溺れる者
優斗にとって初めてとなる山歩きは、想像以上に大変だった。
一日中歩き続けた優斗たちは、風が避けられそうな岩陰を見つけ、そこで夜明かしをする事に決める。
「火は、マズいよな」
「っあ、はぁっ」
優斗がある程度ペースを合わせたとは言え、遅れる事なく着いてきたクシャーナが、疲れ切ってその場にへたり込む。
「休んだら夕食にしよう」
「っ、はい」
息遣いに隠れてしまいそうな小さな返事。
声を出すのもキツイのだろう、と判断した優斗は、腰から蜂蜜で作った飴を取り出し、クシャーナの口元へと差し出す。
「ほれ」
億劫そうに視線を向けたクシャーナは、それが見覚えのある物だと確認すると、優斗の手を取り、手のひらに舌を這わせてそれを口に含む。
「じっくり味わえよ」
精神力の方が戻ったのか、クシャーナはコクコクと大きく首を動かす。
街を出る前にと大量に作っておいた飴は、そのほとんどが優斗の腰にぶら下げられている。フレイに渡す時の反応が面白いので、いつの間にか優斗が持つ癖がついていた。
優斗は自分の口にも1つ放り込みながら、夕食の準備を始める。準備と言っても、荷物を降ろして水とパンを取り出すだけだ。燻製肉もあるが、これは獣が出た時用の囮に取っておきたいので今は節約しておく。ほとんど居ないと言う話だが、火も焚けないので用心するに越した事はない。
「ちょっとは回復した?」
「はい。山を登るのがこんなに大変だとは思いませんでした」
騎士団に同行して様々なところへ行く機会があったと言うクシャーナは、お昼前までは元気で、何度か話しかけても来た。優斗が体力を温存する為に黙っていろと指示すると、素直に従いながらも少しだけ不満そうにしていた。
この子は少しどころかかなり危機感が足りていないのではないか。少し前の自分を棚に上げてそう考えた優斗は、夕食前に注意しておくことにした。
「それが判ったなら、明日からはちゃんと黙って歩く事」
「はい、優斗様」
素直な返事と共に返ってきた笑顔に、明日はまだ大丈夫だろうと判断した優斗は、食事に手をつける。
優斗に続いてパンを手に取ったクシャーナを見て、そう言えばと昼食時の事を思い出す。
「水は貴重だから、ゆっくり噛んで、味わって食べる事」
「はい。おいしくないですけど、そうします」
貴族の食べる真っ白なパンに比べれば、安い麦で焼かれた黒パンは固くて味気がない。
文句を言うだけならまぁいいか、と思いながら、優斗は水を一口含む。疲れからか、慣れからか、彼女は少し前から不満を口にする様になっていた。
「この後はどうされる予定なのですか?」
「ん? あぁ、とりあえずクーナは寝て体力を回復。俺は寝ないで見張り」
「優斗様は眠らないのですか?」
「明るくなり始めたら寝る。その間は見張りを頼む事になる」
「わかりました」
子供に見張りを頼むのはどうかと思うが、いないよりはましだろう。
後で気を付けるべき点だけ伝えておこうと考えながら、そのほとんどがフレイに教えられた知識であった事に気づく。
優斗はこの世界において、彼女に依存している事を自覚している。その割合がものすごく大きいとも思っていたが、それでも足りないほど、依存していたのではないかと思い始めていた。
「火を焚かないそうですが、寒くないでしょうか?」
クシャーナの言葉に思考を中断され、優斗は右手外套の端を掴む。
続いて左手でクシャーナの降ろした鞄を指差し、それぞれに彼女が視線を向けたのを確認してから口を開く。
「そこに入ってる毛布とこの外套で暖を取りながら寝る」
「その間、優斗様はどうされるのですか?」
言葉が足りなかったか、と優斗は外套の前を開き、自らの膝を指差す。
