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花束男  作者: 今井玉木
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ある日1

連日崩れた天気で雨漏りが頻発し、古びた駅構内には水の溜まったバケツが点在していた。蛍光灯の冷たい光を溜まった水面から弾き返すそれらに気づかず、何度も足をぶつけて、危うくひっくり返しそうになる。男はそれにも構わず、力無い足取りで歩く。

体に合わないくすんだジャケットは左右の肩の高さが崩れ、袖は毛羽立って見すぼらしい。髪は乱れ、目は落ち窪み、無精髭は全体的に褪せた白混じりで、姿は不審者のそれだった。

しかし気にする者はない。人と話しながら闊歩する者、帽子とマスクを目深に被る者、手の平の中の小さな世界に夢中になる者。キャリーケースの連なりは流体力学に抗って上り方面へ。むき身の足を交互に投げ出す若い女は地下鉄の乗り換え改札へ。改札付近の柵を隔てて、男女が両手を絡ませて睦み言を言い合う。異国の言語で詰め寄る異邦人と、駅員の仏頂面。全てが、全てがその男と無関係だった。

駅ホームに人はほとんどいない。男は緩慢な動きで線路の方へ足を進めていった。光が目の端に灯る、唸りのような低い音が耳に迫る。どうしてこうなったんだろう。唯一彼の頭に去来した言葉では、線路の方へ進む足を止めるには至らなかった。

男が黄色の点字表記を越えた辺りで、足元に黒の革靴のつま先が二つ並びでこちらを見ている。誰だ。感情もなく、ノロノロと目線を上げていった。革靴とスラックスの漆黒は、そのままジャケットとシャツまで続く。長身で黒ずくめの、おそらく男。

上げていく目線を止めたのはおもむろに差し出された、白の手袋と花束。大輪の紫はダリア。その周りを白のカラー、リモニウムの小花と、ユーカリの葉や小枝で緑を添える。

男の濁った目は、この一瞬だけ生気が宿り大きく見開かれた。何故、知っている。しかし彼は声を出す事も、これを退ける事もできなかった。男の手にはすでに花。受け取った覚えはない。誰だ――止まった目線を正面から上げようとするが、続けることができなかった。

視界の縁が鮮やかに染まり始める。植物の成長を早回しで見るように、花の色が、花の香りが、男を包み込んでいくように広がっていった。苦しみはなかった。やがて男の身体は厚みを失い、服だけを残して急速に縮んでいく。相手の靴先まで落下して、実存も意識も花々に埋め尽くされていく寸前に彼は見た。いっとう大きな紫のダリアが、こちらを見下ろしているのを――。

翌朝の地下鉄では遅延が発生していた。信号機の故障と、乗客同士の争いで、各駅に電車が詰まってしまったのだ。通勤客の一人、新卒の若い男はため息をついた。やれやれ、これからこんなことがいつまでも続くのか。打ちのめされたような不愉快を振り払いたくて、車窓から駅ホームを覗き込む。なんだ、アレ。

若い男の目線の先には花束が、黄色い線の内側に、誰にも気に留められず打ち捨てられるように置かれていた。


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