向き不向き
次の日、優斗は朝からキャリー商会に足を運ぶと前日の約束を破った事をアイタナに謝罪し、2人揃ってキケロ商会へと向かった。重い足取りの優斗に対して、アイタナの足取りは軽い。
商会前に到着すると、アイタナに外で待っている様に頼んで店内に入った優斗を待ち構えていたのは、覚悟を決めた目をしたシュタンだった。
「優斗さん。お願いがあります」
「何でしょうか?」
「昨日のお話、受けさせて頂きたいと思います」
「では、土地と建物を担保にしても良いのですね」
「えぇ。その代り、お願いがあるのです」
シュタンの迫力に気圧された優斗は、思わず首を縦に振ってしまう。
しかし契約に関する事まで押し切られる訳にはいかないと、優斗は顎を引き、迎撃態勢を取る。
「私の家族。いえ、私の元・家族には手を出さないで頂きたい」
「……は?」
「家内とは昨晩話をし、今朝一番で離縁しました。子供は全て、家内が、いえ、別れた家内が引き取ります」
「……で?」
「私が成功しても失敗しても、優斗さんは利益を得られるはずです。ですから、家族だけはどうか」
シュタンの目は血走っており、優斗は構えていたにも関わらず、また怯んでしまう。
それと同時に、覚悟を決めた男の姿に、そしてこの一家を最悪な形で別れさせなくても良い状況に、優斗は心惹かれる。
「確かに、私としては特に問題ありませんが」
「では!?」
「お子さんたちはどう生活するおつもりなんですか?」
「息子が奉公に出る予定です。妻も何か職が無いか探して貰う事になるでしょう」
そう答えるシュタンから優斗は鬼気迫る雰囲気を感じ、気圧されながらも思考する。
断れば何をされるか判らない。そして優斗がこの提案を受けても、彼は不利にならないどころか、気休め程度でも精神的に楽になるので、断る理由はどこにも見当たらない。例えそれが、目の前の男の思惑通りであったとしても。
「判りました。では、今からここにアイタナさんを呼ぼうと思います」
「はい」
「契約を交わすにあたって私は必要ありませんので、その間、お子さん達と話をしたいのですが」
「は?」
優斗の提案に、シュタンは迷う素振りを見せた。
覚悟を決めたシュタンだが、愛しい家族と目の前の信用ならない男を会わせるのには抵抗がある。昨日のやり取りを見ていたのだから、猶更だ。しかし、立場的に逆らう訳にもいかない。
「……わかりました。家内も同席させてよろしいですか?」
「もちろんです」
その返事を受け、優斗はアイタナを店内へと招き入れると、シュタンの呼んだ彼の息子に案内されて奥に通される。
そして、アイタナとシュタンが契約を結ぶ間に、優斗は自分の精神的負担を更に軽くする為の提案を3人にしたのだった。
取引から数日後、出発を明日に控えた優斗は、荷馬車を引き取る為にキャリー商会へと来ていた。
今回の絹取引で優斗は、公国金貨150枚を得た。
当初より増えている理由は、キャリー商会にお金を借りる際の仲介料と契約書を失くしていた事が理由で上積みされた。契約書はロード商会との取引時に代金と共に突き返した物に混ざっていたらしく、既に手元にはないそうだ。
公国金貨150枚と言うのは大金だ。そして優斗が得た利益は、彼が予想していたものよりも大きい。
まず、金貨の値上りで価値が1.2倍程になっており、以前に比べてそれだけ多くの仕入れが可能だ。これは、優斗の予想して居なかった事で、嬉しい誤算だった。
本来であればここから絹代が引かれるのだが、今回はその代金が他から出る事になっている。
「そうそう、優斗様」
「何ですか?」
「優斗様のお言葉に甘えて、荷馬車の中身を貸して頂いた際、奴隷がこのような物を見つけまして」
アイタナが差し出したのは、フレイと共に書き上げた、何枚もの衣服の絵だ。