「クシャーナがここに座る。2人分の体温を外套と毛布で包み込んで暖を取る。わかった?」
「……なるほど」
子供とは言え、女の子だ。少しは抵抗があるかと予想した優斗は、幾つか考えていた言い訳を思い浮べる。
「では、失礼します」
考え事の隙を突かれ、唐突に立ち上がったクシャーナに、開けた外套の中へするりと侵入されてしまう。
あっさりだなー、やっぱり羞恥心とかまだないんだろうな、と思いながら、優斗は苦笑する。
「もう少し奥へ移動させて。それと、荷物をまとめて毛布も取らないと」
「あ、そうですね」
素直に立ち上がったクシャーナは、荷物を一か所に集め、その隙に毛布を取り出した優斗はもたれ掛ける事が出来る場所へと移動する。彼女は再びそこに収まる時も妙に上機嫌だった。
おやすみ、と言いあってからしばらくすると、クシャーナはすやすやと眠りについた。
山に入って三日。
朝に寝、昼は歩いて夜は見張りと言う繰り返しの3日間を過ごした優斗は、火を焚いていた。
歩き疲れたクシャーナが、のろのろとこちらに近づいてくる。山は徐々に寒くなっており、追手は気配もない。不用心だとは思うが、背に腹は代えられず、凍えて死ぬよりましだと言う苦渋の決断だった。
火打石を叩き、火種を作る。トーラスやフレイなら数十秒で終わる作業に、優斗はもう10分以上を費やしている。
更に10分を費やし、なんとか作った火種を木に移す際に消してしまい、また火種を作り直す。これを3回繰り返し、ようやくたき火を作り出した時には、辺りは真っ暗だった。
「シンドイ」
「すいません。私が出来ればよかったんですけど」
優斗はそれに返事をせず、燻製肉を取り出して火であぶり始める。
ひさしぶりに温かい食事を摂った2人は、少しだけ回復した体力を無駄遣いしないよう、そのまま眠る事にした。
火があっても毛布が1枚である事に変わりはなく、今日も2人はひとつに固まっている。膝の上で眠るクシャーナを見つめながら、優斗は昔の事を思い出していた。
一緒に住んでいた頃、アイツが優斗の膝の上で眠ってしまった事があった。後でアイスをあげるから、と言うおばさんの甘言に乗せられて、起きるまでそのままにしていた時、ずっと見つめていた寝顔とそっくりだ。きっと、瞳の色が見えないから余計にそう感じるのだろう、と思いながら優斗は相好を崩した。
クシャーナの髪を撫でながら、ここ数日で傷んでしまった事を少し残念に思う。前に触れた時はさらさらだったのだが、今は少しひっかかりを感じる。火が焚けなかった間は、少しでも熱が逃げないように縮こまっていたので、こうやって眠っている姿を観察するのは初めてだと気づき、同時に昨日までの余裕のなさも思い出す。眠ってはいけないとひたすら考え続けた時間は、本当に辛かった。
火の熱とクシャーナの体温に包まれた優斗は、いつの間にか目を閉じていた。
顔の上に落ちて来た水滴で目を覚ました。
「やばっ」
優斗が跳ね起き、その勢いでクシャーナも目を覚まし、目を白黒させる。
「えと、おはようございます」
「おはよ」
完全に寝入っていた事に反省しながら、優斗は空を見上げる。
火を焚いても来ないと言う事は、追手がかかっていないものだと思われる。ならば現状、雨の中を無理に歩く必要はない。しかし、ここには屋根がない。木があるので多少はましだが、体力はひたすら奪われ続ける事になる。ならば雨宿り出来る場所を探すべきだ。そう判断した優斗は、クシャーナを膝から降ろして立ち上がる。
「出発出来るか?」
「すぐに準備します」
クシャーナも色々と限界が近い。それでも優斗の言葉に、素直に従ってくれる。
朝食の代わりに飴を口に放り込むと、2人は黙々と山の中を進んでいく。
空が暗く、しかも雨で視界が制限されている為、歩きにくい上にどれくらい歩いたかも判断しづらい。
