フレイ先生
朝食を終えた2人は、白地図を囲んでこれからについて話し合っていた。
「じゃあ、この街に向かうって事でいい?」
「良いと思います」
優斗が指差したのは、アロエナと言う街だった。亡くなった商人――商取引許可証にはリコスと書かれていた――は主にここ、クロース領で商売をしていた様なので、一先ず別の土地へ移動したいと優斗が主張し、それに対してフレイが自分を売って村へ物資を届ける方が先だと主張した結果、クロース領を脱出するルート上にある大き目の街へ移動する事になった。
「では、早速出発しましょう」
フレイの言葉に頷いた優斗が、荷物を荷馬車へと積み込む。
いざ出発、と言う時になって新たな問題が発生した。2人とも御者の経験がなかったのだ。話し合った結果、優斗が恐る恐る手綱を手にし、その隣でフレイが亡くなった商人リコスがどの様に操舵していたかを説明する、と言う分担となった。覚えようと思って見ていた訳でもないフレイが懸命に思い出しながらながら指示を飛ばし、それに従う優斗がなんとか馬を歩かせられる様になった頃には太陽が真上まで来ていた。
「そろそろお昼にしようか」
「はい」
優斗が手綱を引くと、馬が立ち止まる。これは優斗の腕と言うより、馬が賢く躾けられていたおかげだ。優斗はただ、どう手綱を動かせば馬がどう反応するか、機械的に覚えて実行しているだけに過ぎない。
馬が逃げない様に木に繋ぎ、荷馬車から食料品を下ろす。荷馬車はずっと揺れていたので、しっかりとした地面に降り立った優斗は、軽い感動を覚えた。
そんな優斗の隣に降り立ったフレイの手には、食料品の入った袋が握られている。
「はい、どうぞ」
「ありがとー」
携行食らしい硬いパンを口にしながら、優斗はこの後の事について考えていた。
(文字の対比表が欲しいな。契約書が読めないとか致命的すぎるし)
幸い、荷物には紙とペンがあった。紙は所謂羊皮紙と言われる分厚い物で、ペンはインクを付けて書く羽ペンだった。
「フレイさんって、字、書けるんだよね?」
「少しですけど」
「じゃあ、後で教えてくれませんか?」
フレイは少し悩んでから、わかりましたと答える。優斗と同じく、商人なのに文字が読めないのでは、自分を売り払うにも支障が出ると判断した様だ。
フレイよりも先に食事を終えた優斗は、荷馬車から紙をひっぱり出し、五十音を順に書き連ねていく。その様子にフレイが目を丸くしている事に。彼は気付かなかった。
「じゃあまず、あ、と書いて貰えますか?」
何か言いたそうな表情のフレイが、出かかった言葉を飲み込んで首肯する。そして優斗が差し出したペンを受け取らず、地面に文字を書き始めた。
優斗が発音した音をフレイが文字にして地面に書く、と言う流れを数十分続けて五十音全てを表にした優斗は、この世界の文字はローマ字に近いな、と言う感想を抱いた。しばらく表を見つめていると、濁点、半濁点の存在を思い出し、余ったスペースに書き足していく。
「こんなもんかな」
「まだ幾つかありますよ?」
そう言ってフレイは数個の文字を地面に書き足した。
フレイが指差しながら発音した音は、日本語で言うところの小文字を用いた物や、『ヴ』等の発音が多少違う言葉だった。その中で最も優斗が面白がったのが、彼が『か』に半濁点で表記した言葉だった。鼻から息を抜きながら発音する、所謂メガネのガだ。
「ユート様」
「ん、何?」
「その文字はなんですか?」
「古い言葉。今はもう使われてないんだよね?」
優斗は既に考えてあった言い訳を口にし、表へと視線を戻した。
表を眺める優斗が、ちらりとフレイを確認する。特に疑っていない事に安堵し、対比表にある文字を地面に書きなぐる。
優斗はそこでまた1つ思い出す。数字を忘れていた。
「数字はどう書くの?」
「数字とはなんでしょう?」
「えーっと、数え方、値段の書き方。で、判る?」
「はい。大丈夫です」
じゃあ、と優斗が指を1本出す。フレイが書いた文字を写すと次は2本。これをどんどんと続けた結果、この世界も10進法を採用していると言う事が判明した。
フレイが知っていたのは1000の単位までだった。組み合わせれば9999までは数える事が出来る様になった優斗が、通貨に付いて尋ねる。
「私が見た事があるのは、公国金貨、公国銀貨、公国銅貨、王国銅貨だけです。公国金貨は見せて貰っただけですけど」
「んー。どのくらいの価値か判る?」
「すいません。判らないです」
物々交換が主流と言う村の出身だったのだ。それも仕方がない。優斗はそう考えてから、侍従としての給金はどうだったのだろうと気づき、訪ねた。
「私の給金はおとうさんに直接支払われていました。額もおとうさんと村の交渉役の方が決めたので、知りません」
奉公に出ていたと言うよりも売られた感じだったのだろう。そう考えた優斗は、やはりこのまま村へ返すのはマズいだろうと考えた。
仮に大金を持って戻ったとしても、苦しくなれば再度売られるだろう事は想像に難くない。
「そうすると、フレイさんをいくらで売っていいか判らないんだけど」
「……それは困りました」
冷やかしで値段を確認し、相場を割り出せばいいのだが、優斗はそれを指摘しなかった。奴隷商の店に入り、何も買わずに出ると言う事が可能かどうか、判らなかったからだ。それ以前に値札がない可能性すらある。
「そうだ。あれがあったんでした」
そう言って荷馬車へと入って行ったフレイは、1枚の紙を持って戻って来た。それを優斗に手渡す。
「それは私の村と商人さんが交わした契約書です。村に送る商品と数が書いてあります」
「そうすると、これを全部足した値段、プラス手数料で売れれば良いって訳か」
「はい」
対比表を使って確認した所、ほとんどが食料品のようだ。指定された量の安い麦――ライ麦や燕麦等――等を村まで届けさせる、と言う文章からすると、リコスと言う商人はもう1度村に向かう予定ではなかったのだろう。これは優斗にとってありがたい事だった。
「他に聞きたい事はありますか」
「ある、けどそれは移動しながらでもいい?」
「はい」
「よろしくお願いします。フレイせんせー」
先生!? と驚くフレイを無視して、優斗は出発の準備を始める。
こうして2人は、本格的にアロエナと言う都市に向かい、移動を開始した。