3 冒険者の村
アラーム音が、かなり騒々しく鳴り響いている。手を伸ばして電源をオフにすると、やっと静寂が戻って来た。
ヘッドギアを外すと、いつもの白い部屋が目に入る。
『COCOON』へのログイン時間は、一時間と決められていた。その時間が経過したので、あちらの世界を強制退去させられて、私は「現実」に帰って来たのだ。
かなり長い時間をあちらの世界で過ごしたような気がしていた。だが、現実にはたった一時間。時間の流れ方が、全然違うのだろう。
「あ、お目覚めですか、先生」
軽くノックの音が響き、見慣れた小太りの男が入って来た。
「お帰りなさいと、いう感じですかね?」
「お帰りなさい」と改めて言われて、私は自分が落胆している事に気がついた。
『COCOON』は、ただのゲームに過ぎない。それでも――私はもう少し、ヴァンヘイルとして生きていたかった。
「どうでしたか? ゲームの世界は。楽しかったですか」
「そうだな。思った以上にはまりこんでしまった」
素直に答える。
「できればもう少し、夢を見ていたかったよ」
ブラインドの下りた、暗い部屋。白い壁、手が届く場所に置いてある、本棚。そしてベッド。私の部屋だ。その空間だけが、今の私の世界。私はそこで生きている。
その、何と小さな事か。
「お疲れのようですね。ベッドに戻りますか?」
「いや、このままで良い」
「でも、少し体勢を変えた方が……」
「ほおっておいてくれ」
ぴしゃりと言い放つと、男は少し哀しげな顔をした。
桐島という名の男は、二十年以上前から私の側に居る。最初は「助手」だった。それがいつか「秘書」になり、今では「世話役」と呼ばれている。
二十年間ずっと、私の我が儘を聞き続けてくれている。考えて見れば少し気の毒な男だ。しかも、まともに身体を動かす事も出来なくなった今、私の側にいつも居るのはこの男だけになっていた。
「今日は、僕の言うことを聞いてもらいますよ。本当に帰ってこられるのかと、すごく心配していたんですから」
もっともらしく言われて、私は腹立たしげに彼から目をそらした。
感謝はしている。気の毒だとも思っている。だが私はこういう時のこの男の態度が大嫌いだった。
「それは、悪かったな。うるさいのが帰って来て」
「また、そんな嫌味を言う」
困ったように溜息をつく、桐島。そうやって、本当に言いたい事を誤魔化す彼の態度が私の癇に触るのだ。
「でも、お元気そうで安心しました」
「心にもない事を言うな」
「先生、いくら僕でも怒りますよ」
むっつりと黙り込んだ私に、桐島はもう一度溜息をもらした。
「少し早いですが、お食事をお持ちしましょうか?」
私は首を振った。腹は減っていない。空腹感など、ここ数年感じた事もない筈だ。
「気分転換に散歩でも?」
男が指さす先には、車椅子がぽつんと置かれている。
「いや、良い」
『COCOON』での記憶は、まだまだ新しい。
あちらの世界では私は戦士で、会ったばかりの女と共に命からがら街を後にして、空腹に嘆いていた。
やっとたどりついた村で夕飯にありつき、酒を飲んでいる途中だった。
その全てが、今の私にはない。
自由に動く強靱な身体も、若い女と出会う事も、空腹という感覚すら、私には与えられないのだ。
私は、冒険者ヴァンヘイルではない。その現実が、寂しさを産む。
「また明日、具合が良ければ出来ますよ」
私はさぞかし哀しい顔をしていたのだろう。桐島が気遣わしげに毛布を纏わせてくれた。
「明日、なのか?」
「駄目ですよ。最初からそういう約束でしたからね、先生」
ヘッドギアが、私の手の届かない場所に置かれる。今日のうちにまたログインするのは無理のようだ。
「解ったよ」
「そうそう、会いたい人には会えたんですか?」
私は、桐島を睨んだ。この期に及んで、その話題を振って来るのか。
「解らない」
「解らないんですか?」