雨の中で夜明かしすれば、凍死しなくとも動けなくなってしまう可能性がある。そう考え、焦り始めた優斗のペースは、知らず知らずに上がっていく。
ペースが上がり、しかも雨で今まで以上に体力が削られ続ける。この状況で、それが起こったのは必然だったと言える。
「ん? あれは山小屋か?」
優斗が喜び勇んで走り出した後ろで、クシャーナが倒れた。
山小屋が無人である事を確認してから、ようやくクシャーナが居ない事に気づいた優斗は、引き返す道がどこか判らず、焦っていた。
「くそっ。とにかく低くなってる方を探すしか」
方向を見失いながら、下りになっている方へと走り出す。
何時からいなかったのか、何故気づかなかったのか。
最後にクシャーナの姿を確認したのは、目に雨が入り込み、立ち止まってしまった時だ。その時からいないのならば、かなり遠い場所まで戻らなければならない。
そんな優斗の心配とは裏腹に、クシャーナはすぐに見つかった。
「大丈夫か!」
返事が無い事に焦りながら、優斗はクシャーナを抱え上げ、山小屋へと戻る。
山小屋に入ると、荷物をひっくり返して濡れていない布を探す。幸い、ジュラルミンケースの中に入れてあった衝撃材替わりの布が無事だったので、包んであったノートパソコンと食糧の一部を放り出し、数枚の布だけを取り出す。
倒れていた原因は判らないが、どちらにしてもこのままでは風邪をひいてしまう。そう考えた優斗は、悪い、と断ってからクシャーナの服を脱がしていく。
乾かすのは後回し、と脱がせた服を小屋の端に投げ捨て、乾いた布で体を拭いていく。そこでようやく代わりに着せる物が無い事に気づき、彼女の鞄から毛布を取り出すが、たっぷりと雨がしみ込んでいた。
「ちょっと我慢しててくれ」
びしょ濡れの物よりはましだろうと、体を拭いた布を固くしぼり、クシャーナの身体にかける。
山小屋を見渡すと、地べたに薪が少しと木で組まれた座椅子の様な物がおかれていた。これは役に立たない、と視線を上げると、埃まみれの布が掲げられているのが見えた。
「っし」
布を外し、埃を払うとそれでクシャーナを包む。
火を起こすべきだ。
そう判断した優斗は、まず山小屋の換気を確認する事にした。
窓を1つ発見。木の板が嵌められただけの窓を試しに開けてみるが、手を離すとすぐに閉まってしまう。
薪をつっかえ棒にして窓が閉まらないようにすれば。そう考え、薪を拾って窓と板の間に挟み込む。
もう一方は入口でいいか、と優斗は、火打石を探す。
火打石はすぐに見つかったが、共に入れてあった火種用の木屑が湿っていた。
これでは火が付かない。ならば、と先ほど払った埃を集めようと手を伸ばし、触れたところで自分自身も濡れている事を思い出した。
これでは火種が作れない。優斗は、ちらりとクシャーナを確認してから服を全て脱ぐと、クシャーナにかけてある布を一枚手に取り、ざっと水滴を払ってから服を固く絞って着直す。
何とか乾いた手で集めた埃は、数分をかけて火種となり、それが埃を置く台に使っていた薪に燃え移ったのを確認し、他の薪にも火を移していく。
間抜けにも、火が着いてから小屋にストーブや暖炉の類が無い事に気づく。優斗は少し悩んだが、ジュラルミンケースを空にし、外から石を運んで敷き詰め、その上におく事にした。
「火が大きくなり過ぎない様にしないとな」
優斗は自分に言い聞かせる為にそう呟く。今は敷き詰めた石が濡れていたせいもあり、火の勢いは弱いが、乾いてくれば火も大きくなる。
火を確保した優斗は、クシャーナの額に手を当てた。熱はない、と確認すると、次は胸に手を置き、鼓動を確認する。続いて呼吸を、そしてもう一度断ってから全身に傷がないかも確認する。
