目が覚めた優斗は、そう問いかけながら身を起し、ヴィスに視線を向ける。


 ヴィスは手を炙る様に火の前に座っている。

 そんな彼女からも同じ様な匂いがしている事に気付き、優斗は僅かに顔を顰める。


「血抜き」

「血抜きか。って、血抜き!?」

 頷いたヴィスの視線に釣られ、優斗はまだ暗い森へと視線を向ける。


 まず低めの位置にある枝にノルらしい影を見つけ、続けてその足元にロープが括られている事に気付く。それを辿って視線を落とすと、そこには吊るされた何かの塊が見える。


「兎がかかった」

「……そう言えば、罠が得意とか言ってたか」

 頷くヴィスはどこか誇らしげで、それを褒めるべきだと優斗の起き抜けの頭が訴える。


 しかし、実際に動物を狩り、殺して吊り下げていると言う光景を目の当たりにした優斗には、それを行う精神的余裕は無い。

 こちらに来てから、そう言ったシーンを見た事が無い訳ではない。だから露骨に嫌悪感を抱く程では無いが、そこまで慣れいる訳でもない。


「えーっと、焼くの?」

「その前に内蔵を出す」

 優斗はその光景を想像してしまい、寝起きである事も相まって食欲が引いていく。


 既にほぼ眠気の吹き飛んだ優斗は、日が昇ったらすぐに出発出来る様にと荷物の撤収を開始する為、立ち上がる。

 ヴィスがそれに釣られて立ち上がり、近づいて来る。上から下まで覆う外套の、先ほど手を出していた合わせ目から中身がちらりと見えた優斗は、ケープに付いた返り血に気付き、頭を掻き毟る。


「その恰好で捌いたの?」

「まだ捌いてない」

「じゃあ、血抜きか」

「外套は脱いだ」

 きっと邪魔だったからなんだろうなと思いながら、優斗はため息を吐く。


 ケープしか見えなかったが、もし服まで血で汚れる様な作業をするのであれば、服装について再考しなければならないと優斗は考えた。貰い物の服ではあるが、ヴィスの服は絹製で、暴落していてもそこそこ値の張る品である事には変わりがない。何よりその暴落も、永遠に続く訳ではない。


 作業着替わりの服を準備するか、もしくは移動中に着る為の安い服を買うか。

 そんな風に考えながら、優斗は荷物を荷馬車へと放り込んで行く。煮沸して布をかけて置いた鍋から皮袋へ水を移した頃には日は登り始めており、優斗はもう少し明るくなったら出発しようと、朝食のパンを取り出す。


「ヴィス、眠かったら荷馬車で寝てていいよ」

「うん。おやすみ」

 ヴィスが荷馬車に戻るのを見つめながら、優斗は食事を開始する。相変わらずの上り方だが、外套を着ているおかげで目のやり場に困る事はない。


 何時もより少量の朝食を終えた優斗は、軽くストレッチをしてから御者台に登ると、今日もまたルナールに向けて荷馬車を走らせる。


 昼まで荷馬車を走らせ、起き出して来たヴィスと昼食を摂ると午後も同じ様に進んでいく。

 そして日が沈む前に野宿の準備を整える。夕食には今朝ヴィスが取った兎の肉が出された。昼に調理しなかったのは、優斗が調理法を思い付かなかった事と、それを起き抜けのヴィスに頼んで良い物か、と考えたからだ。


 食事を終えると、ヴィスは森へ入って行き、優斗は森とは逆方向にある川べりで食器を洗う。


 また罠でも作っているのだろうかと考えながら、優斗は洗い物を終えて冷え切った手をたき火で炙る。適度に温まった頃にヴィスが戻り、優斗はそれを切っ掛けに夜番の準備を始める。


