魔術師がくれた夏
夏は出会いと別れの季節だ。
世間様では、桜が咲いて散る季節がそうだ。ということになるのだろう。
なにを唐変木なことを言っているのかと思うかもしれないが、少なくとも僕にとっての出会いと別れがやってきたのは、この夏という季節なのだから仕方がない。
「まったく、師匠も師匠だよ。なにも謀ったように、この時期に逝かなくってもいいのにさ……」
じっとりと額に浮かんだ汗を、これまた汗ばんだ腕で強引に拭い捨てると、早くしろと急かすように鳩たちがバサバサと翼をはためかせて騒ぎ立てた。
村はずれの山林にひっそりと隠れるようたたずむ丸太小屋。
小さな農村にあって、それはどこか異質で浮世離れしている。これを建てた人間の気質がわかりそうなものだ。
この丸太小屋に隣接する鳩小屋の掃除が、早朝の日課というわけだ。
「おいおい、もうちょっとだけ静かにしていてくれよ。そしたら、すぐに終わるし、おまえたちも晴れて自由の身だ」
なぁ、と頭の先だけ少し黄色みがかった白鳩のネルソンに目配せするも、まるで知らん顔をされる。
ネルソンはいつもそうだ。
師匠の言うことはよく聞いていたくせに、僕の言うことには全然耳を貸さないのだ。
鳥の分際で生意気な。とは思うが、この白鳩に言わせれば、僕はまだまだ師匠にはほど遠いということなのだろう。
この小生意気な白鳩と毎日顔を合わせるようになって、もう三年になる。
でも、それも今日で終わりだ。
約束の三年が今日で終わる。
それはつまり、今日が『神の手を持つ男』とまで称された奇術師高峰隆造の命日であることを意味する。
「私が死んでも、三年間は鳩たちの世話をしてくれ。その後でどうするかは、おまえの自由だ。好きにしていい」
これが師匠と交わした、というか、ほとんど一方的に押しつけられた約束事だ。
我ながら律儀で辛抱強いとは思うが、僕はそれを果たした。
三年という時間は結構長いと思っていたのだが、振り返ってみるとあっという間であったような気もする。
「長いようで短い。短いようで長い」と、じいちゃんばあちゃんたちが人生を振り返るときによく口ずさむ言葉が脳裏をよぎる。
あれはきっと、こんな気分で言うのだろう。
まるで夢か幻でも見ていたような感じがしないでもない。
でも、僕は確かに待っていたのだ。今日という日が来るのを。三年間。
「さぁ、終わったぞ」
羽毛と埃と糞の山を掃き終えて、ざっと鳩小屋の中を見渡す。
待ちくたびれたのか、小屋の主たちはあくびをするようにさえずる。あるいは伸びをするように翼を広げている。
掃除をしてもらうのが当たり前だとでもいわんばかりの面構えで「クルックぅ~」と鳴きながら並んで僕を見下ろしているのだから、まったくもって、いい気なもんだ。
ふと、こんな怠け癖のついた連中が野生の中でやっていけるのかとの想いが胸中に生じる。でも、そんなことばかりに気を取られていたら、いつまで経っても僕は鳩小屋の掃除夫になってしまう。終いには、村のみんなから鳩おじさんと呼ばれかねない。そんなことに時間を費やしている暇は、もうない。
ただでさえ、三年という時間を費やしたのだから。
まぁ、そのおかげか、奇術の腕もずいぶんと上がった。
もしかして、師匠は、僕一人で響香を迎えに行くためには、もっと奇術の腕を磨いた方がよいと考えて、三年という時間を僕に言い渡したのだろうか。
……そうなのかもしれない。
当時の僕は、他人よりちょっと手先が器用なだけの、息巻いたはなたれ小僧に毛が生えた程度のものだった。
あのまま村を飛び出していたら、いまごろ塀の中にでもいたのかもしれない。
それを思うとゾッとする。
だが、そんな気分が沈む思考は、頭を振って追い出す。
とにかく、僕は行かねばならないのだ。
窓という窓、扉という扉を全て開けっぴろげにして、聞こえよがしに二度三度と手を叩く。
「さぁ! ただいまをもって諸君らは自由の身となった。平和と繁栄と歓喜の詩を歌って自由の翼を広げて飛び立つがいい!」
両腕を広げ、芝居かかった台詞を唱える。端で聴いていたら、腹を抱えて笑ってしまうだろう。
だが、恥を忍んでうった大芝居も、何食わぬ顔をした小屋の主たちには通じなかった。
沈黙という名の冷めた風が心の中を駆け抜ける。
思わず溜息が一つ吐いて出た。
仕方がないので、僕はシャツの袖からクラッカーを、二つといわず四つ取り出した。
なんでそんなものが袖の中から出てくるのかと奇妙がられるかもしれないが、もちろん、これは奇術用に隠し持っている物だ。奇術師たる者、つねに他人を驚かせるために種を仕込んでいるものだ。
なんの予告もなしに無遠慮に四つのクラッカーをかき鳴らす。
ババン!と派手な音を響かせて、紙吹雪が舞う。
さすがに、これには参ったか。ビクッと身体を震わせて、白鳩たちは一斉に飛び立った。
朝焼けから開けたばかりの青空に、無数の白点が吸い込まれるように小さくなっていく。
ネルソン、チャーリー、パスカル、ワット、シラー、クーロン、メシェ、ティコ、ウェーバー、アピス、ヘンリー、ロジャー、パール、ルクス、ジュール、ニュートン、ヴィエタ、リリー、ディエゴ、マリア、テスラ、サー、フィリップ、ジャック、パブロ、ベティ、クリス、トーマス……みんな、お別れだ。
見送る視界いっぱいに、真っさらな空が広がる。雲ひとつなく、いっさいの澱みがない空だ。
まるで僕の旅立ちを祝福しているような青だ。
鳩小屋を出ると、そこには真新しい自転車が置いてある。
前輪上部に取り付けられた籠の中には、これまた真新しいリュックサック。なのに、ハンドル部分には古びた書物のように色褪せてしまった麦わら帽子が掛かっている。
事情を知らない人から見れば、妙な取り合わせなのだろう。
僕は、その色褪せてしまった麦わら帽子の紐を首にかけて、自転車のストッパーを蹴り上げていた。
……夏は出会いと別れの季節だ。
両親が突然の交通事故でいなくなってしまったのも夏なら、お爺さま専属の運転手だった喜多原のおじさんとおばさんに連れたれてきた小さな農村で賢ちゃんや、智士くん、孝彦くん、良平くんに君枝ちゃん――みんなに初めて出会ったのも、やっぱり夏だった。
忘れられるはずがない。
喜多原響香として、みんなと過ごした五年間は、私が私でいられた宝物のようにキラキラと輝いていた、とても大切な時間だった。
……忘れることなんて、できない……
別れと出会いの日には雨が降っていた。
まだ六歳だった私は、両親の死の意味がよく分からず、ただ「かわいそうに、かわいそう……まだ、こんなに小さいのに……」と泣いてばかりいる喜多原のおじさんとおばさんに手を引かれて車に乗ったのを覚えている。
そのとき、お爺さまがお迎えに出ていたので、私はてっきり買い物か何かに出かけていくものなのかと思って、はしゃいでいた。
でも、喜多原のおじさんが運転する車はどんどん街から離れていった。
「どこへいくの?」と聞いても、おじさんもおばさんも応えてはくれなかった。
どこをどう進んだのかなんて覚えていない。
そうこうする内に、私は眠ってしまったから……
目が覚めたときには車は止まっていて、山間部の小さな農村にいた。
雨は止んでいて、染み入るような青空が広がっていた。
そこは初めて目にする場所だった。
なのに、初めてのような気がしない、妙な郷愁感がわき上がる。
そう、いつか夢で見た景色にそっくりだった。
そんなときは、たいてい良くないことが起こる前触れだと私は知っていた。
だから、私の心は不安だらけだった。
そんな私の様子に気がついたのか、喜多原のおばさんが両手を優しく肩に乗せると、膝を折って視線を合わせてきた。
「お嬢様……いいえ、響香ちゃん。今日から、おばさん達と一緒にここで暮らすのよ。家族としてね……」
「ここに?」
「ええ……」
「お父さまとお母さまは? 一緒じゃないの?」
これにおじさんとおばさんは困ったように顔を見合わせ、黙り込んでしまった。
どう応じようかと悩んでいたようだ。
しばらく、二人はお互いの視線だけで語り合うと、おじさんの方が頷いて、私に優しく語りかけた。
「旦那様と奥様は仕事で外国へお出掛けになられてしまってね。大変なお仕事だから、いつ戻れるかわからないそうなんだよ。だからね、その間だけ、響香ちゃんはおじさんたちと、ここで暮らすようになったんだよ。分かるね?」
「うん…でも、お爺さまのお許しをもらわなくっちゃ……」
「だいじょうぶ。これは大旦那様が仰ったことなのですから……」
「お爺さまが……?」
喜多原のおじさんは無言で頷いた。
その瞬間から、私は三嶋響香から喜多原響香になった。
意識したことはなかったけれど、今にして思えばきっとそうなんだと思う。
それからすぐに、おじさんとおばさんに連れられて村の人たちに挨拶回りをすることになった。
村の人たちはみんな、人懐っこい笑みを浮かべて都会から来た見ず知らずの私たちを迎え入れてくれた。
その光景が私には不思議に思えた。
三嶋の家にいたときには、人がこんな風に笑うなんて知らなかった。
たぶん、これが本当の笑顔なのだ。
心の底から笑えたときの、本物の笑顔なんだ。
私が知っていた笑顔は、愛想笑いというのかな……きっと、そんな風に心を閉ざした表層的な笑い方だったのだろう。と幼いながらに私は感じていた。
そして、私はこんな風に笑えているのだろうかという疑問がふと頭に浮かんだ。
そんな風にして、九軒目の挨拶に向かっていたときだった。
釣り竿を担いだ少年が一人、私たちの目の前に現れたのは。
陽に焼けた小麦色の肌が、重たそうなバケツを軽々と片手で持っている。バケツの中には、少年が釣り上げたと思われる魚たちが狭苦しそうに尾を跳ね上げていた。
「やあ、こんど引っ越してきた喜多原というんだ。よろしくね」