目を瞑れば、思い出されるのは、肩にインコを乗せた少女。
ヴァンであった時は、気がつかなかったが、彼女が「そう」なのかもしれないし、違うかも知れない。そもそも、彼女がどんな顔をしていたのかも、今となってはよく解らない。
『COCOON』は、夢と同じだ。あちらに居る時は現実の私のことを忘れてしまい、帰って来ればあちらで起こった事は幻のようにあやふやになる。
「きっと、君に出会っても解らないのだろうな」
私の言葉に、桐島がおかしそうに笑う。
「そうなんですか? じゃあ僕もやってみます」
「そうだな。君なら口うるさい老人の役がお似合いだ」
「また、そんな事を言う。僕だって、意地悪で口うるさくしているわけじゃないんですよ」
「そうか。てっきり腹いせかと思っていたよ」
「先生には、感謝していますよ。本当に」
「そう思うなら、しばらくひとりにしてもらえるか?」
桐島が、私の事を考えてくれているのは解っている。沈んだ心を浮上させようとしてくれているのも、また。だから彼には申し訳ないことは解っていたが、私はもう少しあの世界の余韻を味わっていたかった。
会釈をした桐島が扉の向こうに消え、足音が遠ざかって行く。何もない部屋に、沈黙が落ちる。
私は長い間、独りだった。
今より身体が動いて、仕事をこなしている時さえも、ずっと独りだった。
小さな世界で、寝て、起きて、食べて、仕事をして、また寝て。心が死んでいた。そんな事にも気づかなかった。
そんな私に光をくれたのは……。
カーテンの狭間から差し込む、弱い光。その光をまといつかせた少女の幻影が浮かぶ。
彼女は、もういない。
その時に再び死んだ心が、小さく疼く。無謀な冒険者ヴァンヘイルの影響だろうか、忘れていた感情があふれ出す。
彼女は、もういない。だから――その魂を留めようとするのは、残された者のエゴに過ぎないのだ。
- - - - - -
目を開けると、ブルネットの髪が視界に広がった。
俺の隣で、テーブルに突っ伏しているのは、アゼリア。彼女は俺がログアウトする直前と同じ場所で眠っていた。
指を伸ばして、その柔らかそうな髪に触れようとすると、俺の手が彼女をすり抜けた。
ぎょっとして、慌てて手を放す。
「おや、おはよう。ヴァン」
そう言って奥から出て来たのは、昨日のバーテンダー。どうやら、この店の店主のようだ。
「アゼリアなら、あちらに帰ってるよ。しばらくこの村の中をうろうろしていたんだけど、あんたがいつ戻って来るか解らないからな」
言われてみれば、アゼリアの衣装はログアウト前とは違っていた。薄手の革鎧を脱ぎ、綺麗な色のシャツと動きやすそうなパンツを着用している。
「なんで、ここで寝てるんだ?」
基礎知識として、ログアウトする時は宿屋のベッドか自宅で行うのが一番安全である事は知っている。
「ベッドでログアウトするように言ったんだが、ここで良いってな。惚れられてるね。ヴァン」
「それはない」
キスしただけで力いっぱい頭を叩かれたのは、記憶に新しい。
「ログアウトすると、こんな風に影が残るのか?」
「酒場や宿屋、後は自宅でログアウトすると、そうなるな。他の場所だといきなり消える。で、ログイン時にその場所に突然現れる事になるから、危なくて仕方がない」
「狩り場で突然落ちたら、えらいことだな」
それは、オンラインゲームにはよくある現象だ。だが『COCOON』では大きな接続障害は、今の所報告されていない。
アゼリアは、安心しきった寝顔をしていた。油断しすぎだろうと苦笑する。もっとも、これは「影」なので、俺には手の出しようもないが。
「出会ったばかりの相手なのに、何でこんなに気を許した顔をしてるんだか」
呟くと、マスターが髭を揺らして笑った。
「あんただって、暢気な顔をして眠っていたぞ」
それを言われると、さすがにきまりが悪い。目をそらす俺に、更にマスターがたたみかける。
「あんたらは、まだパーティは組んでないんだってな」