優斗が思いつく限りの可能性を確認した結果、どれにも該当しない事から、疲労が限界まで達したのだろう、と優斗は結論する。
ならばもう自分に出来る事はない、と優斗は放置していたクシャーナの服をしぼり、木の座椅子――背中に薪を背負う為の物だった――にひっかけて、火の近くに置く。
その後、火を維持しながら、乾かさないと、と荷物を小屋の中に広げる。作業が終わってからしばらくすると、その疲れから壁にもたれ掛けた優斗は、うとうとと微睡に落ちて行った。
また眠ってしまった事に気づき、慌てて飛び起きた優斗は、まず火の確認を行った。そして火が消えている事を確認してから、クシャーナの居た場所へと視線をずらす。
「って、いない!?」
慌てて山小屋を飛び出し、左右を見渡す。
空には太陽が上っており、少しだけ雲がかかっているが文句なしの晴天だった。
下を向き、まだ新しい足跡を発見した優斗は、急いでそれを追う。下だけを見て走っていた為、地面が途切れた瞬間、コケた。
「っわぁ」
ばしゃん、と水の中に飛び込んだ。
浅い水中で受け身を取った優斗が、起き上がろうと視線を上げると、空色の瞳と目があった。
「おはようございます、優斗様」
返事を返す事が出来ず、ぽかんとする優斗に、水浴びをしていたらしいクシャーナが言葉を続ける。
「昨日は突然倒れてしまい、申し訳ありませんでした」
「あー、それはいいんだけど。いや、良くないか」
ああなる前に伝えて貰わないと困る。
優斗のそんな思考が読める訳もなく、クシャーナは頭を下げ、再度謝罪をする。
「体調は平気?」
「はい。良く眠りましたので」
昨日、クシャーナが倒れたのはお昼も摂っていない時間だ。詳しい時間は不明だが、今は早朝の様なので、良く眠ったと言うのは事実だろう。
「とりあえず、服着たら?」
「そそりますか?」
「いんや」
そうですか、と残念そうに呟くクシャーナ。
優斗は恋愛に対し、偏った守備範囲を持っていない。故に、目の前の光景を見ても、そういえばこのくらいの時のアイツもまったく隠す気配がなかったな、と10年以上前の事を懐かしげに思い出すだけだ。
「恥ずかしくないの?」
「もちろん恥ずかしいです」
クシャーナは、裸だった。水浴びをしていたなら当然だが、タオルすら持っていない、文字通り一糸纏わぬ姿なので、長い髪以外に彼女の裸身を隠すものは存在しない。
まったく恥ずかしそうに見えないな、と思いながら、優斗はほとんど膨らんでいない胸に視線を落とす。
「じゃあ、とりあえず隠さない?」
「うーん。でも、もうじっくり見られた相手ですし」
昨日も今日も、と言葉が続く。
クシャーナの言葉に動揺する事もなく、そういえば全部脱がしたんだっけ、とようやく動き出した脳で考える。怪我の確認もしたので、じっくり見たと言うクシャーナの言葉はある意味で正しい。
「とりあえず、恥じらいくらいは持ちなさい。多少は胸もあるんだし」
俺は父親か。そう思いながら、優斗は心の中でため息を吐いた。
「あるうちに入るんでしょうか、これ」
自分の胸を触るクシャーナの姿に、微妙だな、と思いながら立ち上がり、水から上がる。
陸に上がり、川だったのか、と今さら思いながら、優斗は服を脱ぎ、絞る事で水気を落とす。
「全然気にしてくれないんですね。ちょっとショックです」
「5、6年したら喜んで見させて貰うから気にするな」
わかりました、と返ってきた言葉に、何が判ったんだろうと思いながら、優斗は山小屋へと向かい、歩き出す。
「先に戻る」
「はい」
これは良くない傾向だ、と思いながら優斗はゆっくりと歩き続ける。彼女は自分の家族も帰る場所も、既にないと思っているのだろう。事実、父親は死に、故郷は攻め落とされた。その代替えを自分に求めていると言う事は推測出来るが、優斗はそれに応える事も出来ず、しかし冷たく突き放す事も出来ない。