おじさんが片手を挙げて挨拶をすると、少年は「なんだ?」とでもいいそうな顔で首を傾げると、バケツと釣り竿を足下に置いて「んっ」と右手を差し出した。
その手は泥にまみれて汚れていた。
差し出された手は握手を求めていることはすぐにわかったけれど、私はすぐにその手を取ることが出来なかった。
泥まみれの手を、私は汚いと感じてしまったのだ。
でも、おばさんに「ほら、響香ちゃん」と促されてしかたなく、恐る恐る、その手を取って握手した。
すると、少年はニカッ!とこれ以上はないというほどの満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、私は泥まみれの手が汚いと感じていた自分が恥ずかしく思えた。
「オレ、賢一っていうんだ。よろしくな!」
「…み、三嶋響香…です……」
それが、賢ちゃん――園村賢一くんとの出会いだった。
自転車を立ちこぎして、やっとの思いで山の中腹まで登ってくる。
整備された車道とはいえ、いかんせん傾斜が半端ではない。
もうさっそく汗が拭っても拭っても噴き出してきて、息がキレキレだ。
仕方なく、少しだけ休憩をしようと足を止め、ふと振り向くと、生まれ育った村が一望できた。
ついさっきまで、あそこにいたのだと思うと、なんだか妙な気分になってくる。これを郷愁とでもいうのだろうか。
でも、そうだ……
懐かしさが込み上げてくる。
この掌に納まりそうな場所に、楽しかったことも、哀しかったことも、辛かったことも、苛正しかったことも、全てが詰まっている。
そして確かに、僕はあそこで彼女に出会ったのだ。
それがまるで昨日のことのように思い出されると、自然と手が麦わら帽子のつばに触れていた。
三嶋響香は不思議な女の子だった。
ちょっと見ただけでは、麦わら帽子と白いワンピースがよく似合う、ごく普通の女の子だ。
だけど、彼女はどうやら他人とはちょっと違っていたようだ。
都会生まれというだけで村の人間とは確かに違っていたのだが、そういうのとはまた違った意味で、そう……なんていったらいいのか、生まれ育ちが違うというわけでも、見た目や雰囲気が違うというわけでもない。
ただ……そう、彼女は優しすぎたのだ。
といっても、本当にただ優しいというわけではない。
誰かがちょっと大きな怪我をしたり、家畜が病気になったり、作物が台風や冷害なんかでダメになったりすると、響香はそれがまるで自分の身に起きたことのように哀しんでいた。
そして、
「私がもっと気をつけていれば……」と涙ながらに嘆くのだから、ちょっと、いや、かなり変わった娘だと思っても不思議じゃない。
どうにも彼女は、世界中の不幸が、あたかも自分のせいであると思い込んでいるふしがあった。
いや、そうじゃないな……
まるで、響香自身が絶えず周りに目を光らせて、ほんのわずかな変化にさえ気づいてさえいれば世界中の不幸は消えてなくなる。と思い込んでいる。そう言った方がしっくりとくるような感じだ。
なにが彼女をそうさせたのだろうか。
彼女が持って生まれた気質なのか。それとも村に来る以前の周りにいた威圧的な大人たちによって、精神が萎縮してしまった結果なのだろうか。はたまた、突然の環境の変化に戸惑っていただけなのだろうか。
僕にはとうていわかることではない。
村に来たばかりの頃の響香は、なんだかおどおどしていた。まるで突然、小屋から追い出されてだだっ広い草原に放り込まれた小兎のようだった。どこへ行って、なにをしてよいのかがまるでわからない。
そんな感じだった。
でも意外と、響香はすぐに僕たちと打ち解け合った。
都会の人間だからといって斜に構えて田舎者の僕らを馬鹿にする。ということは全くなかった。
どちらかといえば、初めのうちは響香の方が僕らに遠慮していたふしがある。まぁ、見ず知らずの土地の、見ず知らずの人間に無遠慮でいられるほど、彼女の精神は傲慢ではなかったらしい。
でも、やはり都会の人間だ。
僕たちが何気なく毎日繰り返していた遊び。たとえば、川辺での飛び込み大会や崖登りに崖降り、木登りや森の探索を兼ねたキノコ狩りに山菜狩り、それに家畜追い。それが響香には危険な遊びとして映ったらしく「そんなことしたら、あぶないよ。怪我するよ……」と最初はずいぶんと怯えていた。
それでも徐々に慣れていったのか、しだいに僕たちの遊びに参加するようになっていった。
とはいっても「あぶないよ」とか「怪我するよ」といった言葉をひっきりなしに口にしてはいたけれど。
あるとき、孝彦が木登りの最中に足を滑らせて転落してしまい、左脚を折ってしまったことがあった。
すると響香は「ごめんね。ごめんね。私がもっと気を配っていたら、こんなことにはならなかったのに…………ごめんね……」と顔中を涙にして泣きじゃくっていたのを覚えている。
脚を折ったくらいで大げさだなぁ。と僕は思ったのだが、とにもかくにも、よく言えば責任感が強くて心根が優しい。悪くいえば何もかもを自分のせいだと思い込んでしまう妄想の激しい女の子。
それが三嶋響香だった。
毎日がお祭りのようだった。
賢ちゃんたちは私の知らない遊びをたくさん知っていた。
山や川や森での遊び方を。それに、雨の日には雨の日の、風の日には風の日の、嵐の日には嵐の日の遊び方を私に教えてくれた。
それは、街にいたのでは絶対に経験することが出来ない遊びばかりだった。
その中には、ちょっと目を開けて見ていられないようなあぶないこともたくさんあった。
けれども、汚れてしまうからとか、怪我をしてしまうからとか、そういった考えはみんなの頭の中には全くなかったみたいだった。
毎日毎日、小さな発見をしては、それを使っていかにして遊ぶか。
それが私たちの全てだった。
思い出は楽しいことばかりではないけれど、だけど、やっぱり毎日が楽しかった。
そして、
それは確かに、九歳の夏だった。
お祭りのような毎日を、もっともっと楽しくしてくれる出会いがあったのは、やっぱり夏だった。
いつものように賢ちゃんを先頭にして、智士くん、孝彦くん、良平くんに君枝ちゃん、それに私の六人で、山や森の中を探検隊ごっこでさんざん駆けずり回ってきた帰りのことだった。
いつもと何も変わらない家路のはずだった。
でも、見た目ではわからなかったけれど、それは確かに、何かが違っていた。
何が違うのかと言われても、私自身よくわかってなかったから、言葉にすることは出来ない。
だけど、そう、予感みたいなものを肌で感じ取っていたのは確かだった。
村のはずれ、というよりも山の中といった方が正解のように感じる、そんな静けさと寂しさが同居しているような場所で、私は突然のあの感覚にとらわれた。
初めて見る景色なのに、どこかで見たことがあると感じさせる、あの不思議な感覚だ。
ボーっと、何かを感じさせる方角を眺めていて私の足は止まっていた。
どれくらいそうしていたのかはわからないけど、気がついたらみんなが小指の先くらいに小さくなっていた。
探検隊から取り残されてしまった私に、賢ちゃんが気がついて声をかけてくれた。
「おい、どうした響香? 早くしないと陽が暮れちまうぞ!」
でも、どうせ気がつくなら、もうちょっと早く気がついてほしかった。と思いながら私は目一杯、声を張り上げて応えた。
「ねぇ、賢ちゃん。こっちの方に行ってみようよ!」
顔中を『?』にして賢ちゃんは首を傾げた。
「そっちに行っても遠回りになるだけだし、何にもないぞ!」
「うん、わかってる!」
「じゃあ、なんで?」
すぐに応えられなかった。
もともと、明確な目的があったわけじゃなくて、なんとなく呼ばれているような気がするだけだったのだから、説明なんて出来るはずがない。
返答に困っている私を見て、賢ちゃんはふくれっ面をしたかと思うと腕を組んで少し考え込むような仕草をした。右足でタンッタンッと何度か地面を叩くと、ニカッと賢ちゃんは笑った。そんな風に賢ちゃんが笑うときはたいてい悪戯か何かを思いついたときだ。
私はちょっと不安にかられたけど、
「ま、ちょっと遅くなるけど、寄り道もたまにはいいか!」
そう言って、賢ちゃんは私の意見に頷いてくれた。
それがちょっとうれしかったのだけど、態度には出していなかったと思う。
とにかく、それでいよいよ寄り道をしようという時だった。
賢ちゃんの肩に、頭の先が少しだけ黄色い白鳩が止まったのは。
まるで、そこに初めからいたかのように、ごく自然に「クルックぅ~」と鳴くのだから、それこそ賢ちゃんが鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていた。
「な、なんだこいつは?」
白鳩がそんな賢ちゃんの問いかけに応えるはずもなく、欠伸をするように鳴いた後、毛繕いを始めてしまった。
それがなんだかおかしくて、笑ってはいけないと思いながらも私は思いっきり吹き出して笑ってしまっていた。すると、君枝ちゃんがつられて笑い出して、次に良平くん、智士くん、孝彦くんとみんなが笑い出した。
ただひとり、賢ちゃんだけが面白くなさそうに憮然としていた。
そんなときだ。
私がこっちに行こうと指さした方から草をかき分けて、白い髭を蓄えたおじいさんがやって来た。
「おや?」と、こころなし長めの白髪を後ろでキュッと束ねている、どことなく『老紳士』という言葉が似合いそうなおじいさんは私たちを認めるなり、ちょっと困ったなという顔をした。でも、すぐに賢ちゃんの肩に止まっている白鳩を見つけると頬をほころばせた。
「おや? ネルソン、こんな所にいたのか。探したぞ」
おじいさんの言う「ネルソン」というのが鳩の名前だということにすぐに気づけず、私たちは戸惑いながら顔を見合わせていた。