「そんな余裕は、全くなかったよ」
いきなり戦闘に巻き込まれ、街に行くと「犯罪者」扱いだ。幸い、手の甲の印は消えていたが――アゼリアは俺にとって、トラブルメーカーなのではないかと疑ってしまう。
「あちらの世界の人脈は、こちらには持ち込めない。そういう仕組みになっている。例え友達同士でプレイしたくても、そう簡単には巡り会えない世界だ」
マスターに言われて、俺は顔を上げる。
「多重世界だから?」
「その通り。どこの世界に生まれるかは、プレイしてみないと解らない」
「何故、そんな仕組みにしたんだろう?」
「さて。それは解らないが、そんなゲームを求める者が少なくとも一億人以上は居るんだ。面白いものだ」
気のあった友達同志でプレイするのではなく、ひとりで生まれ、誰かと出会い、交流を広げる。彼だって、そうやって「冒険者の村」の一員になったのだろう。
職人たちが集まって、ひとつの村を造る。それが、今更ながらとても凄い事のように思えた。
「あんたは、冒険者になろうとは思わなかったのか?」
「最初は、ソロプレイ可能の戦士になるつもりだったんだが……欲張り過ぎて、中途半端になっちまったんだ。自給自足をするつもりで、「釣り」とか「料理」とか、変なもんばっかり覚えちまってな」
髭を揺らして、男が笑う。
「結局、そっちの技能を伸ばして、この店を持つ事にした。冒険者の村には絶対に「酒場」が必要だしな」
それは、すごい方向転換だと思った。だが、そういう生き方もあるのだろう。
「そうそう、イベントの続報が入っているぞ。噂の粋は出てないらしいが、近々『バッガードの武具』のレプリカが出回るらしい」
「そうなんですか?」
突然、となりから声が上がり、俺は飛び上がった。
いつの間にかアゼリアが目を覚ましている。
「あ、おはようございます。ヴァン。ところでマスター、今の話って?」
『バッガードの武具』とは、『起源の冒険者』たちの為に誂えられた特別製の装備品だ。誂えたのが、ドワーフの鍛冶屋のバッガード。なので総称して『バッガードの武具』と呼ばれている。
と、いう話を俺は知っていた。多分、俺が持っている「基礎知識」の中にあったのだろう。
「起きたか。アゼリア。レプリカの話は、うちを利用してくれる客が『速報』を飛ばしてくれたんだ。詳しい話は街の情報屋に聞かないと解らん」
「ここにも、情報屋が居れば良いんですけどね」
アゼリアが拍子抜けしたように嘆息する。髭面が笑った。
「そこまで便利になっちまったら、逆に面白くないぞ。ここで全部揃うじゃないか」
それもそうだ。「速報」が入るだけでも、この村を拠点にしている冒険者にとっては便利な筈。
「あ、あんたらも良ければ情報を寄越してくれよ。アゼリアなら、お手の物だろ?」
「まあ、そりゃあ。でも鳥を連れていると、情報屋と間違えちゃうから嫌なんですよね」
「鳥?」
不思議に思う俺に、アゼリアが頷く。
「鳥を使役して、伝書鳩代わりに使うんですよ。でも、鳥を連れて歩いてるのは情報屋だっていう認識があるから……」
「色を青にしなければ良いだろ? メッセンジャーバードは青い鳥だって決まってるんだから」
バーテンダーに言われて、アゼリアが「はいはい」と承知する。一件落着。だが、どこか釈然としない気分がもやもやと残る。
何だろうと考え、すぐに気がついた。
「俺たちが一緒に旅をするのは、決定事項なのか?」
「勿論」
アゼリアが、嫣然と笑った。
「私がひとりで旅をするのは、無謀ですから」
それは、昨日俺が言った台詞だ。だが、別に「仲間」になると言ったわけではない。
「ヴァンは、嫌なんですか?」
上目遣いに見据えられて、俺の覚悟は決まった。嫌な訳がない。ログインした時に隣に彼女が居て、とても安心したのだから。
「じゃ、俺が立会人になろう」
マスターが言う。
こうして、俺とアゼリアのパーティが誕生する事になった。