第9話 声より先に(視点:篠宮 蒼)
試合の日の体育館は、音が歪む。
応援の声も、ホイッスルも、全部が重なって、
本当の音が聞こえなくなる。
だから俺は、音より先に——動きを見る。
朝霧柚葉の、最初の一歩。
コートに入った瞬間、
俺は無意識に、彼女の膝を見た。
……違う。
すぐに気づいて、視線を上げる。
今日は、膝だけを見ちゃいけない。
「篠宮、集中」
男子の顧問に言われて、俺は短く返事をした。
俺の試合は、今日はベンチだ。
だが、集中している。
——別の意味で。
女子の試合開始。
ボールが跳ねる。
最初のパス回し。
柚葉は、無理をしない。
だが、引いてもいない。
“選んでいる”。
それが分かる。
結城真帆が声を出す。
前より多くない。
必要なところだけ。
黒瀬澪は、相変わらず鋭い。
だが、昨日と違う。
周りを一瞬、見る。
——変わったな。
第1Q。
相手は強い。
当たりが激しい。
柚葉がカットイン。
一瞬、足がもつれる。
俺の喉が、勝手に動いた。
「——!」
声が出かけて、止まる。
——守るな。並べ。
榊原先生の言葉が、頭をよぎる。
俺は、黙る。
柚葉は、倒れなかった。
倒れなかっただけじゃない。
そこで、パスを選んだ。
真帆。
迷いなく、シュート。
外れる。
でも——
柚葉は、すぐ戻る。
顔を歪めない。
膝を庇う動きもしない。
——大丈夫、じゃない。
——でも、逃げてない。
第2Q。
相手が柚葉を潰しにくる。
二人がかり。
普通なら、下がる。
だが、柚葉は止まらない。
無理に抜かない。
でも、視線を切らさない。
その一瞬、
澪が空く。
パス。
澪が決める。
ネットが、強く鳴る。
観客席が沸く。
俺の胸も、少しだけ鳴った。
ハーフタイム。
柚葉はベンチで水を飲む。
真帆が、隣に座る。
触らない。
でも、離れない。
——いい距離だ。
俺は、ベンチの端から立ち上がる。
声をかけたい。
でも、言葉はいらない。
代わりに、目が合う。
柚葉が、気づいて、少しだけ頷く。
——選んでる。
後半。
試合は拮抗する。
点差は、ほとんどない。
残り三分。
柚葉がボールを持つ。
相手が寄る。
強く、ぶつかる。
一瞬、膝が揺れる。
俺の心臓が、跳ねる。
——言うな。
自分に言い聞かせる。
——信じろ。
柚葉は、踏み込まない。
無理をしない。
でも、
逃げない。
その場で、身体を入れ替える。
小さなフェイク。
相手の重心が、ずれる。
その隙に——
パス。
真帆でもない。
澪でもない。
ベンチから走り込んだ、別の選手。
シュート。
決まる。
点差が、開く。
その瞬間、
柚葉が、小さく息を吐くのが見えた。
——ああ。
俺は、はっきり分かった。
この試合で、
柚葉は“自分を守っていない”。
守っていたのは、
流れだ。
仲間だ。
そして——未来だ。
残り一分。
相手のファウル。
フリースロー。
柚葉がラインに立つ。
体育館が、静まる。
俺は、初めて、
彼女の顔だけを見る。
目が、前を向いている。
膝を見ていない。
俺を見ていない。
——それでいい。
一本目。
入る。
二本目。
一瞬、躊躇。
でも、
手が止まらない。
入る。
ブザー。
試合終了。
勝った。
でも、
勝った音より先に、
俺の中で鳴ったものがある。
——戻ってきた。
あの頃の柚葉。
バスケを“怖がらない”柚葉。
柚葉が、コートを見渡す。
真帆を見る。
澪を見る。
先輩を見る。
最後に、
観客席の端を見る。
俺と、目が合う。
言葉はいらない。
俺は、
親指を、ほんの少し立てた。
柚葉は、
笑わなかった。
でも、
分かった。
——通じた。
片付けが終わる頃、
俺は体育館の出口に立っていた。
柚葉が、近づいてくる。
「……蒼」
「うん」
「今日」
言いかけて、止まる。
俺は、先に言った。
「声、出さなかった」
柚葉が、驚いた顔をする。
「……うん」
「出さなくて、よかった」
それだけ。
柚葉は、少し考えてから言う。
「……ありがとう」
ありがとう、じゃない。
でも、訂正しない。
それは、
言葉にすると、
小さくなる気がした。
外に出ると、夜風が冷たい。
でも、
胸の奥は、静かに熱い。
俺は思う。
恋って、
守ることじゃない。
並んで、
黙って、
同じ瞬間を信じることだ。
明日、
彼女がどうなるかは分からない。
でも、
今日、俺は確信した。
——この人となら、
言葉がなくても、
ちゃんと進める。