すると、ネルソンと呼ばれた頭の先が少しだけ黄色い白鳩が「クルックぅ~」と一鳴きしたかと思うと、おじいさんの肩へと吸い込まれるように飛んでいった。
「君たちが見つけてくれたのかい?」
肩に止まったネルソンの、少しだけ黄色い頭を人差し指で撫でながら、おじいさんは優しそうな声音で私たちを見つめた。
「そいつが勝手にオレの肩に乗っかってきたんだよ……」
やっぱり、賢ちゃんは面白くなさそうに、口をへの字にして応えた。
どうやら、私たちに笑われたことがよっぽど面白くなかったみたいだ。
それで鳩のネルソンと、その飼い主であるおじいさんにちょっと頑なになってしまったようだった。
そんな賢ちゃんを見て、おじいさんは「おや?」という感じで笑った。
「そうか……しかし、お礼はしないとな」
「お礼?」
訝しげるように賢ちゃんが反芻すると、おじいさんは握った両手を私たちに差し出した。思わず何か入っているのだろうと私たちは身を乗り出して覗き込んだ。それを待っていたかのように、ゆっくりとおじいさんの掌が開いていく。
でも、そこには何もなかった。
空っぽの掌が二つあるだけだった。
何かもらえるのだろうかと期待して覗き込んでいた孝彦くんと良平くんと君枝ちゃんが「なぁんだ……」と残念がる。
それを予想していたのか、おじいさんはニヤリと笑みを浮かべた。
「さて、種も仕掛けも何もないこの両手、三つ数えて叩くとあら不思議、何かが起きる」
「なにが起きるんだよ」と突っぱねるように言う賢ちゃん。
「そいつは見てのお楽しみ」とおじいさんは、ワン、ツー、スリーとオーケストラの指揮者がタクトを振るようにとても律動的に三つ数えて、パンッ!と手を合わせた。
すると、どうだろう。
ゆっくりと開かれたおじいさんの両手には、ガラス玉のように綺麗な色とりどりのアメ玉が六つ乗っていた。
『うわぁ!!』
それは本当に魔法のようだった。
お伽噺の世界に迷い込んでしまったように、私と君枝ちゃんは同時に感嘆の声を上げていた。
そんな私たちをみて、おじいさんはとても嬉しそうな笑みを浮かべ、肩のネルソンは呆れて欠伸でもするようにクルッポーと鳴いた。
「ハハッ、喜んでもらえて光栄だよ、小さなお嬢さん方。さぁ、お近づきのしるしにひとつどうぞ」
なんとなく騙されたような気持ちで、私たちは恐る恐るガラス玉のようなアメ玉をつまんで口の中に放り込んだ。
それはとても甘く、幸せな気持ちが口中に広がっていく、確かにアメ玉だった。
難しい顔をしていた賢ちゃんまでもが、頬をほころばせてアメ玉をなめていた。
たったこれだけのことで私たちを幸せな気持ちにさせてくれたのは、高峰隆造という世界的な奇術師であった。
水筒の水を一口含むと清涼感が駆けめぐり、火照った身体の温度を少しだけ下げてくれる。
たったそれだけのことでも、まるで生き返ったような気分になるのだから、なかなかどうして侮ることは出来ない。
いや、まったく先の長さを思うと、この水筒が命綱のようにさえ思えてくる。
やれやれ……
そう、先はまだ長いのだ。僕の旅は、まだ始まったばかりなのだ。
それを思うと、自然と溜息が漏れて、僕は空を見上げた。
すると、さっき放してやったばかりのネルソンたちが、まるで自由を謳歌するというよりも、どこへ行ってよいのかわからないといった感じで大空を舞っている。
ま、突然、広い世界に放り出されたら誰だって右往左往するものだ。
僕だって、ある日突然、村から世界に放り出された日には、きっと何をしてよいのかわからずに、ただ呆けていただろう。
鳩に同情するというのもなんだか奇妙な話ではあるが、しかし、気にならないと言えば嘘になる。
なんといっても、師匠が死んでから三年、修行中の期間も加えれば六年になる。その六年という時間を共に過ごした仲間なのだ。
やはり、ネルソンたちの今後を考えると、わずかな罪悪感のようなものが胸を通り過ぎる。
そういえば、彼らが村にやって来たのも、やっぱり夏だった。
誰にも邪魔されずに余生をのんびりと過ごすためにと師匠が村の外れ、というよりは山の中とでも呼んだ方がいい場所にいつの間にか、とはいっても村の大人たちは知っていたようだが……、とにかく僕たちの知らぬ間に丸太小屋を建てて、ネルソンを初めとした白鳩たちと暮らし始めたのは、僕と響香が九歳の時の夏だった。
僕らの村にやって来たからといって、師匠はべつに畑仕事や酪農に勤しんでいたわけじゃあない。
日がな一日、鳩の世話と読書に時間を費やしていたくらいだ。
あとは、まぁ、ときどき、村の大人たちから相談事を持ちかけられていたらしい。
世界で活躍した奇術師ということが関係するのかは、はなはだ疑問なのだが、とにかく、まったくもって師匠は物知りだった。
それが奇術とどう関係するのか、さっぱりわからないようなことまで知っていたりするのだから、村の大人たち「やっぱり、世界的に名の知れた人は違うねぇ」と、まるで生きた図書館のように重宝されたものだ。
もっとも、子供だった僕らにとってそんなことは関係なく、ただ単に手品を見せてくれて、その上、お菓子をくれるいいおじいさんくらいにしか考えてなかった。
それは僕だけではなく、智士も、孝彦も、良平と君枝も、村の子供たちはみんなそう考えていたのは間違いない。
ただ……響香はそんな僕たちとは一線を画していた。
というのも、響香はよく師匠に何事かを相談していた。
いったい、どんな悩み事を打ち明けていたのかは直接、見聞きしたわけじゃないからわからないが、遊びに誘っても「隆造おじさんのところに行くから」とたまに断られていたのを覚えている。
そう、僕たちの中で、いや、村の人間で師匠と一番仲が良かったのは、他ならぬ響香だったのだ。
とはいっても、それは僕の勝手な思い込みである。
実際のところ、二人が本当に仲が良かったのかなんてことは、直接当人たちから聞いたわけではないからよくわからない。
でも、そう、端から見ると二人は仲が良さそうに見えた。
まるで本当の祖父と孫なのではないかと思えるほどに仲睦ましそうに見えたものだ。
まぁ、師匠は誰に対しても人当たりが良かったので、そう見えたところで不思議はない。
そういえば、いつだったか、新聞記者とか雑誌の記者とかいった類いの人間が二人三人、どこでどう嗅ぎつけたのか、師匠のことを記事にしたいと村にやって来たことがある。だけど、結果として彼らの願いは叶わなかった。
再三再四、しつこく懇願する記者たちを師匠はやんわりと追い返したのだ。
その方法がすごいというか、なんというか、そう簡単に出来ることではない。
普通なら怒鳴り散らしたり、塩を撒いたりするところだが、師匠はそんな野蛮なことはしなかった。
ものの十分も押し問答を繰り広げたかと思うと、記者たちは小首を傾げ、まったく納得はしていないのだが「仕方がないな……」と至極残念そうに帰っていった。
師匠は、そう、まるで柳のようなのだ。
押しても引いても、その柔軟さで巧みに姿形を変え、しなやかに相手を誘導することが出来る。
それはまさに言葉の手品だ。
「奇術とは人を騙す術だ。仕草で騙すか、言葉で騙すか、それはたいした違いではない。言葉もまた手品の道具というわけだ」とは僕が弟子入りしてから教えられたことである。
なるほど確かにそうだ。とは思うが、それを実践するとなると簡単ではない。
僕にだって出来ないことはない。だが、手品で魅せることに比べれば、それは大変な労力を必要とする。そう、簡単なことではないのだ。
今にして思えば、ネルソンが僕のことを鼻で笑って言うことを聞かなかったのは、そんな理由からなのかもしれない。
僕はまだ『言葉』の使い方が師匠に遠くおよばないのだ。
まったく、鳩の分際で人間よりも目聡いのだから、生意気なことだ。
しかし、そうだ。
ネルソンたちの存在は、僕にとって兄弟子のようなものといっても過言では
彼らがいたからこそ、僕は技術の向上に努めることが出来たのだ。少なくとも、誰かが鼻で笑ってくれた方が向上心に火がつくというものだ。
かっこ良く言ってしまえば、ネルソンと僕はよき好敵手関係にあったというわけだ。
それだけを耳にすると、なんだかとても情けない台詞に聞こえてくる。
まぁ、でも、実際そうなのだから仕方がない。
僕はまだ、世間知らずの子供に過ぎない。
彼らのように大空を舞う翼も持ち合わせてはいないが、師匠曰く「奇術師に不可能はない」のだ。
空を飛ぼうと思えば飛べるし、飛んでみせてこその奇術師だと。
「……うん」と、思い出に一人頷き、僕は再び足に力を入れて自転車のペダルをこぎ始めた。
その時だ。
視界の片隅を白い何かがかすめて飛んできた。
なんだと思う前に、リュックサックの上から「クルッポォ~」と鳴き声が聞こえる。
僕は一瞬、自分の目と耳を疑ったが、確かにそこでは頭の先だけが少し黄色みがかった白鳩のネルソンが、当たり前のように毛繕いをしていた。
僕はもう、何も言えなかった。
言葉を失うとは、こういうことを言うのかと納得してしまったほどだ。
しかし、だからといってそのまま黙り続けるわけにもいかないので、僕はようやくの思いで溜息と共に言葉を発した。
「……そうか、おまえも行くのか?」
すると、当たり前だと言わんばかりにネルソンは二度三度と羽ばたいてみる。
本当にもう、こいつはかなわない。
僕はいったい、どんな顔で笑っていいのかわからなかったが、きっとたぶん、ずいぶんと情けない顔で笑っていたと思う。
なぜだかわからないが、無性にやるせなさが込み上げてきて、僕は半ばやけくそになって「やってやるさ!」と、ペダルを思いっきり蹴っていた。
夢を見る。
ううん……
あれを夢と呼んでいいのか、私にはわからない。
でも、それは眠っている間にだけ見るのだから、夢と呼ぶ以外になんと呼んでよいのかもわからない。
