1 エデン
瞼の奥に光を感じた。ゆっくりと、重い瞼を動かしてみる。
と――、「俺」の目に映ったのは、真っ赤な口を大きく開けたドラゴンだった。
喰われる!
思った瞬間には、身体が動いていた。マントを跳ね上げると、右手には既に銃が握られている。
身体が勝手に動くのか。さすが冒険者だなと、どこか遠い所でそう考えたような気もするが、現実にはそんな余裕は全くない。
勝手に反応する両手を後目に、全身にアドレナリンが分泌されて嫌な汗が吹き出している。何より、悲鳴が全く止まらない。
「恐れることはない。ヴァンヘイル・ソウルダム二世」
変に落ち着いた声が、響いた。すると、ドラゴンが小さく頭を垂れる。
ドラゴンの後ろから姿を現したのは、白髪で髭を長く伸ばした老人だった。灰色のローブを纏い、手には妙な形の杖を持っている。ムービーで見る魔法使いそのものだ。
「ようこそ、エデンへ」
「エデン……?」
既に口の中はカラカラだ。俺は唾を飲み込んで、老人の言葉を繰り返した。
鼓膜を通して、初めて聞いた「俺」の声。声帯がかすかに震えたのが解った。そう、これは確かに俺の喉から出た声なのだ。そう、俺はこの世界に生まれたのだと、改めて実感する。
「さよう。『COCOON』は、いくつかの小さな世界で成り立っており、中でもそなたが生まれたこの世界は、「エデン」と呼ばれておる。これからそなたはこの「エデン」で生きて行く事となるのだ」
しわがれた老人の声が石造りの室内で反響して、わんわんと響いている。とても、うるさい。
「そうそう、自己紹介がまだであったな。儂は、サイフォーン。この世界に生きる連中は、儂のことを予言者と呼ぶ。さて、ヴァンヘイル・ソウルダム二世よ……」
「俺を、フルネームで呼ぶな」
NPCだと解っていたが、気に障ったので取りあえず凄んでおく。案の定、老人は顔色ひとつ変えなかった。
「この世界でどう生きるかは、そなたの自由。冒険の旅に出るもよし、街に店を持つも良し。だが、見たところではそなたは戦士志望のようだな、ヴァンヘイル・ソウルダム二世」
「うるさい」
俺は、手に持った銃を構えた。
そんなつまらない話を聞くために、生まれたわけではない。
何より、初めて見た光景がドラゴンの顔で、初めて抱いた感情が恐怖だった事に、とても苛立っていた。
引き金を引くと、白い光線が矢のような起動を描いて老人の額に吸い込まれて言った。と見るや、その顔の上半分が吹き飛び、血と体液がまき散らされる。
狭い室内は異臭に満たされた。
「儂の頼みを、聞いて……」
老人であったものは、それでも身体を痙攣させながら俺に歩み寄り、半分以上吹き飛んだ頭からの血に全身を染めながら、行動を続けようとしている。
さすがに、気分が悪くなってきた。
自分の流した血で全身を汚しながらも、歩みを止める事のない、老人。そしてその傍らでは例のドラゴンが、異変に気づきもせずにじゃれついている。
思った通りだ。これは、初心者用のチュートリアルクエストに違いない。
だが……何事もなかったかのように行動を続けようとする老人の呂律がどんどん回らなくなってくると、また、嫌な汗が出てくる。
俺は、慌ててその部屋を飛び出した。
老人もドラゴンも、俺を追いかけて来ることは無かった。それでも、あの生ける屍が背後に迫っている気がして、薄暗い廊下を駆け抜ける。
立派な作りの扉を開け放つと、まばゆいばかりの光明に包まれる。
青い空には、太陽の他にいくつかの月がうっすらと浮かんでいる。
そう、これが「COCOON」。空に浮かんでいるあの月は、「繭」だ。その繭世界に生まれた俺たちは、その世界で生きる。
――もう、「仮想現実とは言わせない」。そんなキャッチコピーが脳裏を過ぎった。
太陽に向けて手をかざすと、くっきりと血管が浮かび上がる。現実には決して在ることがなかった、力強くがっしりとした、俺の手。そう、これはこの世界で生きる「戦士」の手だ。
なるほど。
確かに、これは今までのコンピューターゲームとは違う。
俺は、自分がするべきことをする為にここに存在しているのだ。余計なチュートリアルなど、必要はない。
そう、自分に改めて言い聞かせてしまうのは、NPCとはいえ人を撃った罪悪感なのかもしれない。
傷つけた相手の痛みを、ありありと体感させる。確かにこれは、「仮想現実」とは言えない。
息をおもいきり吸い込むと、濃密な大気が体中を満たした。一歩、前に踏みだしたその先にあるのは、分かれ道。
右に行けば、うっそうと茂る森。左には少し離れた先に川が見える。
俺は、左の道に向かった。
身体は自由に動く。走ろうと意識するまでもなく、足が勝手に動く。しかも、身体が軽い。
これが、「COCOON」!
