確認と把握
荷物をまとめ、森にある家は村で役立てて欲しいと村長に告げたヴィスは、優斗と共に翌朝早くに村を発った。
誰に見送られる事もなく去る故郷を見つめながら、ヴィスはもうそこに戻らない決意をしていた。
彼女は父親が自慢げに、そしてどこか寂しそうに教えてくれた騎士の心得と、誇張の入った過去語りが大好きだった。だからずっと、二君に仕える事を良しとせず国を出た、と言う父親の様に生涯仕える事が出来る唯一の相手が現れる事を、白馬の王子様を待ち望む少女の様に待ち焦がれていた。
憧れの騎士になれた訳では無いが、彼女にとってそれは大きな問題ではない。彼女にとって重要なのは肩書では無く、父親譲りの騎士道精神そのものだ。故に、必要なのは忠誠と、それを誓うに値する主人だけ。もちろんこれも、父親からの受け売りである。
「優斗」
「ん、何?」
とは言え、聞きかじりの騎士道精神は、優斗から見ても歪で不恰好なものだった。
例えば、心の中で生涯の主人と定めた優斗を何の躊躇もなく呼び捨てる。倒錯的な呼び名を期待していた訳ではないが、どうやってそれを回避しようかと考えていた優斗は、呼び捨てで構わないと言う提案にあっさりと従ったヴィスに、拍子抜けした。
「荷馬車の扱い、教えて」
「あぁ、そうか。今の内に覚えて貰う方がいいか」
本格的に旅が始まる前に覚えれば、交代で御者を行う事も可能だ。
午前中は危険の多い、道があるのか無いのか怪しい場所だったが、先ほど大きな街道に出た為、そう言った意味でも提案はベストなタイミングであったと言える。
幸い、ヴィスは動物の扱いに慣れているのですぐに覚えるだろうと思いながら、優斗は軽く説明をすると、あっさり手綱を譲る。
多少ぎこちなくはあるが、予想通り大きな問題も無く馬を操るヴィスに、優斗はさすが、と言う感想を抱きながら、荷馬車のホロを見上げる。
「ホロ、破られないといいけど」
「ノル」
ヴィスが手綱を引きながら発した声に、優斗が見ていた黒い影が飛び立つ。
一度大きく離れ、逆光の中戻って来たのは、1羽の鳥だった。
猛禽類らしく鋭い爪と嘴を持つ彼は、御者台と馬の間を跨ぐ部位に留まると、ヴィスに向かって一声だけ鳴く。
「気を付けて」
「……通じるの?」
「多分」
光の中へ再び飛び立つ影を視線だけで追いかけながら、優斗は昼食後の出来事を思い出す。
突然ヴィスからお願いがあると告げられ、これからの円滑な人間関係の為にもと二つ返事で了承したのが運の尽き。出来る範囲でと付けたす優斗にヴィスがしたお願いは、友達を連れて行きたいと言うモノだった。
これまで聞いたヴィスの境遇から、それが人間でなく動物だと判断した優斗は、ここまで隠して連れて来れる程度の動物なら問題ないだろうと、あっさり了承した。その次の瞬間、僅かに、しかし確実に嬉しそうに口元を歪めたヴィスが指笛で呼び出したのが、例の猛禽類だ。その名もノル。
「餌は自分で取れる」
ヴィスのそんな証言通り、優斗が初めて会った時に間近で見たノルは、嘴が僅かに血染めされている様に見えた。優斗がその姿に生理的に恐怖を感じたのは致し方の無い事であり、第一印象のせいで少しばかり苦手意識を持つのも、仕方の無い事だ。しかし嫌っている訳ではなく、むしろ恰好良いとさえ感じている部分も存在する。
こうして増えた一匹の道連れは、気が付けば居なくなり、しかしいつの間にか荷馬車で羽を休めていると言う、神出鬼没な存在だった。
「予想通りなんだけど、なんかなぁ」
「?」
「いや、あっさりと荷馬車の操作を覚えたな、と」
早くも要領を掴んだらしいヴィスに優斗が負けていないのは、既に僅かばかりの経験と技術だけだ。