だから私はあれを、ただの夢だと思い込んでいた。
でも、違った。
夢は現実の映し鏡だった。
そうだと気づいたのが、いつだったのかなんてことは覚えていない。
物心ついた頃には、なんとなくわかっていたんじゃないかな。夢で見たことが、現実に起きていることだということに。
だから、私は夢を見るのがきらいだった。
いつもいつも、夢は私に哀しい現実ばかりを見せた。
誰かが怪我をしたり、目の前からいなくなってしまうような、そんな哀しい出来事ばかりを。
それが本当に、ただの夢であったのならどれだけよかったことか……
でも、残念なことに、私が見た夢はほとんど確実に現実になっていった。
それが次の日に起こることなのか、一週間後に起こることなのか、一ヶ月後のことなのか、あるいは一年後のことなのかがまったくわからないのだけれど、確かにそれは私の目の前で起きた現実になる。
でも、それが起こることだとわかっていても、私には何もできない。
そう、なにもできない……
ただ、目の前で誰かが傷ついてゆくのを見ていることしかできない。
たとえ、みんなに事実を伝えたとしても、年端のいかない子供の言うことだ。誰も相手になどしてくれない。
そう、私は無力だった。
やってくる未来の姿を知っていながら、運命を変える力なんか持ち合わせてはいなかった。
神様はなんで、こんな夢を私に見せるのだろうか。
何度も何度も問い掛けたけれど、応えてはくれなかった。
神様は応えてなんかくれなかった。
代わりに応えてくれたのは、白髭の優しい魔術師だった。
あれはいつだったか……
その年初めての雪が降って、世界が白銀に包まれていた。
冬支度に追われて心配する大人たちの声をよそに、私たちは子犬のようにはしゃいでいた。
雪すべりに、雪合戦に、雪だるま……
とにかく、考えられる遊びを全てやってしまおうと、真っ白な世界の中を走り回っていた。
そんなときだ。
「おい! こっちだ、こっち!」と賢ちゃんが手招きをして見せたいものがあると、雪化粧をした山の中へとみんなを連れて行こうとした。
そんな賢ちゃんの背中を見た瞬間、いやな予感がした……
ちょっと前に、夢で見た光景にそっくりだった。
私はすごく怖くなって賢ちゃんを呼び止めようとした。だって、夢の続きでは足を滑らせて崖から落ちた賢ちゃんが死んでしまうという、とても哀しい結末だったのだから。
でも、「そっちはあぶないよ!」と言ったところで、初雪ではしゃいでいたみんなに、私の言葉は届かなかった。
すっかり、私の身体は凍えてしまったように動かなくなってしまった。
夢が現実になることの恐怖。そして、未来を知っていながら変えることの出来ない、ふがいない自分への絶望。それらが渾然一体となって、私の身体を金縛りのように動けなくしてしまった。
それでも、私は一生懸命、未来を変えてみせようと声を張り上げた。
「ねぇ、もう帰ろうよ!」
すると、賢ちゃんが「なにを言い出すんだ?」とでも言いたげな顔で振り向いた。
「なんだよ? すごいものを見せてやろうってのに、イヤならいいよ。響香ひとりで帰りな!」
「イヤってわけじゃないけど……」
「じゃあ、なんだよ?」
「…………」
なんて言っていいのかがわからなくて、ほんの少しの間だけ、私は黙り込んでしまった。
「賢ちゃんが死んじゃうから」なんて言ってみたところで信じてもらえないのは十分に理解している。
今までがそうだったし、たぶん、これからもそうだ。
でも、じゃあ、なんて言ったらいい?
「……あぶないから」
それだけを言うのが精一杯だった。
「なに言ってんだ? この辺はオレたちの庭みたいなもんじゃないか。あぶなくなんかないさ」
「でも……」
うじうじとして明瞭さに欠ける私に賢ちゃんは痺れを切らせたのか、怒ったような顔で「もういいよ!」とみんなを連れて行ってしまった。
私はひとり残され、ただポツンと立ちすくんでいた。
しだいに、やりきれない何かが胸の奥底からわき上がってきて、私の中を一杯にしていった。
涙が出そうになるのを我慢して、叫び声を上げたかった。「なんで神様は私に夢なんか見せるの!」と大声で雲の向こう側に抗議したかった。
でも、私が大空に向かって神様の悪口を言うより早く、君枝ちゃんの悲鳴が山中にこだました。
私はとっさに駆けだしていた。
なにが起こったのか。なんとなくわかってはいたのだけれど、でも、やっぱり、自分の目で見て確かめるまでは信じたくなかった。
敷き詰められた新雪を無造作に踏み分けて、息が切れるのも、足が取られて転んでしまうのもかまわずに、私は走った。走って、みんなのところへたどり着くと、そこは滝を一望して渓流を見下ろすような崖だった。
滝と川が凍っていて、なんだか神秘的な光景だった。賢ちゃんが見せたかったものは、きっとこれのことだったのだろう。でも、氷が奏でる神秘の世界を眺めている暇なんてなかった。
私の姿を目にした途端、智士くんが狂ったように飛びついてきたから。
「どうしよう! 賢兄が、賢兄が……」
そこから先は言葉になっていなかった。ただ、わなわなと震える指先が崖の先を示しているだけだ。
村に戻って、誰でもいいから大人の人に助けを求めてくるようにと、智士くんと孝彦くんに言うと、二人は勢いよく二度も頷くと風のように走り出した。
きっと、この場所から逃げ出したくてしかたがなかったのだろう。
そして、泣き叫ぶ君枝ちゃんを、やっぱり、半べその良平くんに任せると、私は恐る恐る崖の縁へと立った。
ぶわっ!と冷たい風が足下から吹き荒れて、乱暴に頬を撫でていく。
背筋が凍りそうに冷たい風だったけれど、それよりも私の身体を凍えさせる景色が、そこにはあった。
賢ちゃんだ。賢ちゃんがいた。
右脚が曲がるはずのない方向へ曲がって、どこかをぶつけて切ったのか、噴き出した大量の血が真っ白なはずの雪の絨毯を真っ赤に染め上げている。
私はもう、吐き出しそうになるのを堪えて、喉が潰れてもかまわないというくらいの大きな声で賢ちゃんの名前を呼び続けていた。
喜多原のおじさんとおばさんがやって来て、私の身体を抱きしめてくれるまで、ずっと賢ちゃんの名前を呼び続けていた。
智士くんと孝彦くんが呼んできてくれた村の大人たちは、素早く的確に賢ちゃんの応急処置を施すと、すぐに街の病院へと連れて行った。
そのことで私たちはさんざん叱られたけれど、不幸中の幸いだったのは、賢ちゃんの怪我が頭を七針縫うのと右脚の骨折だけですんだことだ。
私の夢は、夢のままで終わってくれた。
きっと、奇蹟が起きてくれたのだと思うと、自然と安堵の溜息が漏れる。
でも、胸になにかがつっかえていて、いつまでたっても取れない。
なんだか、こう、もやもやとしたものが私の中で渦巻いていて、はっきりしない。
それはすごく、気持ちが悪かった。
すっかりもう、赤ん坊のように泣き崩れる日々が続いた。
自分でも、なんでこんなに涙が出るのか、よくわからなかった。でも、胸に溜まったもやもやは、私の心を締めつけ続けた。
とうとう、いても立ってもいられなくなって、私の足は吸い込まれるように、村はずれにある丸太小屋へと向かっていた。
何の予告もなしに突然やって来た私をふかふかの大きな椅子に座らせると、隆造おじさんは暖炉の前にある揺り椅子に腰掛けて、のんびりと読みかけの本に手を伸ばした。
そして、今にも泣き出しそうにうつむき続ける私が話し出すのを待ってくれた。
どれくらい、暖炉の火が爆ぜる音と紙のめくれる音が重なり合ったことだろう。
ようやくの思いで、きっと信じてもらえないだろうと恐る恐る、それでも、私はしゃべらずにはいられなかった。
なにかに蹴り押されるように、私の口からたくさんの言葉が飛び出してきた。
誰かに、ただ聞いてもらいたかっただけなのかも知れない。懺悔の言葉を。
隆造おじさんは、そんな私のとりとめのない話を、本のページに視線を落としたままで、ときどき、その白い髭を撫でたり、何度か頷きながら聞いてくれた。
「それはたぶん、予知夢というやつだな」
「よち…む……?」
読んでいた本をパタンと閉じて「古くから虫の知らせとか、風の便りと言われている現象のひとつだろう」と隆造おじさんは続けた。
私はちょっと驚いて、きょとんとしていた。
だって、夢の話をまじめに聞いてくれたのもそうだけど、なにより、夢のことを知っているなんて思ってもみなかったから。
「……おじさんも見たことあるの?」
この質問に、隆造おじさんは「ん?…う~ン」と唸りながら考え込んで「見たこともあるかもしれないし、ないのかもしれないな……」となんだかはっきりしない応えかたをした。
「……?」
やっぱり、私はきょとんとしていた。
そんな私を見て「ハハッ!」と笑ったかと思うと、隆造おじさんはよいしょと揺り椅子から立ち上がって、私のすぐ目の前までやって来た。
そして、中腰になって目線の高さを私に合わせると、大きくて皺のよった掌で優しく頭を撫でてくれた。
その手はとても温かかった。
「夢というものは誰もがみんな見ているものなんだ」
「みんな?」
「そう、みんなだ。だけど、目が覚めてしまうと忘れてしまう」
「わすれちゃうの? なんで?」
隆造おじさんは小首を傾げるように、「さぁ?」と肩をすくめて見せた。
「でも、極まれに覚えているときもある。友達が昨夜見た夢の話をしているのを聞いたことがあるだろう?」
こくりと私は頷いた。
確かに、賢ちゃんたちがときどき、昨日は空を飛ぶ夢を見たとか、幽霊に追いかけられる夢だったとか、川魚を百匹も釣った夢だったとか、そんなことを楽しそうに話しているのを聞いたことがある。
でも、みんなが見る夢はほとんどが楽しいものばかりだったし、現実には起こらないことばかりだった。
どうして、私だけが現実に起こることを夢で見るのだろう?