優斗は出発の際、荷馬車の荷物は預け賃代わりに好きに使って良いと伝えてあった。触れられたくない物は別にして預けてあるとは言え、アイタナにとってこれは嬉しい提案だった。それは道具を借りられる事に対してではなく、荷物から何か恩を売る為の材料が得られるかもしれないと考えたからだ。
「これを見た元お針子の奴隷が、是非作ってみたいと言ったので、作らせました」
「……作ったんですか」
絵を描いた紙はフレイに預けてあった。そして優斗はフレイの荷物に触れていない。
故に荷馬車に残っていたのだろうと考えた優斗が次に思い出したのは、後半、目立てば現代服でも良いのではと描き始めた制服、いわゆる学ランやブレザー、セーラーにミニスカート等の洋服だ。主に優斗とその幼馴染が着ていた物を参考に書かれた服は、それ自体を見られる事で困る事は無いのだが、問題はそのスカート丈ではドロワーズが見えると指摘されて軽く説明した下着だ。優斗は何故かそれに興味を示したフレイが幾つかを絵にしていた記憶があった。
「はい。あれは素晴らしいですね」
「……は、はぁ」
「大暴落もあって全て絹で作らせてみたのですが、特にあの下着の履き心地が素晴らしい」
中年女性にパンツの良さを力説され、優斗は戸惑う。そして履いている姿を想像してしまい、げんなりする。
女性の下着事情など知る由もない優斗と、あのデザインを持っていたのだから商売にする気であり、詳しいはずだと考えるアイタナの会話は、当然ながら噛み合わないがそれでも会話は恙無く進む。
「ですから、あれをキケロ商会で売らせようと思っているのですが、どうでしょう?」
「あー、いいんじゃないですか?」
スカートが捲れてもドロワーズ、と言う環境に不満のある優斗は、むしろ強く推奨したいと思いながらも平静を保つ。
そしてそれこそが、優斗の口利きとは言えアイタナがキケロ商会に大金を出資する理由だ。
女性奴隷専門を謳うキャリー商会では、あまり大々的に他の品を扱う訳にはいかない。もちろん、商会主であるキャリスの許可があれば別だ。
しかしアイタナは色々な事に手を出す傾向にある。王国との交易も、女性奴隷1人だけがキャリー商会の積荷で、それ以外の委託品は輸送及び売買代理の手数料を貰って稼いだらしい。名目は、船倉に余裕があるので他の積荷を募集した、だ。
今回のキケロ商会の件で、アイタナは借金と言う盾を持って自分がやりたい商売を代行させる相手を得た事になる。しかも優斗がこの件に一枚噛んでいる為、その商売の候補である女性用下着に関する助言を得る事が出来るだろうとも考えていた。
「だったらあれです。式典の服と一緒に、今の流行だって貴族に渡して貰うのはどうですか?」
「……なるほど。上顧客を得る為の投資と言う訳ですね」
「そんなところです。他の事は任せますので、出来るだけ低価格で、庶民にも出回るようにしてくれると嬉しいです」
優斗の正直な言葉に、アイタナはにやりと笑う。
それは下世話な意味と共に、ならば商品の販売権は安く済むだろうと言う意味も含んでいた。ちなみにその予想ははずれ、アイタナは後に、キケロ商会で売るならば不要であると優斗から伝えられて驚く事になる。
「他の衣服も再現可能な物は作らせました。
お急ぎでなければ衣服の出来を見て下さいませんか?」
優斗が首肯で答えると、アイタナは何種類かの衣服を机の上に出した。
出て来たのは初期にデザインした甚平や作務衣、巫女服に矢絣の入っていない矢絣袴などの和服だった。
「男性用か女性用かが判らない物に関しては、大小二着ずつ作ってあります。どうですか?」
「中々素晴らしい出来ですね」
「はい。幸い、これらは似たような服に関する情報がありましたので」
「やはりそうですか」