 優斗が今日の夜番を買って出たのは、これから旅をするにあたって、どう言った生活パターンが最良かを試す為だ。

 フレイと違い、ヴィスは御者台で手綱を引く事が出来る。ならば、ヴィスばかりに夜型の生活を押し付ける必要性は無く、優斗がずっと御者台に座り続ける必要もない。


「ノル」

「呼べば来るけど、何時でも近くに居るの?」

「いる時だけ呼ぶ」

 ノルが現れ、優斗の隣に着地する。


 ヴィスはそれ以上何も言わず、優斗の隣で眠る体勢になる。ノルの方も眠っているのか、その場からまったく動く気配が感じられない。

 間に挟まれた形になる優斗は、両側の存在をなるべく気にしない様にしながら、静かに火の番を続ける。


 ヴィスの寝息が聞こえ始めた頃、優斗は手持無沙汰になり始め、その寝顔を観察し始める。

 眼が閉じられているせいで何時も感じるきつめの印象が消え去り、全体的に可愛げな雰囲気が漂っている。そんな感想を抱きながらしばらく見つめていた優斗だが、さすがにずっと見つめているのはどうだろうと考え、今度は逆方向に視線を向ける。


「ノル」

 優斗が呼びかけると、顔に似合わぬ可愛い鳴き声が返って来る。


 そのギャップが飼い主こと彼の友達であるヴィスと似ていると感じた優斗は、ノルに対して感じていた恐怖が、少し和らいだ気がした。

 そして、常にヴィスを見守っているのだろうかと考えれば、親近感すら湧いてくる。


「これから、よろしくな」

 ノルが再度、高い声で鳴く。


 優斗はそこでようやく、ヴィスがノルを呼んだのは夜番の自分が退屈しない様にと言う配慮なのではないか、と言う事に気付く。

 それが真実であると半ば確信した優斗は、ヴィスの寝顔を再度見つめながら、今度何かお礼をしようと心に決める。もちろん、付き合ってくれているノルにも。


 そして同時に、ヴィスも同じ様にノルと過ごして退屈な時間を紛らわせていたのかと考えれば、その光景を想像して、自然と笑みが零れる。


「ん」

 うめき声に反応し、視線を向ける優斗。


 そこにはヴィスの無防備な寝姿がある。

 これもある意味無防備すぎる状態なのだが、今の優斗がそれを見て感じるのは、微笑ましさのみだった。



 夜が明けると、起き出したヴィスが完全に目を覚ますのを待ちながら荷物を片づけた優斗は、全ての作業を終えると荷馬車の隅で寝に入る。


 ヴィスの方は、昨日の優斗と同じ様に朝食を済ませると、顔を洗ってから仕掛けて置いた罠を回収してから御者台へとよじ登る。


 午前中はヴィスが御者として荷馬車を駆り、昼食前には起きていた優斗の指示で、早めの昼食を摂る。午後は優斗が手綱を握り、夕方にはルナールに着く予定なのでヴィスは眠らず、御者台の隣に座っている。


「優斗」

「ん?」

「私は、役に立つ?」

「もちろん」

 前を向いたまま返答する優斗からは、ヴィスの表情を伺う事は出来ない。


 しかし不安そうな声色は感じ取れた為、優斗は具体的なフォローを行うべく、前への集中を疎かにしない程度に頭を働かせる。


「昨日の兎も、今日のアレもおいしかったし」

「今日は何もかからなかった」

 昼食に出された、食べられる事以外名前すら不明な果実を思い出しながら、優斗は苦笑する。


 悔しそうにしながらも、少しだけ声がいつも通りに近づいたヴィスに安堵した優斗が、次なる言葉を考えていると、それよりも先にヴィスが問いかける。


「何をすれば、嬉しい?」

「そりゃまた、難しい質問だなぁ」

「難しい?」

「難しくない?」

 優斗はそう問い返しながら、ヴィスの言葉選びにひっかかっていた。


 何をすればいいか、と、何をすれば嬉しいのか、では、かなり違う。

 そこに深い意味があるのではと思考し始めた優斗だが、すぐに真意と言うほどのものは無いのではないか、と考え直す。言葉が端的なので気づきにくいが、ヴィスの言葉選びは、常にどこか子供っぽい。


