第7話 踏み出す前の熱(視点:朝霧 柚葉)
朝の体育館は、まだ誰のものでもない。
ボールの音も、声もなくて、床だけが静かに光っている。
この時間が、いちばん怖い。
何も始まっていないのに、もう全部が決まっている気がするから。
私はベンチに座って、膝のサポーターを締め直した。
きつすぎない。
緩すぎない。
“逃げない”くらいの強さ。
——怖いって、言え。
昨日の蒼の声が、まだ残っている。
言えたからといって、怖くなくなるわけじゃない。
でも、言えなかった時より、息は深い。
「早いね」
声をかけられて顔を上げると、結城真帆が立っていた。
ジャージ姿。
髪は結んでいるけど、少し乱れている。
「真帆も」
「うん。今日は、さ」
言いかけて、止まる。
その止まり方が、昨日までと違う。
前は、勢いで押してきた。
今日は、私の顔色を見ている。
「……やろ」
短い一言。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
1on1。
逃げないで、って言われた。
逃げないって、決めた。
コートの中央に立つ。
真帆と向き合う。
近い。
思ったより、ずっと。
真帆の息遣いが分かる。
絆創膏の白が、視界に入る。
「先攻、どっち?」
真帆が聞く。
「……私」
声が震えなかった。
それだけで、少しだけ嬉しい。
ボールをつく。
ドン。
音が、床に返る。
真帆のディフェンスは、近い。
真剣だ。
優しさがない。
それが、ありがたい。
一歩。
二歩。
踏み込む直前、膝の内側が熱くなる。
嫌な熱。
逃げたくなる合図。
——でも。
私は、そこで止まらなかった。
完全に踏み込まない。
深くも、浅くもない。
昨日より、ほんの少しだけ前。
真帆が反応する。
一瞬、重心が動く。
その瞬間、私は——
行かなかった。
パスも、シュートも、選ばない。
ドリブルを切り返す。
「……っ」
真帆の息が詰まる音。
その隙に、レイアップ。
ボールが、ネットに触れる。
入った。
音が、軽い。
先輩が言っていた“私の音”。
「……ナイス」
真帆が言う。
悔しそうで、でも、嬉しそうで。
次は、真帆。
彼女は、迷わず仕掛けてくる。
努力の速度。
私が、何度も置いてきた速度。
私は守る。
膝を気にしながら。
でも、逃げない。
フェイク。
一瞬、足が遅れる。
——取られる。
そう思った瞬間、声が飛んだ。
「柚葉!」
蒼の声。
振り向かない。
声だけで、十分だった。
私は、踏み出した。
完全じゃない。
怖い。
痛い。
それでも、身体は前に出た。
ボールに手が当たる。
弾く。
床に転がる。
「……!」
真帆が追う。
追って、止まる。
私を見る。
その視線が、問いかけている。
——行く?
私は、頷いた。
真帆が拾って、シュート。
決まる。
二人で、息を吐いた。
勝ち負けじゃない。
でも、確かに“前に進んだ”。
その時、足元がぐらりとした。
膝。
嫌な感覚。
私は、思わず止まる。
「柚葉!」
真帆が駆け寄る。
触ろうとする。
「……大丈夫」
言いかけて、やめた。
「……ちょっと、怖い」
言えた。
真帆の手が、止まる。
でも、引っ込まない。
「そっか」
それだけ言って、横に立つ。
支えない。
離れない。
蒼が、少し離れた場所で見ている。
目が合う。
蒼は、何も言わない。
でも、頷いた。
——選んだな。
そう言われた気がした。
少し休んで、立ち上がる。
膝は、まだ熱い。
でも、壊れていない。
「続ける?」
真帆が聞く。
私は、息を吸って、吐いた。
「……うん。時間、短く」
逃げない。
壊さない。
その間を、選ぶ。
1on1は、そこで終わった。
勝敗は、数えていない。
でも、私の中で、何かが変わった。
練習の後、ベンチに座る。
汗が、額から落ちる。
陽菜先輩が、遠くで見ている。
何も言わない。
でも、笑っている。
黒瀬澪は、腕を組んでいる。
視線が、私に向いている。
昨日より、少しだけ柔らかい。
「朝霧」
澪が近づいてくる。
「さっきの」
一瞬、言葉を探す。
「……悪くなかった」
それだけ。
それだけなのに、胸が熱くなる。
「ありがとう」
私が言うと、澪は目を逸らした。
「勝負は、明日」
「うん」
短い会話。
でも、距離が変わったのが分かる。
帰り支度。
靴紐を結ぶ。
蒼が、近づいてきた。
「……無理、した?」
聞き方が、変わった。
守る人の声じゃない。
「した」
私は正直に言う。
「でも、選んだ」
蒼は、少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
「それでいい」
その言葉が、胸に落ちる。
体育館を出ると、夕方の風が冷たい。
でも、膝の奥の熱は、まだ残っている。
怖い。
それでも、前に出た。
明日。
試合。
私はもう、“何も選ばない私”じゃない。
踏み出す前の熱を、覚えたから。