考えが纏まらないうちに山小屋に到着し、朝食の準備を始めた優斗は「服を忘れました」と布1枚だけの姿で戻ってきたクシャーナが目の前で着替え始めたのを見て、さすがにアレだな、と後頭部にチョップを落とした。
「いたいです」
「レディが見知らぬ男の前で素肌を晒さない」
着替え終えてからするべきだった、と反省しながら優斗はクシャーナが取り落とした服を手渡す。
「レディと認めて下さるんですね。嬉しいです。でも、優斗様は見知らぬ男ではないです」
「他人である事に変わりはないだろうが」
「じゃあ、家族にしてください」
にこりとした表情とは裏腹に、胸元で服を押さえている手が震えている。
寒さのせいじゃないんだろうな、と思いながら、決心のつかない優斗はそれに気づかない振りをした。
「兄弟は間に合ってる」
「では、お嫁さんはどうですか?」
「子供が何を」
優斗に鼻で笑われても、クシャーナは笑顔を一片も曇らせる事無く、話は続く。
「先ほど、レディだと言ってくれましたよね」
「言葉のあやだ。いいとこリトルレディ、だな」
後出しの訂正をしながら、どう躱すかを考える。
頼られるのは良い。だが、縋り付かれてしまうと、優斗も身動きが取れなくなってしまう。
「5年後、楽しみじゃないですか?」
それは楽しみかもしれない、と思いながら、その頃には子供に見える範囲がそこまで到達してそうだ、とも優斗は思った。
自分が使えるモノ、全てを動員してすり寄ってくるクシャーナ。文字通り必死な行動だからこそ、優斗は安易に応えない。
「じゃあ、5年後に考えるって事で」
「過程もちゃんと見ていてくださいね」
そう言って胸元から服を退かそうとしたクシャーナの頭に、優斗は再びチョップを見舞った。
朝食を終え、山小屋にマーキングを終えた優斗は、今後の事について相談する為に、クシャーナと向かい合った。
「今日、明日と休んで明後日出発でいい?」
「おまかせします」
風邪をひいた様子もなく、元気な姿のクシャーナに、これなら大丈夫だろう、と優斗は小屋中に視線を巡らせる
「じゃあ、今日は荷物全部洗って乾かすから」
「……へ?」
近くに水があり、荷物は全て雨を被っている。一部、泥を被っている物まであるのだから、出来る時に綺麗にしておくべきだ。優斗のそんな主張に、クシャーナは乾いた笑を浮かべながら、それでも素直に手伝った。
屋根のある場所で休めたおかげで多少は回復したとはいえ、優斗はまだ疲れが残っている。それにも拘わらず行動を開始したのは、何かをしていないと落ち着かなかったからだ。クシャーナも何かしている間は余計な事を考えずに済むだろう、と言う思惑もある。
1日をほぼ洗濯で使い切り、次の日には道を探して歩き回った。山小屋があるのだからここへ続く道があるはずだ、と言う推測は正しく、川沿いとその逆方向に道に見えなくはない場所を発見出来た。
「川沿いを登ろうと思う」
クシャーナは相変わらず優斗の決定に異論を唱える事なく、水に困りませんね、と言う言葉だけが返ってくる。
「明日は早起きするから、早く寝る事」
「はい」
山小屋の中でも、相変わらず2人はひとつに固まって眠っている。
返事とは裏腹に眠る様子のないクシャーナ。昨日は洗濯疲れであっさり眠ってしまったが、今日はほとんど留守番で体力が余っているのだろう、と優斗は髪に手を伸ばす。
「そろそろ向こうも山まで来てるだろうし、合流も近いかな」
むしろ早く合流したい、と優斗は思う。半日、何もしない時間が出来てしまったせいで、どうしてもずっと隣に居た相手が不在である事が気になってしまう。