経験は質の問題ですぐに埋まると予想出来、技術もすぐに追い抜かれるだろう。更に言えば、動物の扱いや目の良さは狩人であるヴィスの方が断然上なので、総合力では既に逆転されている可能性が高い。
「いいとこないなぁ、俺」
優斗が為すべきは商談で多くの利益を勝ち取る事だ。
そう考えれば単なる適材適所なのだが、それを指摘し、励ましてくれる人間はここにはいない。
少しでも役に立ちたいと言う思いから、優斗の教えをみるみる吸収して行くヴィスは、バイスの街に着く頃には優斗が教えられる事はないと言える程になっていた。
「とりあえず宿は、あそこでいいか。ヴィス、適当に停めて」
静かに首肯したヴィスが手綱を引くと、馬は優斗が指差した建物の前でぴたりと止まる。
いい子、とぼそりと呟くヴィスに成長を見せつけられ、優斗は落ち込みそうになる心をなんとか立て直しながら、御者台を降りる。
そこでふと気づく。
ヴィスのスカートの長さでは、御者台の上に座っているだけで危険が一杯だ。そんな状態で外套も着せずに街中を走っていたのは、ちょっと迂闊だったのではないだろうか、と。
「ヴィス」
「ん?」
優斗は荷台に手を入れると、防寒対策として御者台からでもすぐに取り出せる位置に置かれているブランケット代わりの布を引っ張り出し、ある程度の大きさにたたむとヴィスの膝にかける。
「これからは、その服で御者台に座る時は膝に何かかける事。町中では特に」
「うん」
素直な返事に満足した優斗は、宿の扉を開け、中へと入る。
優斗は部屋を2つ取ると、厩に荷馬車を入れるように誘導し、荷物を取り出して部屋へと向かう。後ろから同じく荷物を持ったヴィスが着いて来ているのを確認しながら、一先ず自分に割り当てる予定の部屋に入ると荷物を置き、ヴィスに割り当てる部屋へと移動する。
「ここは?」
「ヴィスの部屋」
「……?」
首を傾げるヴィスに、優斗の頭にも同じ様に疑問符が浮かぶ。
間違いようの無い、シンプルな説明であったはずだと考えながら、もしかして言い間違えたのではともう一度同じ内容を口にするが、やはりヴィスは首を傾げている。
「何か問題あり?」
「部屋が違う」
「いや、違わないけど」
優斗が扉を開け、中へと促すがヴィスはその場から動かない。
もしかして部屋が気に入らないのだろうかと考えた優斗だが、目の前の少女は嫌ならば嫌だと率直に言うタイプのような気がするなと思いながら、どう問えば正しい答えを得る事が出来るのか、頭を悩ませる。
そんな優斗の表情から、自分の意志が伝わっていない事を理解したヴィスは、言葉少なに説明を継ぎ足す。
「私は護衛」
「……あぁ、そう言う事」
優斗は、部屋が違う、と言う言葉を、部屋自体についての言及だと勘違いしていた。
しかしヴィスは、優斗と違う部屋であると言う意味で、部屋が違う、即ち別々である事を指摘していた。
「別室の方がいいでしょ?」
首を左右に振ったヴィスが、反転して先ほど荷物を置いた隣の部屋へと移動する。
優斗は頭をかきながら、説得するにしてもとりあえず座って落ち着こうと考え、ヴィスの後を追って部屋の扉を潜る。
結局ヴィスが折れる事は無く、宿に頼んで2人部屋を手配して貰う頃にはどっぷりと日が沈んでいた。
女性と同じ部屋で寝泊まりする事にすっかり慣れてしまった優斗は、そのドキドキ感を失ってしまった事を残念に思いながら、寝起きの目を擦る。
そして隣ですうすうと寝息を立てるヴィスをちらり一瞥すると、顔を洗う為に部屋を出る。隣と言うのは勿論、隣のベッドだ。