その情報は、優斗が予想した通りユーシア発の物だ。
巫女服や矢絣袴は着る人間が居なくなってしまったが、優斗は甚平と作務衣が手に入った事を喜び、早速これを寝間着にしようと心に決める。
そして着方を教えて欲しいと言うアイタナに応え、作務衣を身に着けると、違和感を感じた。
「んー。あぁ、そうか」
「どうかしましたか?」
「いや、私が前に着た作務衣は、麻だったので。絹の方が着心地はいいですね」
少しごわごわとした独特の着心地も悪くなかったと思い出しながら、優斗は甚平にも袖を通すが、同様の感想を持ったのみで、特に指摘する点は見つからなかった。
その後も優斗達が書いた順番に沿うように、浴衣、着物モドキにふにゃりとした学ランもどき、セーラー服、ブレザー等が次々と出され、気が付いた時には部屋に居た女性奴隷――例の元お針子だ――から幾つもの質問を受け、いつの間にかそれに応える事になっていた。
「いや、半襦袢は下着だからその下に下着はつけないんじゃなかったかな」
「それだと、めくれたら大変な事に」
「確か、浴衣とかで下着を履くと下着のラインが見えるから、らしい」
「でも、それは付けない理由であって、めくれたら、はまた別の話ですよね」
「浴衣とか着物とか、基本的に激しく動かない事前提の服だから」
「では、巫女服は?」
「あれ、実は股の下が縫ってあるんでめくれないんです」
「おぉー。なるほど」
「そう言うのもあるってだけですけどね。と言うか、あれは下着透けないんじゃないかな」
「そういえばそうですね。赤ですし」
そんな風に受け答えする優斗は、表面上は平静を保ちながらも、内心では頭を抱えていた。
特に、女性用の下着を目の前に突き出され、それについてあれこれと聞かれるのは羞恥もあってどぎまぎしてしまう。その上、詳細を答えられるほど詳しくない事から言葉は詰まり気味になり、それが隠し事をしている様に見え、それでも聞き出そうとお針子に実物を鼻先にまで突きつけられて質問をされると言う負のスパイラルが発生する場面もあった。
最終的に、着用した状態でおかしい点が無いか見て欲しいと言われ、下着に関しては全力で拒否した代償として、優斗はそれ以外の衣服――特に浴衣等の和装――の着方を説明し、下着以外全ての着用状態での問題点を指摘する羽目に陥った。モデルに可愛い娘や、スタイルの良い娘が居て役得で眼福だったが、それ以上に指摘するとその場で確認しようと捲ったり脱がせたりしようとするお針子さんのせいで、色々と目のやり場に困る事の方が多かった。それが下着で行われたらと思えば、優斗は自分の判断は英断であったと確信出来た。
「疲れた……」
「お疲れ様です。お茶を用意しておきましたので」
「ありがとうございます」
「ところで、どうでしたか?」
「えーっと、何がでしょうか?」
「我が商会の誇る、奴隷たちです」
その言葉で優斗はアイタナの策謀に気付き、さすがだ、と言う感想が浮かぶ。
服や下着の完成度を上げる事は、キケロ商会に委託する商売の成功に必要な事だ。その為に優斗の指導を仰ぐ事も。そしてその過程で奴隷を見せる様に仕向ければ、自動的に奴隷たちは優斗に目通りできると言う寸法だ。しかも、優斗が持っていた衣服の案であれば、ある程度は優斗の趣味が入っている可能性が高く、購買意欲を誘う事が出来る。
事実、優斗は懐かしさを感じる部分もあり、少しも心が揺るがなかったとは断言できない。
「魅力的ではありましたが、今回は遠慮しておきます」
「そうですか。残念です。
試作品に手を加えたモノですが、服は是非お持ちください」
「では、お言葉に甘えて」
あっさりと引き下がった事に疑問を持った優斗は、警戒をしながら他愛もない雑談を交わした後、アイタナから紹介状を受け取り、キャリー商会を後にする。