「でしたら、ここで待ちますか?」
クシャーナの提案した内容は、優斗も考えていた事だ。
ここで待ち、トーラスやフレイが来るのを待つ。それはクシャーナを連れて歩かなければならない優斗にとって、魅力的な案だ。しかし、彼らが何時ここまで到達するのか判らず、食糧の残りも乏しい状態では、却下せざるを得なかった。
早く人のいる場所へ、と考え、集落に着けば情報収集をしなければならない事、そしてその結果、クシャーナが事実を知ってしまった場合の事に思い当たる。
何かあっても、ここならまだ対処し易い。そう考えながら、優斗がクシャーナの髪を手櫛で梳ると、彼女はくすぐったそうに身を震わせた。
「クーナ、聞きたい事があるなら答えるよ」
クシャーナの動きが止めても、優斗は髪に入れた手を止めずに続ける。
こちらから語ると言う事をしなかったのは、彼女に心の準備をさせる為だ。その方が突然告げられるよりも、傷は浅く済むかもしれない。その思考の裏に、自分から語る事への忌避感があった事に、優斗は気づかない。
「本当になんでも、ですか?」
「個人的な事でなければ」
クシャーナがずるずると体をずり下げ、胸の前にあった頭が膝へ落ちる。
真っ直ぐに見上げる空色に視線を落としながら、優斗は言葉を待つ。
「ユーシアはもうダメなんでしょうか?」
「陥落したそうだ。騎士団は市民を避難させたら逃げる、と言っていたらしい」
1つ瞬きをしてから、クシャーナは質問を続ける。
「私の家族は?」
「君のお父さんは亡くなったそうだ。それ以外はほとんど行方不明」
瞳に動揺の色が走り、少し潤む。
それでもクシャーナは、泣き叫ぶ事も、口を閉ざす事もなかった。
「私はどこへ逃げればいいのですか?」
「わからない。トーラスが色々調べて来てくれると思うから、それを聞いてから考える予定」
同じ外見特徴を持つ優斗は、その点に関してだけはクシャーナと一蓮托生だ。
現在、優斗が考えている最有力候補は、ほとぼりが冷めるまで、公国内で市壁のない村などを巡って行商をする、と言う物だ。フードで髪や顔を隠しての行動になるので大きな商売は出来ないが、食い繋ぐだけが目的ならばなんとかなるかもしれない。
「優斗様、お願いがあります」
「ん?」
何を言われるのか、優斗は少しだけ予想がついていた。
「一緒に居てください」
「行先が決まるまでは一緒に居る」
今はその返事が精いっぱいだった。
子供1人すら安心させられない自分が情けない。そんな風に考えながら、優斗は話を打ち切り、眠りについた。
山小屋を出発した日のうちに、小さな集落に到着した。
その集落では広場に大勢の人間が集まっていた。
「なんかヤバそうだから、しばらく様子見で」
「はい」
こっそりと覗き見をしていると、集まっていた人間が、先ほど優斗たちが来た道へ歩いていく。
これはもしかしてこっち側から山狩りをしているのでは。ならば即逃げなければと、優斗はクシャーナの手を引く。
「本当にここを探せば見つかるんだな?」
「そう打ち合わせをしたそうです」
慣れない敬語を使わされている、と言った雰囲気の声には聞き覚えがあった。
再度、広場をこっそりと覗き込むと、そこにはトーラスの姿があった。
「帝国との和平を実現する為の重要なお方だ。見つからなかった、ではすまされないぞ?」
「はい。では、俺も探して来ますので」
行け、と指示されたトーラスがこちらに向かってくる。
逃げるべきか悩んだ優斗だが、帝国との和平、と言う言葉が気になり、彼の進路上に麻袋を1つ投げ出す。
「っと、踏むとこだった。って、これ、ってぇ!?」
「しっ」
優斗が驚くトーラスを壁の影に引っ張り込む。
「よかった! 無事だったんだ」