顔を洗い、朝食を受け取って部屋に戻り、扉をノックするが返事は無い。それを確認して中に入ると、既に目を覚ましていたヴィスが窓を開けているところだった。
「おはよ」
「おはよう」
「って、着替え済みだし」
優斗は危ないところだった、と胸をなでおろす。
もし、もう少し早く戻って来ていたら、そして先ほどと同じ様にノックをしたにも関わらず返事が無ければ、ヴィスの着替え中に扉を開けていた可能性がある。そんな事を思い浮べながら、優斗は教える事のリストにノックへの返事はきちんとする、言う項目を継ぎ足しておく。
そんな優斗の心の内を知る由も無いヴィスは、窓を開け放つと外に向けて手を伸ばすと、しばらくして現れたノルと戯れている。
「朝食を終えたら、色々と見に行こうか」
「うん」
朝食をのんびりと摂った2人は、飛び立つノルを見送ってから、宣言通り街へと繰り出す。
まず向かったのは、金工職人の店だ。
そこでは予め準備してあった皮に開けられた3か所の穴を補強するハトメの作成を2セットずつ依頼した。
次に向かったのは、服飾店。
購入したのはそこそこに細く、丈夫な紐だ。適当な長さの物が見つからず、切ればいいだろうとかなり長めの物を2本購入する。
その後は本日の主目的である弓を売っている店を探して歩き回る。
優斗は盗賊などが出ると言う事もあり、武器屋の様な場所があると想像していたのだが、実際にはそんな物騒な場所ではなく、農具などを売る店の一角で売られているのを発見する。
「どれがいい?」
「……」
真剣に品定めをするヴィスに釣られ、優斗も並べられた数個の弓を見比べる。
優斗がこれまでに見た事がある弓と言えば、実際に触れた事のある和弓と、テレビで見た洋弓――いわゆるアーチェリーと呼ばれる物――だけだった。そしてここにあるのはその2つのどちらにも似ているし、似ていない。
矢を番える位置から基本的な形は洋弓ではあると判るが、素材は和弓と同じ木製。更に言えば、洋弓にあるよく判らない出っ張りが存在しない為、その点では和弓っぽくも見える。素材については、昔は洋弓も木で作っていたはず、と気づく事で納得した優斗だが、後者の理由が判らなかった。
優斗は、判ったとしても結局アドバイスなど出来ないだろうけど、と考えながらヴィスを見下ろすと、丁度目があう。
「どう?」
「これ」
他の物と何が違うのか見分けのつかない優斗は、それを見つけてみようと弓をつぶさに観察するが、すぐに挫折する。
そして矢筒とそこに入りきる程度の本数の安い矢に加え、少し値の張る鉄製の鏃を持つ矢を数本だけ購入すると、早めの昼食を摂る。
昼食中もどこか上機嫌に見えるヴィスの姿に、優斗も釣られて気分を良くしながら昼食を平らげ、午前中に依頼しておいた品を受け取ると、その足でキャリー商会へと向かう。
「いらっしゃーい、って優斗くんやーん」
「どうも、アニー。三日ぶりかな」
「かな? で、今戻って来たん?」
「いや、昨日の夕方に」
「なんやなんや、挨拶が遅いやん。相変わらずいけずやなぁ」
他愛のない挨拶を交わすと、アニーは応接室へと優斗を招き入れる。
そして応接室に入り、ソファーに腰かけてから優斗に付き従うように中に入って来たヴィスに視線を向け、興味深そうに眺める。
「優斗くん、弓なんて出来たんや?」
「へ? いや、出来ないけど」
「やったらなんで、弓こうたん?」
「あぁ、あれはヴィス用」
「……お人好しにも程があるわ」
優斗は目の前で呆れるアニーが、何に対してそう指摘しているのか、本気で理解出来なかった。
それを察したアニーは、少しだけ目つきを鋭くすると、前とは違う、本当に真剣な眼差しを優斗に向ける。
