8 帰還
夢からたたき出された。
身体を起こして、ヘッドギアを外す。見慣れた、ブラインドの降りた部屋。いつもの私の部屋だ。そう、これが私が生きている世界。
途端に、とてもおかしくなって私は笑った。笑い続けた。
笑いがおさまると、視線をデスクに移す。そこには、クレパスで描かれた一枚の絵が飾られている。飾ったのは私ではない。描いた本人だ。
お気に入りのネグリジェを着て、私の前に飛び込んで来た少女。
娘に裏切られてから――いや、それよりずっと前から孤独だった私にとって、ただひとつの光明。
彼女をこの家に連れて来たのは、桐島だった。
「両親の事は置いて、さやちゃんに素敵なおじいちゃんの思い出をあげてください」と、桐島は言った。
持病を持ち、先は長くないと宣告された娘の結婚相手に私が選んだ男だ。その鈴子が桐島との結婚を承諾せずに、もうひとりの助手と共に私の元を去ってからも、彼はずっと私の側にいた。
「何が望みだ?」と聞くと、「十年も側に居るんですよ。ぽっと出の新人にこの立場は任せられません」と、きっぱり答えた。
だから、私は謝らなかった。きっと、誰よりも私を罵って良い彼に。
鈴子が死んだ事を知っても、私は葬式にも行かなかった。私を裏切った報いだと思っていたし、心のどこかでは桐島への負い目もあったのかも知れない。
でも。
桐島が孫を連れて来た時、それが間違っていたのではないかと思ったのだ。もしかしたら、赤ん坊であったこの子を抱くチャンスだってあったのかも知れない。鈴子にだって、もっと安らかな死を与えてやるべきだったかも知れないと。
さやもまた、鈴子と同じ病で亡くなった。幼すぎる命は、小さな光明は、再び私の前から消えたのだ。
絵の中で笑う、少女。
私はその子に、満足する「おじいちゃん像」を与えてやれただろうか。あの子の、たったひとつの願いすら叶えてやれなかった、私は。
しばらく待っていたが、桐島は来なかった。
だから、ブザーを押して呼ぶ。やがて、どたどたと足音が近づいて来る。
「すみません。ちょっと居眠りを……まだ、ログアウト時間じゃないですよね? 先生」
確認するように言う、桐島。
「もう、あの世界に入る事はないよ」
「どうしたんですか?」
「アカウントバンされた」
一瞬、唖然とした顔をした桐島は、次にはぶっと吹き出した。
「何をやってるんですか」
年甲斐もなく。
自分でもそう言いたくなった。だが、あの世界に生きた私は、それを選んだのだ。
ヴァンヘイル。彼に、叱咤されたような気がしていた。
「本当に、何をやっていたのだろうな、私は」
終わらない物語などない。ならば私も、自分の物語を完成させるべきなのだ。ちゃんと、自分が生きている世界で。
「あの引き出しに紫色の小箱が入っていると思う。取ってくれないか?」
緑色のペンダント。翡翠だ。純度が低く、中に入った遺物が翼を広げた鳥に見えた。翡翠は魔除けになると聞いた。鳥が好きな鈴子の、二〇歳の誕生日に渡す予定だった。
一度は、捨てた。
それが、気がつくとまたこの引き出しに入っていた。誰の仕業かは解っていたので、気がつかないふりをして引き出しごと封印していた。
桐島が差し出した箱を手に取り、私は肘掛けに手をかける。
ずっと、リハビリを続けていた。立てる筈だ。
終わらせなければならない。彼女たちが居る場所に、やがて訪れる時の為に。
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その家を訪れたのは、初めてだった。
何度も招待状が届いていた筈なのに、それを私は全て黙殺した。私の言いつけを守らなかった、鈴子。私に反乱を起こした二人を、許す気にはなれなかったから。
私に反抗した、その末路がこれだという顔をして私を迎えたのは、眉元大地。
くしゃくしゃのシャツを着て、猫と戯れていた。
「久し振りですね、眉元くん」
眉元は、無精髭に覆われた顔を上げ、まるで幽霊でも見るような目で私を見た。
「先生……どうして?」
「君に言っておきたいことと、聞いておきたかった事があったことを、思い出したのですよ」
眉元は、一礼をして立ち上がった。
「すみません、ちょっと顔を洗って来ます」
湯気のたつコーヒーを運んで来た眉元は、髭を剃って着替えて、先ほどよりもずっとすっきりした男になって戻って来た。
その間、私はずっと彼の飼い猫であるペルシャ系の猫を撫でていた。「ベル」と呼べば、懐いてくる。聞いた通りだ。
「ヴァンヘイルは、先生だったんですね。全然気がつかなかった」
少し困ったように、眉元が言う。
「私は、途中から気がついていたよ。黒炎がランド――つまり、君だと言うことは」
イベント更新と同時かそれより前にバグ技を使い、エデンからエルドラドに移動していた黒炎とリンコ。そんな事が出来るのは、運営側の事情を知る者だけだ。
ヴァンヘイルとしてあの世界で再会した時は、そこまでは考えていなかったが、ログアウト後に桐島の口から眉元大地の話を聞かされた時に、そう気づいた。
黒炎は彼なのではないか、と。
それでもヴァンヘイルの目から見た黒炎は、理想家で、人が良くて、そして強い男だった。
私は、彼の何を見て来たのだろう。彼の何を、知っているつもりでいたのだろう。鈴子が選んだ相手を見ようとも、理解しようともしなかった。
「このペンダントは……」
「ベル」の首にかかったペンダントに気づいて、眉元が手に取る。
それはリンコが持っていたものとよく似ている。さやには見せた事があったので、あの子が形状を眉元に話したのだと思っていた。
「鈴子の為に用意したものだ。渡すことは、なかったが」
ベルの首から外して、眉元に渡す。彼はそれを抱きしめ、泣いた。
それだけで十分だった。
私と彼とは、常に平行線。
だが。
近づいているように見えることもあるはずだ。
「そうだ、聞きたいとは何ですか?」
思い出したように、眉元が言う。「ああ」と、私は笑った。
「今から、桐島くんと花見に行くんだよ。さやを連れて行ってあげる約束の場所へね。君も一緒に行かないか?」
眉元は、答えない。
ただ、何度も頷いていた。
ペルシャのベルが、啼いた。私の足にまとわりついて来る。
そうだ、お前もずっとそこに居たのだな。
だったら一緒に行こう。そう、四人で。あの約束の地へ。