川にかかる橋を渡ろうとして、いきなり足を踏み外した。
浮遊感、そして、落下。
落ちた? 橋を渡ろうとした筈だ。それなのに、何故? いや、そんな事を考えている場合ではない。いや待て。これはゲームだ。だから怪我をしたりは……そこまで考えた時に、尾骨にとんでもない痛みが走った。
尻をしこたまぶつけたらしい。とりあえず、立ち上がれない。
と。
土手に生えた草を掴み、呻く俺の頭上から笑い声が降って来た。
「その橋は、チュートリアルクエスト用の戦場に繋がる橋。クエストを放棄した者は渡れないわよ」
そう言って土手の上でくすくすと笑うのは、黄色い鳥を肩に乗せた少女だった。
身体も出来ていないが、可愛い顔立ちの――出来れば、五年ほど後の姿にお会いしてみたいタイプの女。
「何だ、お前は」
「あたし? あたしは、リンコ。ちなみに、この子はインコ」
肩の上の鳥を指さし、少女は付け加える。そんな事は、どうでも良い。というか、ちょっとイラっとした。
「あはは。どうしよう、黒炎。彼、怒ったみたい」
「とりあえず、上がって来いよ」
少女の隣から顔を覗かせたのは、黒い全身鎧を纏った――俺の数倍も重装備の男だった。その男が差し出した手を取り、何とか土手から上がる。
「ありがとう、助かった」
「いや、別に。あんたを見つけたのは、リンコだ」
ぶっきらぼうに、男は答える。リンコと違って、こちらはかなり寡黙のようだ。
その間に当のリンコは俺をまじまじと見て、「ふぅん」と呟き、やがて納得したように頷く。
「あなたが、ヴァンヘイル・ソウルダム二世でしょ?」
にっと、少女が笑う。俺は、驚いて彼女を見た。
「あんたもしかして、GMなのか?」
俺の言葉に、リンコは思いっきり嫌そうな顔をする。
「どうして、そう思うかなぁ」
「そうでなければ、何故俺の名を知っている?」
「だって、ニュースになってるから」
と、また意味ありげに笑う、リンコ。
子供のくせに、表情がすごく巧みだ。いや、子供とは元々そんなものだったのかも知れない。
だが、次の言葉は更に俺を驚かせるものだった。
「予言者サイフォーンが、生まれたばかりの戦士に殺されたって」
そうだ。確かに俺はそんな名前のNPCを撃った。
頭を半分吹き飛ばされながらも、俺に歩み寄ってきた。あの悪夢のようなシーンが反芻される。
「あいつ、死んだのか」
撃たれた後も動いていたから、てっきりNPCは死なないのだと思っていたのだが。
「額を射抜かれたら、普通は死ぬでしょ? 重要なNPCは基本的に生死判定に成功するように出来ているけど、あなたが部屋を出た時点で必要性が無くなったから普通に死んだ筈よ」
なるほど。あの男がしゃべり続けていたのは、俺に例のチュートリアルの説明を聞かせ続ける為だったのか。
では、もう初心者用のチュートリアルは行われないのか? などと思っていると。
「ま、もう新しい予言者サイフォーンは生まれてるけどね」
と、事もなげにリンコが告げ、
「あいつが殺されるのは、いつもの事だからな」
寡黙な重装戦士が初めて、笑みを見せる。
「あ、こっちのおっきいのは黒炎。見ての通りつよーいおじさんだから、無謀なこと考えちゃ駄目よ」