「あのな、優斗くんはその子に大金貸しとんのやで?」
「ええっと、それが?」
「支払いが辛いと思たら、契約を反故にするついでにお金を奪ってこうとか思て、後ろからずばっと討たれるかもしれへんとか、考えた?」
「……あー、いや。まったく」
「もう。誠実なんは男としてはえぇ事やけど、商人、と言うか金貸しとしては致命的やで?」
諭すような口調でそう告げられれば、優斗も素直に謝るしかない。
しかし謝罪の言葉を口にしながらも、優斗はヴィスに後ろから射られると言う想像が上手くできずにいた。
それが十分にあり得る可能性だと言う事はアニーの説明で理解出来たのだが、いまいち実感が伴わないのだ。
ヴィスと行った騎士の誓いを本気にしている訳ではない。むしろ、顔見知りに殺されると言う状況を、なんとなく想像し難いと言うのが本音だった。
「忠告ありがとう。気を付けるよ」
「気ぃつけてぇよ。あたしの婿候補なんやから」
「それは謹んで辞退させて頂きます」
優斗がこっそりと一瞥すると、ヴィスは2人の会話に興味が無いのか、いつも通りの無愛想で優斗の隣に座っている。
アニーの発言と優斗の返答を気にして居るのではないかと危惧していた優斗だが、そんな兆候は欠片も見当たらず、ほっと胸をなでおろす。
「で、今日は何の用?」
「また明日には出発するから、挨拶だけしとこうと思って」
「そんな寂しい事言わんと、もう何日か滞在していかれへんのん?」
「申し訳ないけど、会えるなら会っておきたい人もいるし」
「そっか。まぁ、また来てくれるやろ?」
アニーの懇願する様な視線を受け、優斗はつい頷いてしまう。
そんな優斗の返答に、にっこりと笑うアニー。
切り替えの早いアニーの笑顔に、きっと直前の表情は演技の類なのだろうと気づいた優斗だが、それでも機会があれば寄る事にしようと思いながら、しばらくの間アニーとの雑談を楽しんだ。
「次の予定もあるから、そろそろ」
「えー。そんな事言わず、もうちょっとくらいえぇやん。まだ言わなあかん事もあるし」
「何ですか?」
「んー、どうしよかなぁ」
「まだ用事があるんで、早く教えてくれると」
「あたしより大事な用って何よ?」
優斗は次の予定を発しようとした口を、慌てて抑える。
それを告げれば、きっと先ほどと同じ様に呆れられ、説教をされると考えたからだ。無論、それを見逃すアニーではない。
「正直に言わへんと、酷いで?」
「いや、その、怒らない?」
「約束するわ」
「えっと、ヴィスの借用書と言うか、雇用契約書を作りに」
「……はぁ」
アニーに深くため息を吐かれた事で、戦々恐々としていた優斗の肩がびくりと揺れる。
それは当然の反応だ。
お金を貸してから、既に数日が経過している。しかも優斗とヴィスは、その際ほぼ初対面だったのだ。更に言えば、貸した金額はそれなりに大金だ。
「あのなぁ、優斗くん」
「は、はい。なんでしょうかアニーさん」
「契約は商人の基本やろ!」
「ごめんなさい」
呆れ顔から怒り顔へのシフトに、優斗はただひたすら謝り続ける事しか出来なかった。
その後、怒り顔を心配そうな表情に変えたアニーの説教を、優斗は大人しく受け入れる羽目に陥るのだった。
日が傾き始めた頃、正式な契約書を作り終え、予定よりも遅く宿に戻った優斗は、同じく後ろを付いてきたヴィスにケープを脱ぐように指示すると、穴を金属のハトメリングで補強したレザーに紐を通す。
それにより、曲線で描かれた三角形のレザーが、弓道で使う胸当ての様な様相となる。
「確かこうして」
優斗は2つ準備した胸当ての片方をヴィスに手渡し、もう片方で見本を見せる為に、付け方を実践して行く。