すがるように、そして、責め立てるように私は答えを求めた。
なぜ? どうして?と。
そんな私に、年老いた奇術師は少し困ったような微笑を浮かべた。
「……君は、そうなるとわかっていながら友達を助けることが出来なかった自分が嫌いになってしまったのだろう?」
私は心臓に釘を打たれたようにドキッとした。
すっかり、私はうつむいて、もう、なにをしゃべっていいのかがわからなくなってしまった。
いま口を開いても、なんだか言葉にならない嗚咽だけが飛び出してきそうな気がしていた。
「でも、君は助けたんだよ」
「え?」
私は耳を疑った。
助けた? 誰を?
「夢の中では、賢一くんは崖から落ちて、そして……死んでしまった」
私は頷いて、肯定を示した。
「だが、現実では怪我こそすれ、命に別状はなかった。なぜだと思う?」
わからないと、私はブンブンと首を振った。
すると、いつの間にか隆造おじさんは白いお皿の上に真っ赤なリンゴを載せて、片手でそれを持っていた。
その姿はまるで、街のレストランの給仕係のようだった。
「君が未来を変えたからだ」
「わたしが?」
ウソだ。私は変えていない。と否定したけれど。「いいや、そうなんだ」と隆造おじさんは強く言ってのけた。
「未来なんてものは、この皿の上にあるリンゴのようなものさ」
そう言って、リンゴの上にハンカチーフをふわりと載せた。
「丸くて、赤くて、最初は誰が見てもリンゴだとわかる。だけど、こうして人が手を加えてしまえば……」
目配せするように片目をぱちっと閉じてから、ばっとハンカチーフを取ると、
「見た目だけでは、リンゴだとはわからない」
白いお皿の上には、雪だるまを囲んで二匹のウサギが楽しそうに追いかけっこをしていた。
とても信じられないけれど、それはリンゴで出来た彫刻だった。
私は隆造おじさんの魔法のような手品に圧倒されて、声も出なかった。
「リンゴは嫌いかい?」
ブンブンと首を振ると、隆造おじさんの手の中から銀色のフォークがするすると出てきた。
私は戸惑いながらも、それを受け取った。
「食べてもいいの?」
「もちろん」
なんだか、食べてしまうのがもったいないような気がしたけれど、しゃべり疲れていたせいもあってか、私はお腹の虫が催促するままに、リンゴで出来たウサギの彫刻にフォークを刺した。
「未来も同じようなものさ。変えていこうという意志さえあれば、このリンゴのように少しずつ形を変えていくものなんだろう。きっと。だが、形が変わっても、リンゴはリンゴ、未来は未来、そして、喜多原響香は喜多原響香だ」
隆造おじさんの話を聞きながら、私はウサギ型のリンゴを頬張っていた。
シャリッとした歯ごたえが、やっぱりリンゴだった。
そして、砂糖菓子のような密の甘さが口一杯に広がると、私はとっても幸せな気分になれた。
それは本当に、魔法のリンゴだと私は思った。
僕が奇術師としての高峰隆造に弟子入りしたのは、さかのぼること六年前になる。
とはいっても、僕は最初から奇術師になりたかったわけじゃない。
そもそもの発端は、響香が街に帰ってしまった。いや、連れて行かれてしまったことに始まる。
初めて会ったときから、どこかいいところのお嬢さんだろうとは、村のみんなが噂していたし、感じからしてそうなんだろうと薄々は思っていた。しかし、まさか、響香が三嶋財閥の跡取りだ。などとは、まったくもって思いしない事実だった。
大人の勝手な都合と言ってしまえばそれまでなのだが、彼らは突然、黒塗りの車で村に乗り込んできて、響香を連れ去ってしまった。
まぁ、連れ去ったといっても強引にではなくて、ちゃんと事情を説明した上で丁重にお迎えに上がったと言い張っていたのだが、子供の目にはそんなものはまったくの無関係で、喜多原のおじさんとおばさんが哀しそうな寂しそうな、なんともやりきれない表情で響香を誘っていく姿が無理矢理のように見えて、スーツ姿の大人たちが人さらいのように感じられたものだ。
でも、だからといって、どうにかしようなどとは思わなかった。
渋々とはいえ、響香は迎えに応じたのだ。はなたれ小僧でしかなかった僕に、なにが出来たというのだろう。
結局のところ、僕たちと響香は住む世界が違ったのだ。と納得せざるを得ない。
そして、それで終わりだと思っていた。
全ては思い出の中にしまわれしまって、もう二度と、僕の人生に響香が関わってくるとは、まったく思っていなかった。
あの時までは……
「ねぇ、響香ちゃんを覚えてるだろう? 婚約したんだってさぁ。まだ若いのに、大財閥のお嬢さんともなると大変だよ」と、ある日突然、おふくろが目を白黒させながら、それでいて嬉しそうにしゃべってきた。たぶん、誰かに聞かせたくて仕方がなかったのだろう。
僕と響香は同い年だ。
だから、そんなことは冗談だと思っていた。
十二歳になるかならないかの子供が、結婚だ、婚約だなどと馬鹿げている。趣味の悪い冗談はやめてほしいものだ。と、そんな内容のことを僕はおふくろに言ったのだが、おふくろは大まじめな顔をして、村長さんとこの新聞に書いてあったのだから間違いないと言ってのけた。
冗談だろうと思いながらも、僕の足はなぜか村長さんの家へと向かっていた。
僕たちの村で新聞を買っているのは村長さんだけだった。
しかも、この新聞というやつは、村に送られる郵便物と一緒に配達員のおじさんが届けてくれるのだが、郵便物がない日には配達員のおじさんが村に来ないのだから、必然的に村長さんの手元には届けられないことになる。という、極めて不定期な情報源なのだった。
そんな村唯一で貴重な情報源ともいえる村長さんの家には、なるほど確かに「三嶋の跡取り婚約」という見出しの新聞が無造作に置かれていた。
僕はもう、それからどうしていたのはよく覚えていない。
気づいたら、そう、街に向かって歩き出していた。
自分でも、いったいなにをしようとしているのかが、まったくわかっていなかった。
ただ、なぜか、この両足だけがしっかりとした目的を持って、僕に無断で動いているとしか考えられなかった。
でも、僕の両足は目的を果たすことが出来なかった。
山越えをしている真っ最中だった。
あたりはもう薄闇に包まれ始めていた。
それでも僕の肩に、頭の先が少しだけ黄色い白鳩が羽休めに降りてくるまで、僕の両足は止まろうとはしなかった。
「おや、こんな所で何をしているんだ? もう日が暮れる。早く家に帰ったほうがいい」
そう言って、僕の目の前に現れたのは白鳩ネルソンの飼い主であった。
さすがと言うべきだろうか。
「ん? なにやら深刻な悩みを抱えているようだな。よければ相談にのるが?」
師匠は一瞥しただけで、僕の状況を的確に読み取ってしまったのだ。
逆を言えば、それだけ僕はせっぱ詰まった顔をしていたということだろう。
しかし、なんであんな行動をとったのかと尋ねられても困る。
僕自身、なんでなのか、まったくわからないのだから仕方がない。
そう凍えるような声で伝えると、
「そうか……うん」と師匠は何かに納得するように頷いた。
「とにかく、今日は帰って、よく考えてみることだ。なぜ、そして、何をしようとしたのかをな。自分自身のことがわかったのなら、いつでも相談に応じよう」
そして、僕は師匠とネルソンに家まで送ってもらった。
おふくろが師匠にさんざん頭を下げていいたようだが、僕はもう、それどころではなかった。
自分自身のことがわからないというのは、こんなにも不安をかき立てるものだということを、このときに初めて学んだのだ。
それから、しばらくの間は眠れない日々が続いた。
いい加減頭がおかしくなってしまうんじゃないかというくらい、さんざん悩み悩んで、考え考え抜いて、僕はひとつの結論に至った。
「それで、どうしようと言うんだ?」
「響香に会いに行く。それでなにもかもがはっきりするはずだ」
「ふむ……」と顎髭を撫でる師匠は、まるでぼくが導き出す答えを知っていたかのようだ。
「だが、会えるのかな? 相手はいまや三嶋財閥の総帥だ。幼なじみとはいえ、容易に近づきさせてもらえるものではないだろう」
「…………」
師匠の言うことは憎らしいほどに正論で、返す言葉がなかった。
そうなのだ。
響香はもはや、この国の政治経済にまで影響をおよぼせるほどの巨大な権力を手にしてしまっていた。
片田舎のはなたれ小僧ごときが「やぁ、ひさしぶり」などと気軽にお近づきになれるような存在ではない。
僕は子供だった。
自分の無力さ加減に、どうしようもないほどに腹を立ててしまうほどの子供だった。
どうすることも出来ずに、下唇を噛んで地面をにらみ続ける僕を、師匠は試すような目つきで、それでいて、悪戯めいた輝きを瞳の奥に宿して眺めていた。