 それに気づいて深く考える事を止めた優斗だが、質問に対する答えが難しいと言った事は事実で、何と返答すべきか悩んでしまう。

 しばらく悩んだ末、優斗が思い付いた内容は、嬉しい、と言うよりもありがたい、もしくは助かると言う印象のものばかりだった。その結果を受け、優斗は自分で自分が、嬉しい、行為を考える事をはやはり難しいと考え、それを放棄する。


「ヴィスならどうされたら嬉しい?」

「褒められたら、嬉しい」

「そっかそっか」

 今度から、良い事をしたり、大きな仕事をこなしたらきちんと褒めてあげようと考えていた優斗は、隣のヴィスが御者台で立ち上がる気配を感じた。


 抜群のバランス感覚で揺れる御者台に立つヴィスに、優斗は、荷台に戻るのだろうか、と考えながらも視線を前に固定していると、頭の上に手が乗せられ、その手が優しく優斗を撫でる。


「いいこ、いいこ」

「……それはちょっと、何というか」

「ダメ?」

「ダメじゃないけど、ちょっと遠慮して欲しいかな」

 特に人前では、と思いながらも、優斗はくすぐったさと同時に、少しだけ気持ちよさを感じていた。


 褒める時は頭を撫でる、と先ほど考えていた事に付け足すと、優斗はせめて基準くらいは与えないと、また恥ずかしい事をされそうだと考え、思い付いた事を反射的に口にしてしまう。


「お父さんが喜んだ事を思い出してみたらどう?」

「……わかった」

 俯いて何かを考え始めるヴィス。優斗はその姿に、どんな結果でも褒めて頭を撫でてやろうと考えながら、手綱を引く。


 しかし優斗は、後にその迂闊な発言を反省する事になる。



 今日は天気が良く、休憩を挟む頃には遠くにルナールの街が見え始めていた。


 優斗は今回の道程で最後となる休憩の時間を利用して、ヴィスの髪を整えていた。

 ヴィスが髪を切って以来、解けた髪を結び直す以外の手入れをしていない事に気付いた優斗は、くたびれた髪に櫛を通しながらの問いにより、ヴィスが身体を拭いたり、水浴びをしたりもしていないと言う事実を知る事になる。


「お願いだから毎日、とは言わないけど、せめて2、3日に一回は身体拭くか、水浴びして」

「……うん」

 納得していない様に見えるヴィスに、優斗は水嫌いな猫を重ねて見ていた。


 優斗もあまり頓着する方では無いが、さすがに街に入る前か、遅くとも商談に向かう前には身を清める。さすがに人と会うのに小汚い恰好ではいられない。

 しかしヴィスの方は、大きく汚したら服ごと川で洗えばいい、と言うレベルの認識だ。また汚すのだから、一々洗うのは面倒、と考えている可能性すら否定できない。連れ歩くのだから多少なりとも見栄えよく、出来ればお洒落な格好もそれなりにして欲しいと言う優斗の思いをヴィスが自主的に汲める様になるのは、まだ遠い先の事になるだろう。


「髪とか服とかはこっちでも何とか出来るけど、あっちはヴィスがしないとどうにもならないしなぁ」

 優斗はぼやきながらも、軽く絞った布で髪を拭き、何度も櫛を通して行く。


 街に入ったらまず宿を探し、身綺麗にさせようと決意した優斗は、今すぐ綺麗に、と言いたいところをぐっと我慢する。

 ルナールに近づくにつれ、荷馬車や徒歩の旅人の数も増えており、さすがにそんな中、荷馬車の中とは言え服を脱ぐ指示を出すのは躊躇われた。


「そう言えば、税の支払いって普通どうするんだろ」

 あちこち汚れ、良くも悪くも身体に馴染んできた服の、染みが出来ている部分に布を当てているヴィスの姿を見つめながら、優斗は空を見上げる。


 優斗が言った税とは、ヴィスの人頭税の事だ。

 荷馬車で通過するので支払いは一括であり、優斗は当然、自分が持つ物だと考えていた。それにも関わらず口にした理由は、もうすぐクシャーナに会う事になるかもしれないと考え、同時にトーラスの事を思い出したからだ。