その足で優斗が向かった先は、キケロ商会だ。
キケロ商会の荷受け場に付くと荷馬車を降り、しばらく待っていると1人の少年が駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませ、って、優斗さん!」
「よう、元気?」
「もちろん!」
「そっか。じゃあ、荷馬車、頼んでいい?」
「はい!」
元気一杯の少年に馬を預けると、優斗は商会の中へと入って行く。
荷受け場から店に繋がる通路を歩いていると、今度はエプロン姿で桶を抱えた少女が現れる。
「あ、優斗さん。本日は何の御用でしょうか」
「明日出発だから挨拶して置こうかと思ってね」
「そうなんですか」
「うん。またこっちに来たら寄るから」
「はい!」
今から掃除をするのだと言う、やはり元気いっぱいな少女と別れ、優斗は店へと入って行く。
店の中ではシュタンとその元妻が仲睦まじく並んでいた。どうやらシュタンが何かを教えているようだ。
2人は優斗が店内に入った事に気付いて振り返り、その顔を見るとシュタンは複雑そうな、その妻は零れる様な笑みで迎えてくれた。
「明日、街を発つのでご挨拶をと思いまして」
「そうでしたか。この度は、色々とお世話になりました」
「いえいえ」
元凶はあらゆる意味で優斗にある事から、その対応に優斗は複雑な表情を浮かべる。
むしろ優斗には、隣でどんな表情で対応すべきか困っているシュタンの方がやりやすく、ついそちらに視線を向けてしまう。
「今回の件、家族と過ごせるように手を回してくれた事には感謝しています」
「えぇ。私は利益を、貴方は家族を守れた。それだけです」
優斗がシュタンの別れた妻とその子供たちにした提案は、彼らの為と言うよりは己の心の平穏を守る為だった。
優斗の提案。
それは、3人が商会の余っている部屋を借り、住み込みで働くと言うモノだった。
もちろんそんな事をすれば、失敗した際にシュタンの家族が巻き込まれる恐れがある。優斗はそれを回避する為に、彼ら3人を雇い入れ、派遣、すなわち貸出しと言う名目で送り込む契約を結んだ。こうすれば仮にシュタンが失敗しても、3人の身柄を優斗の許可なしにどうこうする事は出来ない。
そして優斗はこの地を離れるからと1年分の給金を前払いし、それを受け取った3人はその資金で商会の部屋を借り上げ、シュタンは1年分の人材貸出費用を優斗に支払った。
これにより、シュタンの失敗が3人に降りかかる可能性が完全に無くなった訳ではないが、少なくともキャリー商会が手を出す事は無い。何故なら、優斗が不在の場合、代理人が3人を優斗の元へ送り届ける事になっているからだ。
とは言え、優斗はこれによりアイタナからは折角とれる人質を逃がす判断にさり気無く苦言を呈された。優斗はそれを失敗した時の算段よりも成功率を上げる為だと言い張って何とかやり過ごした。
「守れたと言えるのか、微妙なところだがな」
家族に被害を及ぼさない為にも、しばらくは他の街で暮らさせるつもりだったシュタンにとって、優斗の提案はある種の救いであると同時に、自分の決断に対する当てつけとも感じていた。
支店を任される程度にはベテランで優秀な商人であるシュタンは、頭を冷やして冷静に考えた事で、これは自分の判断ミスが招いた事態であり、全責任が優斗にあると責めるのは間違っている上に意味が無い事だと判っている。それでも感情が、悪辣な取引で大金を掠め取られた相手を拒否する事を止められず、積極的に感謝する筋合いはない、と考えていた。
一方優斗は、今回の商談を通して自分にはこの様な、根こそぎ奪い取るスタイルは向いていないと実感した。出来ないと言うほどではないが、利益に対する精神疲労が釣り合わない。