すっかり黙り込んで、無言の重圧がどっしりと両肩に乗りかかってきていて、僕はそれからも、師匠の試すような視線からも、何もかもから逃げ出したくなっていった。
でも、そこで脚が言うことを聞いてくれるほど、僕は器用でも冷静でもなかった。
僕のそんな心境を察してか、師匠はニヤリと笑みを浮かべた。
「まぁ、君にその気があって、どうしてもというのなら、三嶋のお嬢様に会えるようにしてやってもいいがね」
え?と僕は顔を上げた。
「もっとも、一朝一夕というわけにはいかないし、それ相応の努力が必要になるが……それでもやると言うのなら教えてあげよう。なに、礼にはおよばんよ。ちょうど、私の技術を一代かぎりで終わらせてしまうのは忍びないと思っていたところでね」
そうだ、そうだ。と頷くようにネルソンが「クルックー」とひと鳴きして、僕は思わず首を縦に振っていた。
師匠はさま嬉しそうに顎髭を撫でながら「そうか、そうか……うむ、本当に、あの娘の言ったとおりだな……」と呟いたものだ。
「……?」
何のことかさっぱりわからなかったが、それ以上に、僕は自分の身に起きたことを理解するので精一杯だった。
「ああ、気にすることはない。では、そうだな……何から始めるとするかな……」
なんとも嬉しそうに思案する師匠に向かい「クルッポぉ~」と白鳩ネルソンが羽ばたいて、僕は奇術師としての第一歩を踏み出したのだった。
出会いが突然やってくるのなら、別れもまた唐突にやってくる。
よく晴れた夏の日だった。
どこまでも続いている青空に、綿菓子のようにふわふわな入道雲が浮かんでいて、私たちはいつものように手や顔や洋服が汚れてしまうのも気にせず、どろんこになって遊んでいた。
お祭りのような毎日は、このままずっと、なんの疑いもなく続いていくのだと思っていた。
私たちは子供だった。
お菓子の家がどこかにあって、いつか、お腹一杯にお菓子ばかりを食べていられると信じているような子供だった。
でも、現実はお伽噺のようにはいかない。
真っ黒なのにピカピカに光っている威圧的な車に乗って、私の血縁だという貴幸叔父さんがやって来て、私たちにお爺さまの遺書という現実を強引に突きつけた。
貴幸叔父さんは若かった。
まだ、二十代の後半ぐらいに見えた。
喜多原のおじさんとおばさんに比べたら、全然、若かった。なのに、喜多原のおじさんとおばさんは、貴幸叔父さんを見ると、まるで小動物のように寄り添って震えだした。
そして、お爺さまの遺書に目を通すと、もっと驚いて、喜多原のおじさんとおばさんは悪魔を見るような目で貴幸叔父さんを凝視した。
「そんな…響香はまだ十一歳なんですよ……」
「『響香』ねぇ……」
ギロリと、蛇のような目で睨み付けられて、おばさんは怯んだように自分の口を押さえ込んだ。
イヤな目をする人だ。と私は思って、喜多原のおじさんとおばさんの背中に隠れるように身体を縮めた。
「なるほど、自分の娘のように愛情を注いでくれた。というわけですか……」
疲れたように、面倒くさいと言わんばかりに貴幸叔父さんは溜息をひとつ吐いた。
「だが、忘れないでいただきたい。響香は三嶋の大事な跡取りだということをね……お爺さまの遺書にも書いてあるでしょう?」
口調はとても緩やかで丁寧な感じがするのだけど、なぜかざらざらするような気がしてならなかった。
なぜだが、恫喝されているような感じにさせられる。
目といい、喋り方といい、本当にイヤな感じのする人だ。
貴幸叔父さんの振るまいは、子供心にそんなことを感じさせた。
「でも…こんな子供に……」
「子供だろうと、何だろうと、三嶋の跡取りに変わりはないのですよ。まぁ、今すぐにとは言いません。一週間の猶予を差し上げます。『家族』でしっかり話し合っていただきたい」
そう言って、貴幸叔父さんは帰っていったのだけど、それから一週間はあっという間に過ぎてしまった。
一週間前と同じように、真っ黒なのにピカピカの車が何台もやって来て、私はそれがお迎えなのだと、お祭りのような毎日に終わりを告げる遣いのカラスだということを知っていた。
だって、夢で見たのだから。
やっぱり、夢は現実になった。
みんなとお別れしなければならないのはとても哀しかったけれど、でも、私はもう泣いてばかりはいられなかった。
今までと変わらず、喜多原のおじさんとおばさんが傍にいてくれるとは言っても、きっと「三嶋の家に戻る」ということは私が考えている以上に大変なことなんだと思う。
だって、喜多原のおじさんとおばさんは、お爺さまの遺書を受け取った日からずっと、ふさぎ込んだようになってしまったから。
私もお爺さまの遺書を読んだけど「三嶋の財産は全て、長男文晃の娘である響香に譲るものとする」という部分くらいしか理解できなかった。
他にもいろいろと、なんだか難しいことが書いてあったのだけど、直接的に私に関係することはそれくらいだった。
お爺さまのことは、もう、おぼろげにしか思い出せなかった。
ずっと小さな頃に別れたきりだったから、顔も声も霞がかかったように、はっきりと思い出せなくなっていた。
それは哀しいことだと思う。
このまま私が大人になったとき、村のみんなのことを、隆造おじさんや賢ちゃんのことを忘れてしまったらと思うと、背筋がぶるぶるっと震えて、すごく怖い気がした。
「さぁ、響香ちゃん……」と喜多原のおじさんとおばさんが私の手を取って、車へと誘おうとする。
私のために用意された真っ黒なのにピカピカな車の横では、貴幸叔父さんがさもつまらなそうに扉を開いて待っていた。
振り向けば、村のみんながお見送りに来てくれていた。
智士くんに孝彦くん、良平くんに君枝ちゃん、隆造おじさんに白鳩のネルソンまで来てくれていた。
もちろん、賢ちゃんもいた。
……忘れたくない。
このまま、促されるままに行ってしまったら、本当にそうなってしまいそうで、私はおじさんとおばさんの手を振りきって、みんなの元へと走った。
「響香ッ!」
貴幸叔父さんが、ものすごく怒った感じで叫んだけれど、私は立ち止まらなかった。
「ちぃッ、連れ戻せ!」
怒号のような貴幸叔父さんの号令でたくさんの人たちが動き出したのが、背中越しにもわかった。
怖かった。
けど、私はみんなのところへ行くことが出来た。
「まぁ、まぁ、最後に友達とお別れを言う時間ぐらいあげてもいいじゃないですか」と喜多原のおじさんとおばさんが貴幸叔父さんの前に立ちはだかってくれたからだ。
本当に、おじさんとおばさんには感謝の言葉がいくらあっても足りない。
今の私がこうしてあるのは、喜多原のおじさんとおばさんのおかげなのだから。
そして、私は賢ちゃんの目の前に立った。
賢ちゃんは、ううん、みんなが私の行動に驚いていたけど、すぐに笑顔で私を元気づけてくれた。
「がんばってね」とか「いつでも遊びにおいで」とか「向こうに行っても元気でね」とか、とても他愛のない言葉なのだけれど、すごく大切なもののように感じられる暖かい言葉たちだった。
私は本当に涙が出そうになるのを堪えて、被っていた麦わら帽子を両手で賢ちゃんの頭に乗せた。
「ねぇ、賢ちゃん」
「な、なんだよ……」
賢ちゃんはなんだか戸惑っていたけど、私はかまわずにありったけの笑顔で続けた。
涙でお別れなんて哀しすぎるから。
「忘れないでね。なにがあっても、響香は賢ちゃんのことが好きだから……」
そう言って、私はそっと賢ちゃんの唇に自分の唇を重ねた。
一瞬だけ、全ての音が消えたようだった。
みんなのどよめきも、風の音も、虫の声も、なにもかもが消え去って、世界の中に私と賢ちゃんだけが取り残されたようだった。
とても勇気のいる行為だったけれど、それは小さなおまじないだった。
そう、いつか見た『夢』を現実のものにするためのおまじないだった。
「ずっと、好きだから。忘れないでね……」
突然の出来事に賢ちゃんは呆けたままで、周りのみんなに冷やかされていた。
いつまでも、そんな光景を眺めていたかったけれど、もう、時間がないことがわかっていたから、私はそれ以上のことは何も言えなかったし、何もできなかった。
こうして、私は思い出と、ほんの少しの『夢』を胸の中に抱いて三嶋の家に戻った。
それからというもの、私はもう心から笑ったという記憶がない。
三嶋が求めていたのは私ではなく、私が相続した莫大な財産と、それを利用するための権限だった。
護衛と称して、いつも誰かに監視される毎日だ。
籠の中の小鳥とはよく言うけれど、小鳥はまだいい。歌う自由があるのだから。
私には意見を言うことも許されない。
ただ周りの言うことに頷いて、書類に判を押すだけの人形だ。
自由なんてものは薄っぺらい紙切れの上に書かれた、ただの文字でしかなかった。
そんな状況下で笑うことが出来る人間なんているのだろうか?