 さる村から便乗して来た少年で、現在はユーシア騎士団の従騎士見習いであるトーラスは、自分の人頭税は自分で払うと言っていた。

 その時は色々とあり人頭税を支払う事なく市壁を通過してしまったが、今考えてみれば、別々に支払いを行う為には、ユーシアの手前で別れて徒歩で街に入る必要がある。そうした場合、税は合計で安くなるのか、高くなるのかと言う疑問が沸いた優斗だが、間違いなく前者はないのだろうなと考えた事で、気づく。


 例えば、ヴィスの分の税を徒歩通過した時とおなじだけ請求するとして、荷馬車で2人が通過する方が、荷馬車で1人と、歩きで1人通過するより安いのであれば、その差額を得とする事が出来る。

 優斗はそんな事をする気は無いが、弟子や便乗者等を相手にそのような事をしている行商人はいるのだろうな、と考えながら、荷馬車へと近づく。


「ヴィス」

 優斗の呼びかけに応え、ヴィスが寄って来る。


 ヴィスを丁重に御者台に上げながら、優斗は、こんな場所であんな上り方をされたら大変だ、と考えながら、自分も御者台に上がる。

 普段であれば旅路では外套を着ているのだが、今は服の汚れを取る為に脱いでいる。上る前に着せれば良いのだが、街も目の前にあり、気温も温かいので着る必要は無いと判断したヴィスの手により、外套は荷台に放り込まれている。


「市壁のある街に入った事は無い、のかぁ」

 頷いているヴィスは、住む村どころか、森からもほとんど出ない程の、生粋の森ガールだったのだ。


 優斗が森ガールと言う言葉から連想するのは何かゆるいイメージだが、彼女がひとたび森に入れば、周到な罠を張って息を潜めて木陰に潜み、獲物を仕留める狩人となる。ノルと組めば、獲物を罠に誘い込む事すらやってのけるだろう。


 そんな彼女も、街の常識にはとんと疎い。

 優斗と共に市壁を抜ける際にも、列に並ぶと言う行為に、何故進まないのかと不思議そうな表情を浮かべたり、順番が来て支払いを行った際にも、お金を払ったのに商品を受け取っていない事に首を傾げる。街に入ってからは、あまりの人通りの多さに驚いているようだった。


 そんなヴィスに一々これはどう言った理由だと説明したり、ひさしぶりに見た大勢の人間に一緒に驚いてみたりしながら、優斗は自分がこの国の常識を教える側に回る日が来るなんて、と内心で苦笑していた。



 ルナールの街に入って、優斗がまず目指したのはキャリー商会だった。

 目的はクシャーナの所在確認と、宿の紹介をして貰う為だ。普段ならまず自分で探すのだが、どちらにしても頼み事をするのであればついでに、と言うのが優斗の判断だった。


「すいません、キャリー商会がどちらにあるか知りませんか?」

「キャリー商会キャリー商会。あぁ、知ってるよ。でも、正しい道順を思い出せるかは怪しいねぇ」

「これは失礼。実は女の子の連れが居るので、甘いのも幾つか欲しいと思っていたところでして」

「そうかい。そりゃあがんばって思い出さないとね」

 露店のパン屋で明日の朝食とこれからつまむ蜂蜜掛けのパンを購入した優斗は、荷馬車に戻るとキャリー商会への道順を説明し始める。


 街中では、細かい指示もきちんと従わせることが出来るヴィスが手綱を握り、優斗は向かう方向を指示する事になっている。

 露天商に説明された通りに移動し、キャリー商会の看板を見つけると、スペースのありそうな裏側へと周り込み、ヴィスに先ほどのパンと共に待機指示を与えると、優斗は荷馬車をから降りて誰かが現れるのを待つ。