2人分、着用補助をさせられた記憶を辿り、三角形の胸当ての短い辺にかかる二か所の角から出ている紐を右肩から脇の下に通して輪にすると、左側の頂点に止められた紐を背中側から右肩の周りに通した紐に紐にひっかける。そしてそのまま同じ道を返して輪を作るように結び留めれば、胸元で固定される。
「こんな感じ」
「やってみる」
ヴィスは苦戦しながら、時間をかけ、何度か説明を聞き直しながらもなんとか胸当ての付け方を覚えて行く。
途中、ヴィスが胸当てを取り落としそうになり、慌てて支えようとして優斗が彼女の胸部に触れそうになると言うハプニングがあったが、概ね問題はなかった。もちろん優斗は直前で手を止めた為、胸当ては床に落下したが、ヴィスには触れていない。
「その上からケープつけても、弓引ける?」
「リボンが邪魔」
ケープ自体は前止めで、主に肩と背中を覆っているので、絃の動きに影響は無い。
優斗は、折角着飾ったのにと、少し勿体なく感じながらヴィスから解いたリボンを受け取る。
その時、優斗はふと、何故家に戻ったのに自分の弓を持って来なかったのかと言う疑問に思い当たる。優斗の記憶が正しければ、罠に使うのだと縄などをいくらか持ち出していたはずだ。
しかし、その問いを口にする前にそれに対して返って来る答えの可能性を幾つか思い浮けかべた優斗は、あえて問うべきではないと判断し、浮かんだ疑問を心の中に沈める。
「ところでヴィス」
「……?」
「ギフトについて色々聞きたいんだけど、いい?」
ヴィスが首肯した事で、優斗は口の端を持ち上げて笑みを浮かべ、これまで抑え込んで来た好奇心を解き放つ。
優斗は準備していた口の広い瓶とその蓋、そして火のついた2本の蝋燭を机の上に置く。それ以外にも幾つか準備した物はあるが、まずは基本的なところから、と言うのが優斗の考えだ。
「ヴィスのギフトは、天竜の欠片って事でいいのかな?」
優斗の問いを、ヴィスは首を横に振って否定する。
「妖精」
「あー。って言う事は。風の妖精の欠片は確か、風の操作のはずだから。
ヴィス、動かせる風の種類は?」
「触った分だけ」
優斗の意図とはずれた返答だったが、正しくそれを理解して貰う方法よりも先に、告げられた言葉自体の意味を考え始める。
気体に触れる。優斗はそれが具体的にどの様なものなのか、幾つか予想する。
それは直接的に触れなければいけないのか、間接的に触れて居れば良いのか。また、分子レベルの話なのか、そうでなければどこまでが1つの範囲とされるのか。
「……やってみて貰っていい?」
ヴィスはこくりと頷くと、立ち上がって窓を開ける。
辺りは暗くなり始めており、冷たい風が入り込んでくる。しかしそれは少しの間だけで、ヴィスが窓の外へと手を差し出すと、風が止む。
「外向きに操作してる、って事?」
「そう。上向き」
「じゃあ、俺にだけあてない様に、部屋に入れるとか出来る?」
「やってみる」
ヴィスがその身を窓の前から退け、手だけを風の通路へと差し出す。
すると、風が再び部屋の中へと入って来る。何故か、優斗の顔だけに向かって。
机の上に置かれたメモ用の紙は動く気配も無く、同じく火も僅かに揺れながら燃え続けている。
「……ヴィス?」
「……難しい」
呟きと共に、風が向きを変える。
今度は天井に向かったらしく、上から風のあたる音が聞こえてくる。
「微調整は出来ない感じなのかな。それとも、単に2股には出来ないのか。と言うか、その場にある空気を動かせないの?」
優斗の言葉が理解出来ないのか、ヴィスが首を傾げる。