私はもう、笑うことを忘れてしまった。
このまま心を凍り付かせていると、本当に白いドレスを着た人形になってしまいそうだ。
あの時のおまじないは、まだ生きているのだろうか?
嘘偽りのない真実の言葉だったけれど、それが生きるか死ぬかは受け手の問題なのだから、私には信じて待つことしかできない。
だから、私は待っている。
『夢』が『夢』でなくなる日を。
この三嶋という籠の中から抜け出せる日を。
私は待っている……
奇術師は魔法使いではない。
一見、魔法のように見える不思議な現象ばかりだが、そこには合理的で心理的な理論がしっかりと根付いている。
高峰隆造の弟子として、真っ先に叩き込まれたのは「全てを疑え」だった。
疑うことで物事の本質を見極めようとする眼が養われる。
そして、本質を見抜くことが出来たなら、それを自らの身体や道具を使って体現したように見せかける。
それが奇術なのだと。
つまり、奇術師には観察力と洞察力、それに現象をトレースする器用さが要求されてくるというわけだ。
最初の一年は、ただひたすらに指先の器用さを手に入れるためにクルミや大豆なんかを掌の中で転がしていたり、カードを切ってばかりいた。他にも、観察力と洞察力を鍛えるためにと釣りやキャンプにも連れて行かされたし、体力作りのために持久走はもちろん、腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワットなんかの筋力トレーニングも毎日のように続けた。
二年目は、ひたすら読書をさせられた。
もちろん、一年目の基礎体力作りと並行してだ。
博物学の本に始まり、聖書などの神学書、ニュートン力学から始まる物理学書や、記号と数字ばかりで理解に苦しむ数学書、他にも哲学書や心理学書や医学書、はては画集や料理の本なんかも読まされた。
三年目になって、ようやく奇術の手ほどきを受けた。
手ほどきというと語弊があるかも知れない。
師匠は、それはもう厳しかった。
僕はただ、奇術を見せられただけだった。
師匠のやり方はこうだ。
まず手本となる奇術をやってみせる。
そして、間髪をいれずに、
「じゃあ、やってみろ。それが出来るまで、次は見せん」
と後はひたすら放任に徹するのだ。
そうして、僕はたった一度見ただけで奇術を習得しなければならなかった。
行き詰まって、どうしても奇術のタネを解き明かせなくって、一人で悶々としていても、師匠は手を貸すどころか、いっさいの助言すらくれなかった。
そうやって苦労の末に奇術をひとつ身につけたら、また休む間もなく、次の奇術を見せられる。
そんな調子で、次から次へと、僕は必死になって師匠の技を身につけていった。
師匠が倒れる。その日まで。
嵐が近づいている蒸し暑い夏の夜だった。
十日ほどかけて、僕はようやく『中に浮かぶ自動人形』の謎を解いた。
さぁ、これでどうだ。と僕はタネを解き明かしたばかりの奇術を、師匠の目の前で披露していた最中だった。
不格好なピエロの人形が、いささかぎこちなさは隠しきれなかったが、あたかも意志があるように動いてみせていた。跳んだり跳ねたり、消えたり現れたり、手拍子に合わせて空中で奇妙なダンスを踊っていた。
その時だ。
ガタタッ……!
と揺り椅子ごと師匠が横倒しになった。
僕は慌てて師匠を助け起こそうとした。
「……心配ない。大丈夫だ……」
空気が抜けたような弱々しい声だった。
師匠のことは信頼していたが、このときばかりは信じられたものではなかった。いや、信じてはいけなかった。
「大丈夫なわけないだろ! そんな倒れ方をして……!」
とにかく、ベッドに運んでしまおうと師匠の身体を起こす。
ひょいと、意外に軽々と持ち上げられた。
あれ…師匠って、こんなに軽かったっけ?
想像していた手応えとの違いに、僕は一瞬とまどった。
その時まで気づかなかったが、いつの間にか僕の身長は師匠のそれに頭ひとつ分ほどに迫っていた。
妙に、師匠の肩が小さく感じたのを覚えている。
「もうトシなんだから、あんまり、無理はしないでくれよ。まだまだ教えてもらうことは、いっぱいあるんだからさ」
うっすらと師匠は笑った。口の端だけで。
「そうだな……おまえの言うとおりだ……」
人間は考える葦だなんて、どこかの誰かが言ったらしいが、師匠の身体は葦なんかよりもひどく細くて、弱々しいもののように感じられた。
それからひと月もしないうちに、師匠は眠るように逝ってしまった。
「鳩たちの世話をしてくれ。三年だ。三年でいい……」
それが師匠の最後の言葉だった。
不思議と涙は出なかった。一滴も。
哀しくなかったわけじゃない。でも、それよりも、やらなければならないという使命感のほうが、ずっと強かったのだと思う。
『神の手』とまで称された高峰隆造の技を継承するのだという。
僕は師匠からたくさんのことを学んだ。
それは奇術に関することだけじゃない。
物事の見方や捉え方、そして、自分で考えて行動するということを、知らず知らずのうちに教わっていた。
師匠は無言で語りかけてくれていたのだ。
世界の感じ方、とでもいうべきものを。
おかげさまで、旅はおおむね順調だった。
都市に近づけば近づくほど人の数が増えて、道ばたで奇術を披露して稼ぐ情報量と日銭の量が増えていった。
そうして、僕はさほどの苦労をすることなく三嶋の家を探し当てることが出来た。
というより、見つけさせられたような気がしてならなかった。
三嶋の家は僕の想像を遙かに超えた立派なお屋敷で、お伽噺に出てくるお城のようだった。
誰に聞いても一様に答えが返ってくるほど、ご近所さまたちにとっても羨望の対象であるらしくて、僕はあっさりと門扉の横に掲げられた「三嶋」の表札を眺めることになった。
広大な土地の上に、これまた城のような建物がでんと構えている。
門をくぐったとしても、玄関まで十分少々は歩かなければならないのだろう。
それだけの空間が広がっているのを鉄格子状の門越しに見てとれた。
ダメもとで、僕は呼び鈴を鳴らした。
数拍間の沈黙のあと、黒塗りの車が屋敷からやって来て門の前で止まった。
そこから黒いスーツの男が降りて来て、僕の方へ近づいてきた。
「何か、ご用でしょうか?」
ひどく機械的な冷たい態度で男は聞いた。
僕は気にせず、自己紹介することにした。多少の脚色をして。
「あの、僕は園村賢一って言います。昔、響香さんにお世話になった者です。近くまで来たものですから、あいさつを、と思いまして……」
「お約束がないのでしたら、お帰りください」
取り次いでいただけますでしょうか?とお願いするより先に男はそう言って踵を返してしまった。
開かれることはない門扉を前にして、僕は溜息を吐いた。
すると、どこに行っていたのかネルソンが僕の肩に戻ってきて、抗議でもするように「クルッポ~」と一声鳴いた。
高くて分厚い塀と門を、僕は見上げた。
それは三嶋の家と世界とを隔てる国境線のように感じられた。
乗り越えるのは容易ではないだろう。
だが、
「さてさて、どうしてくれようか」
僕は口の端だけで笑って見せた。
不可能を可能にする。それが奇術師だ。
園村賢一、一世一代の奇術ショーの幕開けが、刻一刻と近づいていた。
コンッコンッ、とひかえめに誰かが扉を叩いた。
どうぞ。と入室を許可すると、喜多原のおばさんが入ってきて、まぁ!と感嘆の声を上げた。
「とってもきれいよ、響香ちゃん」
私は純白のウェディングドレスに身を包んで椅子に座っていた。
膝の上に置いた指の甲をじっと見つめて、そこにはまだ何の飾りも付いていないことを確認してから、私は「そう……?」と気のない返事をした。
おばさんは、そんな私の気持ちを察してくれてか、つとめて明るく振る舞おうとしていた。
「そうよ。まるで羽衣を纏った天女様みたいよ」
「そうかな……?」
「なぁに、おばさんの言うことが信じられない?」
「ううん……、ありがとう。でも、こんな人形みたいな格好はしたくないな……」
「そんなことないわよ。似合っているわ。いいわねぇ。おばさんなんか、式も挙げていないから、そいいうの、ちょっと憧れちゃうわね」
「なら、いっそのこと代わってちょうだい」
「あらあら……そうしてあげたいのは山々なんだけど、それで匡彦さんや柳澤家の人たちが納得してくれるかしら?」
「そうね……」と相づちを打ちながら、私は内心、彼らならきっと納得するんじゃないかしらと思っていた。
私は今日、結婚するとこになっている。
なっているというのは、あくまでスケジュール上のイベントでしかないということだ。
私が相手の男を愛しているといことでも、相手の男が私のことを愛してくれているというわけでもない。まぁ、柳澤の三男坊は、三嶋という家柄を愛してくれているようだけど。
この結婚は男と女がするんじゃない。
家と家が互いの権益をより強固にするために執り行われる儀式でしかない。
三嶋の傘下に入れるのなら花嫁が誰であろうと、柳澤は異論を唱えることはないだろう。
「響香様、そろそろお時間です」
無遠慮に扉を開いて、使用人が呼びに来た。