もし、キャリー商会の助けが無ければ、優斗はこの商談で相手の手持ちを全て売らせると言う手段を取る事になった可能性が高い。そうなればこの一家は散り散りに売り飛ばされ、精神疲労は現在の比では無かっただろう。優斗にはそれに耐えられる自信はなかった。
優斗はこれまで、一か所に留まる、もしくは同じ場所を巡るなら互いに得をする商売を心がけるべきだが、そうでない、一期一会の商談は、出来る限り利益を得るべきだと言うスタンスを取っていた。二度と会わない相手の心証を良くしても、意味は無いと考えていたからだ。
しかし今回の事で、いかに二度と会わない相手でも、後味の悪い商談は控えようと考え直した。
「もう、あなたったら。すいません、主人も本当に感謝しているんですよ?」
「一応、離縁してる事になっているんですから、主人と呼ぶのは控えて頂けると」
「あら、そうだったわね。えっと、シュタンさん、でいいのかしら」
「……なんだか照れるな」
「そう? 新鮮でいいじゃない」
新婚か、と心の中でつっこみを入れながら、優斗は顔を僅かにひきつらせてその光景を見守る。
今回、3人を貸し出す契約をするにあたって、その特性上、優斗が中間マージンを得る額面に調整されている。それは不自然すぎる契約内容を、更に不自然にしない為の工夫であり、実際に優斗はこれにより利益を得ている。
シュタンはそれを家族と暮らせるのならばとそれを受け入れた。支払いは現金でなく現物で行われ、旅に必要な食料などの消耗品で受け取った分以外は、絹の支払いにあてられた。それにより、キケロ商会は仕入れと売値の差額だけ損を免れた事になる。
「そう言えば、1つ気になっていた事があるんですが、聞いても構いませんか?」
「ん? あぁ、答えられる事なら答えよう」
「2人はどんな理由で離縁した事になっているんですか?」
この世界で結婚をする際にどの様な儀式が行われるのか、優斗はある理由で知っていた。
優斗が調べた内容が正しければ、結婚する2人が竜神様に結婚を報告し、愛の言葉とその証を交換して共に助け合って暮らす事を誓うのだが、離婚する際は竜神様にその理由を告げる事になっている。もちろん、実際に竜神様の前に立つ訳ではなく、神官か神父の様な役割を持つ人達が、その代理を務めるのだが、理由がなかったり、彼らが納得しない理由であった場合は離婚が成立しない事もある。
「あー、いや」
「うふふふ」
「えーっと、参考までに聞きたいのであって、別に無理に言わなくても結構ですよ?」
「いいえ。聞いてください。
実はこの人、倉庫で女の人と密会していたんですよ」
くすくすと笑う妻を横目で睨みながら、シュタンは誤魔化す様に咳払いをする。
それはもしかすると、アイタナさんとの商談の事ですか、と聞けなかった優斗は、代わりに別の言葉を口にする事と、そろそろ商会を後にする事を決める。
「じゃあ、私も結婚した暁には気を付けないといけませんね」
「えぇ。是非そうして下さい」
「教えて頂き、ありがとうございました。では、私はこれで失礼します」
夫妻に見送られ、優斗はまた彼らの子供2人とすれ違い、お礼を言われながら商会の建物から出ると荷馬車に乗り込む。
そして今度は川沿いに西へと馬を進め、目的地であり、本日の宿になる予定でもある場所へと向かう。
「お久しぶりです、女将さん」
「あ……」
女将は優斗の顔を見るなり、身をひるがえして厨房へと逃げて行く。
優斗はそれを不思議に思いながらも、逃げられる心当たりが見つからず、しかし待っているのも手持無沙汰だった為、後を追うように厨房へ向かう。
「すいません、荷馬車、勝手に納屋に入れたんですけど、よかったですか?」
優斗が言葉をかけても、厨房からは何の返事も無い。