風を操作すると聞いて、優斗は金属や水と同じ様に、特定の気体を操作するものなのだと考えていた。しかし最初の実験結果を見た事で、その想像は間違いだったのでは、と優斗は考え始めていた。
水や金属は、見て、触れられる。故に、境界がとても判りやすい。しかし気体、と言うかヴィスの操る風は、見る事が出来ない。故に優斗は、範囲の指定が曖昧で、肌で感じた時にだけ、即ちその存在に触れたと認識出来る時にのみ操作出来るのでは、と考えた。
「ヴィス、風を瓶に入れる、とか出来る?」
「……多分」
自信なさそうなヴィスに窓を閉める様に告げると、優斗は椅子に座るように促してから瓶を手渡す。
するとヴィスは、手で仰ぐことで風を起し、瓶の中へと入れると言う行動に出た。
「いや、それギフト使って無くない?」
「使ってる」
「あぁ、起こした風を零さず入れてる訳か。なるほど」
特定の気体を生み出したり、集めたりする事が出来るのであれば、その気体の性質を利用して色々な事が可能だと考えていた優斗は、目論見が外れたと考えながらも他の使い道を考え始める。
まず思いついたのは、常に風上を取れる状態であると言う事を利用し、薬などを散布すると言う使用法。これは、過去に読んだ事のある小説で見たモノだ。
次に思い浮かんだのは風車だったが、風が吹いて居なければいけない時点で意味が薄い事に気付き、すぐさま却下する。
更に音を遮ったり、声を遠くまで通す事を思い付き、これはまだ使えそうだと考えた優斗は、そのうち実験してみようとメモを取る。
そこまで考えてから、ふと気づく。
ヴィスは風が操作出来ると言った。ならば、そこに動いていない風があると理解出来たならば、それも操作できるのではないか、と。
「ヴィス、今からちょっとした説明をするから、判らない事があったら、話を中断させてもいいから、その場で聞き返して」
ヴィスが首肯すると、優斗は早口にならない様に注意しながら、風と大気に関する講釈を開始する。
風とは大気が動く事で起こる現象である事。故に、風は見えず、触れられないだけでどこにでも存在していると言う事。
さすがに風が起こる理由――気圧の変化や自転の影響、寒暖の差による気流の変化など――まで説明するのは難しいと考えた優斗が、これならば大丈夫だろうと説明した2つの事柄を、ヴィスはすんなりと受け入れた。
「だから、見えないけどここにある風を、どけたり出来ない?」
「……無理」
すぐさま試行し、出来なかった事を報告している事を、優斗は疑っていなかった。
だからこそ優斗は、すぐに他の角度からアプローチが出来ないかと思考を切り替える。
そして、そもそもヴィスが出来ると本能的に感じている範囲を逸脱してギフトを使用できるのかと言う疑問に行きついた優斗だが、それは何回も試して行けば判る事だと判断し、横道にそれた思考を本題へと戻しながら高速で頭を働かせる。
似たような試行をフレイのギフトでも行った事がある優斗だが、生み出す、と言うギフトは存外融通が利かないと言う結論に至っただけだった。
それでも生み出すのが水や鉱物であれば、それを分解した状態で生み出せないか、とか、何かと化合させつつ現出させられないか、と言う試みが出来るのだが、電気相手ではそれも難しいと考え、優斗は疲れや忙しさもあり、ある程度の結果を得た時点で挫折してしまった。
「じゃあさ、さっき瓶に集めた見たいに風を起して操作する応用で、身体にあたって動いた風を動かせない?」
優斗の提案に、ヴィスが立ち上がり、歩き出す。
最初の内は部屋の中をうろつくだけだったヴィスだが、しばらくすると手を優斗の方へと差出し、そこからそよ風が吹き始める。