「そう、わかった」と私は毅然と立ち上がった。
迷いがないと言えば嘘になる。でも、迷ったところでどうにかなるものでもない。
私には選ぶ権利もなければ、泣き叫ぶ自由もないのだ。
せめて、せめて、運命というものに凜として立ち向かおうと思っているだけだ。
スッと決意を込めて歩き出すと、私の腕を喜多原のおばさんが引き留めるようにつかんだ。
「本当に、早いものだね。あんなに小さかった子が、結婚するだなんてさ」
「……おばさん?」
喜多原のおばんは祈るように私の手に両手を合わせていた。
「ごめんよ。響香ちゃんの気持ちは痛いほどわかっているつもりだよ。でも、何も出来ないあたしたちを、力になれないあたしたちを許しておくれ」
それは懺悔の言葉だった。
私はおばさんの手を握り返した。
「許してくれだなんて……おばさんたちは十分すぎるくらい、私に尽くしてくれたわ。それだけでも満足してるの。ほんとうよ。これ以上を望んだら、欲張りってものだわ。だから、ほんとうにありがとう」
「響香ちゃん……」
今にも泣き出しそうに顔を歪めて、おばさんは私を見上げた。
「ねぇ、おばさんは覚えてる? 小さい頃の夢を……」
突然の質問に、おばさんは戸惑ったようだったけど「いいや」と頭を振った。
「夢なんて、もう忘れちまったよ」
おばさんはすまなそうに、ちょっと恥ずかしそうにして言った。
たぶん、本当は忘れてなんかいないんだ。きっと、忘れたふりをしているんだ。そうやって、みんな自分を誤魔化して生きているのだろうか。
そうしなければ、生きていけないのが人生だとでもいうのであろうか。
それが大人になることだとでもいうのだろうか。
だとしたら、私は子供のままでいたい。
それこそ夢でしかない。
「私はまだ覚えてるの。だから、大丈夫」
そう言っておばさんの手を離すと、私を呼びに来た使用人がしびれを切らせたように急かした。
「響香様、もう時間です。お早くお願いします」
「わかってる」
きっと大丈夫……
私は自分自身に言い聞かせて、『夢』への一歩を踏み出した。
……嵐が近づいていた。
青々とした空のずっと西の方角から、積乱雲がもくもくと侵攻を開始していた。
あと一時間もすれば夏の日差しは遮られてしまうだろう。
教会には三嶋・柳澤両家の親戚筋はもちろん、政界や財界なんかの重鎮たちも列席してしていたに違いない。
どいつもこいつも、一筋縄ではいかないって面構えだ。
だが、一癖も二癖もある観客のほうが騙しがいがある。
と、厳かにオルガンの音色が響いて、新郎新婦の入場行進が始まった。
当然、新郎には面識がない。いささか緊張した面持ちで老神父の元へと導かれていく彼の名は柳澤匡彦。響香よりも五つ年上で、貿易商を営む柳澤家の三男だ。容姿は、まあまあ端麗と言っていいだろう。頭脳のほうも決して出来が悪いわけではないらしい。だからといって聖人君子であるというわけではない。残念なことに柳澤匡彦は少々の問題を抱えていた。金と女にだらしがないのだそうだ。
本日の主役のひとりが特等席に到着する。
僕はさっと教会内を見渡した。
さてさて、この人間の皮を被った守銭奴たちは、いったいどんな顔で驚くのかなと思っていると、新婦の入場が始まった。
響香は喜多原のおじさんに伴われて、一歩一歩ゆっくりと、しかし、確実に歩みを進めていた。
僕は、はやる気持ちを抑えるために大きく息を吸った。
「ぅおっほん!」
老神父は合図でもするように、わざとらしく大きな咳をした。
「では、これより三嶋家響香と柳澤家匡彦の婚姻を執り行うとする。では、まずは匡彦どの」
「は、はい!」
よっぽど緊張しているのか、うわずった声で新郎は返事した。
「汝は三嶋響香を妻として認め、健やかなるときも病めるときも、また、いかなるときも、これを愛すと誓うか?」
「誓います!」
「では、響香どの」
響香はうつむき気味だった面を、ほんのわずかに引き上げた。
ベールに隠された表情は読み取りづらかったが、石みたいに固まっているように感じられた。
「汝は柳澤匡彦を夫として認め、健やかなるときも病めるときも、また、いかなるときも、これを愛すと誓うか?」
ベールに包まれた花嫁は、すぐには応えなかった。
重苦しい沈黙が降ってわいた。だが、沈黙が教会内を牛耳っていられた時間はわずかなものだった。
ざわざわと、来賓たちが揶揄と疑問符を囁き合っていたからだ。
「ぅおっほん!」
老神父はまたしても、わざとらしく咳をした。
そして、優しい眼差しで沈黙を守る花嫁を見つめた。
「誓うかね?」
とても穏やかな口調であったが、同時に威圧的ですらあった。
老神父は花嫁に返答を迫ったのだ。
それでも響香は応えなかった。
何かを待っているように、じっと一点を見つめていた。五分ほど。
永遠とも思える五分間が過ぎて、ようやく響香の硬い唇が動いた。
「……はい。誓います」
新郎はホッと胸を撫で下ろしたようだった。
「では、指輪の交換を」
老神父が木箱に入った二つの指輪を差し出す。
大粒のダイヤモンドがあしらわれた指輪だ。
慌てた様子で新郎が指輪を手にしようとした。その時だ。
「クルッポ~!」と場違いな鳴き声を響かせて、ネルソンが飛び込んできたのは。
何食わぬ顔で政財界における重鎮たちの頭上をくるりと一回りしたかと思うと、突然、矢のような勢いでネルソンは新郎が手にしている指輪に襲いかかった。
ぱくりとダイヤモンドの指輪をくわえ込んで頭上を一回りすると、麦わら帽子を目深に被った男の肩に舞い降りた。
ふてぶてしい泥棒のコンビは教会の入り口に通せんぼをするように立っていた。
「な、な、な、なんなんだ、いったいこれは!」
新郎はヒステリックに叫んだ。
無理もないだろう。鳩なんかに大事な結婚指輪を盗まれてしまったのだから。まったくもって、恥さらしもいいところだ。
呆気にとられて一部始終を見守っていた人々も、新郎が慌てふためいて地団駄を踏んでいるのを見て、ようやく事態を察したのか、がやがやと騒ぎ始めた。
「レディース、ァンドぉ、ジェントルメン! さぁ、ひとときの夢の世界を存分にお楽しみに下さい!」
麦わら帽子の男は大仰に両手を開いて、そんなことを言った。
無論、まっとうに聞いている者などいるはずもない。
「そいつを捕まえろ!」
という号令の元、体格のいいスーツの男たちがいっせいに飛びかかった。押しつぶされそうになった瞬間、間隙を縫ってネルソンは頭上に逃げおおせた。だが、麦わら帽子の男はあっさりと捕まってしまった。と思いきや、派手な音を響かせて男は破裂した。中から紙吹雪と三匹の白鳩を吐き出して。
飛びかかった男たちは、紙吹雪にまみれて混乱していた。
残ったのは麦わら帽子だけ。
すると、麦わら帽子の中から風船がぷくぅと膨らみだした。
それはどんどん、どんどん大きくなっていった。いや、麦わら帽子だけじゃない。教会のあちこちからお化けのように風船があらわれて膨らみだした。
もう教会の中は、悲鳴と怒号と意味をなしていない命令が充満して飛び交っていた。
頃合いかなと、老神父は口の端だけで笑った。
響香はずっと、ことの成り行きを見守っていた。
この騒動の結末を知っていて、動かなければ自分は絶対に安全なのだとわかっているかのようにじっとしていて、あの麦わら帽子を祈るように見つめていた。
「こっちだよ。こっち」
僕はようやく響香に声をかけた。
「え?」と響香は振り向いた。
でも、そこには老神父の姿しかない。
ああ、そうか。と僕は髭に手をかけて、ベリベリッと老人のマスクを外した。
「やあ、ひさしぶり」
突然現れた若い男に、響香は瞳をぱちくりとさせた。
「……賢ちゃん」
確かめるように響香は呟いた。
「ま、つもる話は山ほどあるんだけど、ゆっくりしてられないからな。さっさと、ここを出ることにしようか」
警備らしきスーツの男達が、僕の存在に気づいたようだ。
時間がない。
さあ、と僕は響香に手を差し伸べた。
うん、と力強く頷いて響香は僕の手を取った。
「イッツ、ショータイムってやつさ!」
僕はマントをひるがえした。
すると裏地に仕込んでおいたロケット花火がいっせいに飛び出す。
あっちこっちと無遠慮に火線が走る。
何人かは火傷を負ったかも知れないが、まあ、そのくらいは勘弁してもらおう。
それでも怯まず、数人の男たちは果敢に僕めがけて突進してきた。
僕は神父の服を男たちめがけて脱ぎ捨てた。
それは爆発するように煙幕を撒き散らした。
悲鳴と怒号と、風船と花火と煙幕が奏でる狂乱の中を、僕らは突っ切った。
もちろん、混乱に乗じて麦わら帽子は回収した。
外に出ると、夏特有のじめじめとした、でもどこかさわやかな空気の流れが頬を叩いた。
遅かったぞとでも言うように「クルッポ~」とネルソンが僕の肩に降りてきた。
そのくちばしに、しっかりとダイヤの指輪をくわえて。
それを見て、響香は笑ったようだった。
僕もつられて笑った。
積乱雲はその強大な勢力をもってして、青空の半分以上を侵略していた。
嵐が近づいていた。
それでも、僕らは互いの手を握りしめて走り出したのだった。
了