「いらっしゃいませ。本日はどの様なご用件でしょうか?」

「キャリスさん、いらっしゃいますか?」

「キャリスでしたら、先ほど戻って参りましたが」

「では、優斗が来たとお伝え下さい。あと、荷馬車はあそこに停めてあっても平気ですか?」

「えっと、少々お待ちください」

 対応に出て来た女性店員が中に引っ込んだのを確認してから、優斗は振り返る。


 そこには早速、口の周りを蜂蜜でべとべとにしたヴィスの姿があった。それを予想していた優斗が、あえて何も言わずこのタイミングでそれを与えた事には理由がある。

 とは言え、それは別段特別なものではなく、無理だろうなと思いながらも、食に対する作法レベルが上がっていないかと言う確認と、単純にこの後は宿に戻るだけなので汚しても着替えれば良いと言うだけだ。


「ヴィス、邪魔だって言われたら、荷馬車の移動、お願い。

 その時はちゃんと、手綱握る前に手を拭く事」


 顎を引き、小さく頷くと同時にパンから蜂蜜が垂れ、ヴィスはそれを素早く手で受け止める。

 反射神経の無駄遣いだな、と思いながら、優斗は再度振り返り、女性店員の帰りを待つ。


 程なくして戻って来た女性店員の案内で通されたのは、商談用の応接間ではなく、どうやら執務室の様だった。


「おひさしぶりです、キャリスさん」

「ひさしぶりね」

 軽く挨拶を交わすと、優斗は勧められたソファーに座り、キャリスがその正面へと移動する。


 久しぶりに会ったキャリー商会の主は、相変わらずぎらついた目をしている様に見えた。

 そして優斗の切り出す要件を予期していたのだろう、すぐさま商会の封蝋の入った封筒と共に、地図を差し出す。


「紹介状、と言うか身分証明替わりに使って。こっちは領主様の滞在してる館への地図」

「ありがとうございます。ついでに、安くてサービスの良い宿も紹介してくれませんか?」

「サービス、ねぇ」

 ふーん、と言う声が聞こえてきそうなキャリスの表情に、優斗は自分が何かおかしな事を言っただろうかと会話を振り返る。


 そして、サービス、と言う単語は英語であり、元々この国には存在せず、近年入って来た言葉だと言う事を思い出す。

 しかし王国新語としてはポピュラーな方であり、公国内でも十分通じる程度には流通している。その証拠に、優斗は街の店員どころか、村娘でさえも使っているのを聞いた覚えがある。


 ならば一体、何がひっかかっているのだと考えた優斗だが、問う方が早いとキャリスを見つめ返すと、理由はあっさりと判明する。


「安くて綺麗、ならあてがあるわね。サービスが良い、になるとやっぱり少しは値が張るわよ?」

「では、綺麗で安全、それなりに安いところをお願いします」

「後で地図を渡しておいて」

 キャリスの指示に、お茶を準備していた女性が頷き、部屋を出る。


 2人きりになった事で緊張感を増した優斗は、対照的にソファーにぐったりと身を預けたキャリスを、訝しげな表情で見つめる。


 キャリスはその視線に、唇の端を押し上げながら、返答する。


「部下がいるところでだらけられないじゃない?」

「私はいいんですか?」

「これで油断してくれれば、これからユーシアとの交渉が楽になるから、良い事よ」

「いやぁ、それは無いかと」

 それは優斗にとって、現在の自分はユーシアの交渉役では無いと言う意思表示だった。


 しかしキャリスには、貴方相手に油断をする気は無いと解釈されてしまう。

 それを商人として、領主お抱えと同格以上と見られていると喜ぶべきか、女として魅力が無いと断じられたと考えるべきかとキャリスが考えている事など気づかず、優斗は次の用件を口にする。