「おぉ、出来た?」
「うん」
「じゃあさ、それで自分の背中押したり出来ない?」
ヴィスは早速行動に移そうと、差し出していた手を引っ込めると、優斗の指示通りの操作をすべく、ギフトを使用する。
しかし上手く行かず、それを報告しようと立ち止まって優斗を振り返るが、彼は一生懸命何かを書いており、声をかけるのが躊躇われた。
書き終わるまで待とうと考えたヴィスが、興味本位で優斗の手元を覗き込むと、そこには下手くそな絵が描かれていた。
優斗が描いていたのは、効率の良い流体の動きを線で示すものだった。彼は、言葉で説明するのが難しいと判断し、ならば下手なりに絵を描き、少しでも判りやすく説明しようと試みたのだ。
「身体にあたる風を退けて、後ろまで流してから背中に向ける。他の風も、この流れに巻き込めるだけ巻き込む」
差し出された下手くそな絵を真剣に見つめながら、ヴィスはある事に気付く。
優斗の絵は、川の中を進む際の水の流れに似ている、と。
流れに逆らえば動きづらく、乗れば楽に進む事が出来る。ならばそれと同じように風を流せれば、と水を風に置き換えて、その流れを想像する。
「外に出ようか」
「……?」
「ここじゃ、起こした風同士が緩衝しそうだし」
優斗の指摘した理由は理解出来なかったヴィスだが、その提案に反対する事も、意味を問う事もせず首肯すると優斗に続いて部屋を出る。
外に出ると冷たい風が吹いていた。
ヴィスは優斗に促され、ゆっくりと歩き出す。そして吹き付ける風を感じながら、それを操作する。
こうしてヴィスは、宿の前の道を何往復かしたのだが、結果は芳しくないものだった。
途中、優斗の指示で他の検証も行ったが、それらの成功率は、5割を切る程だった。
「そろそろ夕食にしようか」
「……うん」
ヴィスは、落ち込むと言うよりも、優斗が提示した事を実行出来なかった事を悔やんで、目を伏せる。
そんなヴィスを引き連れて宿の食堂へと向かう優斗は、彼女の様子に気付く事なく、ただひたすら検証結果から仮定を立てていた。
ヴィスのギフトは、風の操作と言っても方向転換させる事しか出来ず、直前に操作した風を連続で操作する事は出来ない。
操作精度はさほど高くなく、一度に行えるのは一固まりの風を一回方向転換させるのみで、二股に分ける等も当然出来ない。
風に触れると言うのは、感触を感じる事を意味し、無風状態では何も起こせないが、自分から動く事で揺れた大気は操作可能。
それ以外にも様々な仮定を立てた優斗だが、その中で最も予想外だったのが、吹く風を押し返し続ける事が出来ない事だった。
これは風を押し返す事で追従していた風が堰き止められ、操作出来る風が無くなるのが原因だ。最初に見せた窓からの風を遮った時には風を上方に流していた事を思い出した優斗は、そこから更に別の仮説を立てて行く。
思考を続ける優斗と、元来無口なヴィスの夕食風景は、当然ながら静かなものとなった。
「明日もまた早いから、もう寝ようか」
夕食を終え、あらかた情報をまとめ終わった優斗がそう告げると、ヴィスは頷いてベッドに移動する。
何時もならば優斗がベッドに入る前に火を消しておやすみとなるのだが、色々と考え事をしているせいでそれを失念してしまい、気を効かせたヴィスが優斗が完全にベッドに入っている事を確認してから、ふっ、と息をかけて火を消した。
そして優斗は、ヴィスの口元が火から数メートル離れている事に気付き、前言を撤回して机に戻りたい衝動を堪えながら眠りにつく事になった。
ヴィスのお友達が合流し、旅の道連れが増える話でした。
ついでに、優斗がヴィスのギフトを検証する話でもあります。