仕方なく厨房の扉を開け、中へと入ると、そこには宿の大将と女将が並んで立っていた。
「ごめんなさい」
「へ?」
突然、頭を下げて謝る女将の行動に、優斗は意味が判らず大将に視線を向ける事で、説明を求める。
しかし大将が口を開く事はなく、ただ真剣な眼差しで優斗を見つめている。
そして数秒間見詰め合った後、唐突に視線を、頭を下げ続けている女将に向ける。優斗も釣られて視線を向けるが、頭頂部とそのやや前方が見えるだけだった。
「あの?」
優斗が声に出して返答を求めるが、やはりどちらも無反応だ。
優斗は仕方なく、女将が謝罪している理由と、大将が視線が何を示すのかを考え始める。
考えながら2人を観察して居ると、ふと気づく。女将の頭に乱雑に巻かれているリボンに、見覚えがあると言う事に。
優斗は思い出す。
先ほど、厨房に駆け込む前の女将は何も付けていなかった。ここに滞在中、女将が頭に付けていたのは埃よけ、もしくは髪を束ねる為にしていた三角筋以外、記憶にない。
そこまで考えて、優斗はようやくそのリボンに何故見覚えがあったのか、思い出す。
それはフレイが頭に付けていた物と同色で、巻き方も乱雑ではあるが酷似している。それに気づいた優斗がはっとして顔を上げると、大将はゆっくりと頷く。
「大将、もしかして」
「悪いが何も言えない。行け」
そう言って大将はわざわざ右手で左手側の壁を指差した。
出て行けと言うのであれば、厨房の扉か入口の方向を指すものだ。ならば今差した方向には別の意味があるのだろうと、優斗はその方角を確認する。
厨房正面は食堂で、それは建物の中でも特に日当たりの良い南側に位置している。そして厨房の扉を入った優斗は、食堂を背にして立っている。そんな優斗と正面から対峙している大将の左手側は、東だ。
「以前はお世話になりました。明日、出発しようと思っています」
「あぁ」
優斗は素っ気ない態度の大将に頭を下げてから踵を返し、厨房の扉に手をかける。
そして彼らが直接それを教えてくれない事にはなにか意味があるのだろうと考え、あえてそれ以上は何も聞かず、外に出る。
荷馬車を納屋から出し、馬を走らせながら優斗は2人の行動が示す事柄について考えた。
女将が不自然にしていたリボンがフレイの存在を意味すると仮定するならば、謝罪は彼女に関する事である。
フレイの関する事で謝罪していたのだと言う仮定が正しいのであれば、大将の指差した方角は彼女の行先を意味する可能性が高い。
そして彼らがそれを直接口に出来ない理由が、何らかの方法で口止めされているのだと仮定すれば、わざわざ行先を告げる事はしないだろうと予想出来る。
その予想が正しいと仮定するならば、一目見れば、最低でも話をすれば行先が判る相手であったと推測される。
以上の事から、フレイは誰か行先の判りやすい相手と同伴で宿を訪れ、東へ向かったと考えられる。そして優斗が思い付いた、一目見て東へ行くと判る人間は、式典に関係する者達だった。
例えば、商売を目論む商人。職人の仕立てた衣服を届ける配達人。式典に直接参加する貴族や、従者等のそれに連なる者達。
仮定に仮定を重ねた推論である上に、該当範囲が広すぎるとは言え、この事で優斗は1つの確信を得ていた。
それは、フレイが無事である可能性が高いと言う事。
裏切られたと感じていた優斗は、同時に彼女の身を案じても居た。だからそれは喜ばしい事であり、あわよくば再会して話をしたいと考えた。たとえ、自分の元に戻ってこないのであっても。
こうして心残りが1つ解消された優斗は、2人に対する感謝の言葉を心の中で紡ぎながら、手綱をひいて荷馬車の速度を上げた。
カクスでの商談を終える話でした。
次回は、優斗くん初の1人行商が始まる、かもしれません。