第6話 背中で渡す(視点:遠野 陽菜)
最後の夏は、音が少ない。
歓声も、ブザーも、全部まだ先にある。
いまあるのは、体育館に残る湿った空気と、ボールの低い反響だけ。
私はモップを持ちながら、コートの端に立っていた。
床を拭くふりをして、拭いていない。
見ている。
後輩たちの足音。
息の揺れ。
言葉にしない沈黙。
——ああ、始まってるな。
三年生の時間は、いつもこうだ。
気づいた時には、もう引き返せない。
「陽菜先輩、そこ、私やります」
結城真帆が声をかけてくる。
声は明るい。
でも、明るさの裏で、息を測っている。
「いいよ」
私はモップを渡す。
渡しながら、彼女の手のひらを見る。
絆創膏。
白い線。
努力の線だ。
ああいう線を、私は好きだ。
「ありがとです!」
真帆は笑って、床を拭き始める。
その背中は、少し前の私に似ている。
必死で、置いていかれないようにしている背中。
コートの中央では、朝霧柚葉がストレッチをしている。
膝。
指先。
呼吸。
全部が、丁寧すぎる。
丁寧って、時々、怖さの別名になる。
私は柚葉の横に座った。
「明日だね」
「……はい」
返事が短い。
短いけど、逃げていない。
「怖い?」
聞いた瞬間、後悔した。
聞くべきじゃなかったかもしれない。
でも、柚葉は少し考えてから、首を縦に振った。
「……はい」
正直だ。
それだけで、少し救われる。
「そっか」
私はそれ以上、踏み込まない。
踏み込まない代わりに、立ち上がる。
「じゃあさ」
ボールを一つ、柚葉に転がす。
軽く。
逃げ道のある速度で。
「受けて」
柚葉は一瞬迷ってから、受け取る。
受け取れた。
それだけで、今日は合格だ。
「投げて」
「……どこに」
「私に」
私は三ポイントラインの外に立つ。
構える。
でも、手は出さない。
「外してもいいから」
そう言うと、柚葉は少しだけ驚いた顔をした。
外してもいい。
その言葉を、選手はなかなか信じられない。
柚葉は深呼吸して、投げる。
ボールは弧を描いて——リングに当たり、外れた。
コツン、という軽い音。
「もう一回」
私は同じ場所に立つ。
同じ距離。
同じ沈黙。
二本目。
今度は、ネットを揺らした。
音が、違う。
さっきより、軽い。
「……今の」
柚葉が私を見る。
「うん」
私は笑う。
「今のが、あなたの音」
説明はしない。
説明すると、音が濁る。
真帆が、少し離れた場所から見ている。
見ているけど、近づいてこない。
距離を保つ選び方を、彼女は覚え始めている。
黒瀬澪は、ベンチに座っている。
腕を組み、前を見ている。
孤独な姿勢。
私は、澪の前に立った。
「黒瀬」
澪が顔を上げる。
目が鋭い。
「明日」
「勝ちます」
即答。
強い。
でも、脆い。
「勝って」
私は続ける。
「それから、周りを見な」
澪の眉が、わずかに動く。
「余計です」
余計。
そう言えるうちは、まだ若い。
「余計なことが、最後に残る」
私はそう言って、立ち去る。
理解されなくていい。
三年生の仕事は、分かってもらうことじゃない。
残すことだ。
片付けが終わる頃、体育館の空気が少し冷えた。
夕方の光が、床に長い影を落とす。
私はコートの中央に立つ。
ここが、私の場所だった。
——だった。
明日、私は脇役になる。
いや、もうなっている。
でも、それでいい。
背中を渡すって、そういうことだ。
出口に向かう途中、柚葉が声をかけてきた。
「先輩」
振り向く。
「……ありがとうございました」
何に、とは聞かない。
聞かなくていい。
「どういたしまして」
それだけで、十分だ。
外に出ると、風が冷たい。
でも、胸の奥は温かい。
最後の夏は、静かだ。
だからこそ、全部がよく聞こえる。
足音。
息。
選択の音。
明日、彼女たちは選ぶ。
私は、それを見届ける。
——それで、いい。