「当たり前だ。で、後ろのその人は?」
トーラスの声に寄って来たのだろう。先ほど、トーラスに指示を出していた男がそこに立っていた。
「詳しい話は馬車の中でする。とりあえず戻るぞ」
横暴な態度に少しむっとする優斗。それでもその言葉に従ったのは、トーラスがそう促したからだ。
馬車に乗り、なだらかな道を下り始める。しばらく無言が続き、優斗が咳払いをする事でようやくトーラスが口を開いた。
「こちらがクシャーナ・ユーシア様です」
「お初にお目にかかります。私は」
「細かい挨拶はいい。
俺はザイル・カートン。カートン侯爵の息子だ」
侯爵は結構偉い位だったかな、と思いながら、優斗は自分も挨拶をすべきか悩む。
「そしてこちらが、商人のユートさんです」
「優斗と申します」
「商人? 騎士か護衛ではないのか?」
「はい。私は単なる行商人です」
ザイルは一瞬だけ胡散臭そうに優斗を見たが、すぐに興味を失う。
判りやすい貴族様だな、と思いながらも、優斗は表面上、営業スマイルを浮かべておく。こうしておけば不況を買いにくい事は、ルエイン相手で実証済みだ。
「審判のギフトを持つ貴方に嘘を吐いて仕方がない。だから必要な事を先に説明したい。構わないか?」
クシャーナは優斗に目配せをし、頷いたのを確認してから首肯する。
その一連の流れに、ザイルは不思議そうな、そして少しだけ不愉快そうな表情を浮かべた。
「ふん。まず、王国軍がユーシアへ攻め込んだのは知っているな?」
「はい」
「奴らはそのまま帝国へ攻め入り、ユーシア騎士団と帝国軍の連合部隊に敗れ、敗走した」
「騎士団は生き残っているのですか?」
帝国軍と共に戦ったなら逃げ切って、生き残りも居るのだろう、と考えた優斗の予想を裏切り、それはクシャーナにとって残酷な言葉となって返って来る。
「領主と次期当主は死亡が確認されている。残りは帝国内に逃げ込んだらしく、今も行方不明だ」
クシャーナの顔が蒼白になる。しかし、ザイルは気にする事なく言葉を続けていく。
「ともに王国軍をひけた事もあり、正式に和平を結ぶ事になった。その使者に、今回共に戦ったユーシアの新領主でもあり、帝国との混血でもある貴方が選ばれた」
ターキンの話では、王国と共に帝国に攻めると聞いていた。あれは誤報だったのだろうか。
優斗が心の中で発した疑問に答える様に、ザイルの言葉は続く。
「要するに、予想以上に帝国が強かったから、王国よりもそっちと付き合いたい、って訳だ。
それでクシャーナ・ユーシア。君はまだ契約の権利を有しているのか?」
「あ、はい。多分」
「ふん、曖昧だな。まぁいい。後で確認させる」
契約の権利の有無を確認するには、意味のない、すぐに効力を失う契約を行って見るのが判りやすい。
国家間、領間の交渉でも、商人と同じ、契約のギフトが使用されている。故に、貴族の当主になるには、契約の権利を保持している必要がある。商人が一番下とは言え、特権階級に属する事が許されているのは、貴族に無茶な契約をしかけるな、と言う意味もあるのだろうと優斗は思っている。
「商人」
「はい、なんでしょうか」
てっきりこのまま無視されると思っていた優斗は、声をかけられた事に驚きながらも、営業スマイルは崩さない。
「クシャーナ・ユーシアを守り、ここまで連れて来てくれた事に対し、後で褒美を取らせる」
「ありがとうございます」
貰える物は貰っておこう、と思いながら、優斗はずっと気になっている事を口に出来ずにいた。
結局、それを口にできないまま、馬車は街へと到着した。
山歩きメインのクーナ回でした。
カットしようかと思う部分もあったのですが、結局こうなりました。
早く優斗回も書きたいので、ぼちぼち進めて行こうと思います。