勿論、そんなことは考えていない。普通に、俺よりかなり強いだろうなと想像出来る。
「あの男は、そんなに殺されているのか?」
「邪悪な死霊術師サイフォーンを殺した所でチュートリアルクエスト終了という流れなのよ。クエストをすっとばした初心者に殺されたという例は……他にあったかな? あんたもしかして、『短気』で『残虐』だとか?」
「そうだったかな……」
よくよく考えて、首を振る。
「不利な特徴」はそういう風に使われるのか。では、俺が人を殺す程に苛々してしまったのは、リアルの自分の精神状態に問題があるのかも知れない。
そう、よくよく考えなければ解らなくなっていた。「俺」が「誰」なのか。この世界が――実は、ゲームの世界だという事も。
「ちなみに、あんたらは何でここに来たんだ?」
「そんなの、予言者を殺した初心者の顔を見に来たに決まってるじゃない」
きっぱりとリンコが言い、後ろで黒炎が頷く。
「えらく暇人だな」
呆れる俺に、「あら」とリンコが眉を上げた。
「もしかして、旅や冒険が世界の全てだと思ってる? これだって、大切な役目なのよ――残念ながら、今は言えないけど」
やばい。この女、面白い。守備範囲外だが、妙にそそるものがある。単に、初めて会ったプレイヤーキャラクターだからなのかも知れないが。
と、リンコの肩に止まるインコが小さく動いた。
「お、新しいニュースだ」
インコがリンコの耳元で嘴を動かす。不意に、リンコの可愛い顔が険しくなった。
「黒炎、仕事だ。悪いね、ヴァン。ほったらかして行くけど、この道をまーすぐに行くと街があるからね。そこでイベントが始まってるから行ってみたら?」
「イベント? あんたらもそこに行くのか?」
初めて出会った人たちに、何となくついて行きたい気持ちもあった。そんな俺の内心を見透かしたかのようにリンコが笑う。
「あたしらの道は、まっすぐには続いてないんだなぁ。でも、ヴァンはそうじゃないかも知れない」
やはり、リンコと黒炎はベテランプレイヤーだという事か。
初心者に、変に手を貸さないベテランプレイヤーの存在。俺にとってこの世界はとても素晴らしいものに思えた瞬間だった。
ゲームシステムだけでなく、住む住民も素晴らしいのかと。
「あんたの道は、今はまっすぐ続いている。その道をまっすぐ行けば……きっと、何か見えてくることを祈って」
リンコが俺の手を取った。
「良い旅を。ヴァン」
黒炎もまた、俺の手をがしっと掴む。
「これは忠告だが、仲間を探すなら、知力にマイナス修正を喰らってない奴を仲間にした方が良いな」
珍しくいっぱいしゃべってくれたと思ったら、川に立てられた立て札を指さす。
そこに書かれていた記号は、俺には全く読めない。多分、「この橋渡るべからず」みたいな文字が書いてあるのだろうという事は予想出来たが。
「純戦士が一匹狼を気取るには、けっこう厳しい世界なんだ」
「黒炎! 何をぐずぐずしてるのよ!」
少女にすっかり牛耳られている「戦士」を見て、ああはなるまいと心に誓いつつ。改めて冒険の道へと一歩を踏みだした俺は、その数時間後に彼らを恨む事になったのだ。