「そう言えば、私が購入した奴隷を見かけませんでしたか?」

「ん? 見てないけれど、もしかして逃げられたのかしら?」

「そんなところです」

「ふぅん。捕まえるの?」

「いえ、奴隷身分から解放されていますので、むしろ捕まえないで下さいとお願いしようかと思って」

「へぇ。結局、そうなっちゃったんだ」

 優斗の顔に不躾な視線をぶつけながら、キャリスは楽しそうに笑う。


 嫌な視線に晒されながら、優斗が、もし見つけたら一報くらいは欲しいですけど、と告げると、キャリスは更に嬉しそうに、にやにやと笑う。


「青春って感じでいいわねぇ」

「キャリスさん、なんか前と会った時と違いすぎません?」

「だって、前会った時は仕事中だったし。でも今は休憩中」

「いやいや、ちゃんと仕事相手として見て下さいよ」

「見てるわよ?」

「だったら」

「ユーシアとは一蓮托生ですもの。だったら貴方は身内も同じでしょう?」


 キャリスの言葉に、そう言う考え方もあるのか、と言う感想を抱いた優斗だが、それが彼女の思惑通りだとは気付いていなかった。


 短い付き合いの中で、キャリスは優斗に対して賄賂を贈ったり、奴隷を宛がったりする事で信頼を得るのは難しいだろうと感じていた。その癖、頼られると応えてしまう上に、気を許した相手には甘い。

 そんな優斗に取り入る最も安上がりな方法として、自分は敵ではなく味方であり、そちらを全面的に信用しているとアピールすると言う方法をキャリスは実行していた。


「私はまだ、ユーシアに肩入れするか決めていませんので」

「自分の利益を優先するのは当然よ」

「まぁ、そうですよね」

 相変わらず少しだけすれ違った会話を交わしていると、扉を叩く音が聞こえる。


 キャリスが姿勢を正し、どうぞ、と告げると先ほどの女性が入って来る。そして優斗の横で立ち止まると、恭しい手つきで1枚の紙を差し出す。


「ありがとうございます」

「いえ」

「それではキャリスさん、私はこの辺で」

「その前に、折角だから奴隷を見ていったらどう?」

「遠慮しておきます」

「奴隷、解放しちゃったんでしょう?」

「旅の連れがいますので」

「もしかして、女の子?」

「えぇ、まぁ」

「手が早いわねぇ。さすが、若いと違うわぁ」


 その発言はおばさん臭いですよ、と思い浮かんだ優斗だが、実年齢からしておばさんの範囲に入る可能性があるキャリスに言えば、機嫌を損ねる可能性があると口を閉ざす。

 しかしキャリスはその気配を感じたのか、眉を潜めると優斗の目をじっと見つめている。それに耐えきれなくなった優斗は、そそくさと商会から退散する。


 外に出ると、ヴィスはキャリー商会の真横、日のあたらない場所に荷馬車を停めて待っていた。

 優斗は小走りで合流すると、その勢いで御者台に上がり、地図を広げる。


「ここに向かうから。まずは大通りに出て、って、ちょっと待って」

 手綱を握ろうとするヴィスを制し、優斗は準備してあった手拭きで蜂蜜のついた手と口元を拭う。


 しかし翌々見ると、手綱には既に蜂蜜がついており、仕方なくそちらも同じ手拭きで拭うと、ヴィスに手渡す。


「しばらく滞在する事になりそうだし、食事の作法とか、色々覚えて貰おうかな」

「うっ」

 暇を見つけて説明した昇給条件において、ヴィスは作法や読み書きの練習が苦手だと言う事を、優斗は知っていた。


 どうやら体で覚える物は得意で、頭を使う物は苦手なんだろうと考えていた優斗は、幼馴染の頼みで何度か家庭教師の真似事をした事のある、優秀でどこかズレた後輩を連想し、自然と笑みが零れる。見た目も性格も全然似ていないのだが、何処か似た雰囲気がある事を優斗は感じていた。


 優斗は手綱を握るヴィスに進行方向を指示し、宿へと向かう。

 そして今回もまた、ヴィスの無言の圧力に勝てず、2人部屋を取る事になるのだった。

公国首都・ルナールに到着する話でした。


優斗くんもようやくまともな旅が出来る環境が整い、一安心と言ったところでしょうか。


ちなみに副題は、良い物が思いつかなかったのでこうなりました。深い意味はありません。多分。きっと。

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