第5話 壊すな(視点:榊原 航)
体育館の床は、選手より正直だ。
踏み込みが甘ければ、音が濁る。
迷いがあれば、必ず一拍遅れる。
誰が何を考えているか、床を見ればだいたい分かる。
私は、朝霧柚葉の足音を聞いていた。
——まだ、壊れてはいない。
だが、壊れに近い。
「集合」
手を叩く。
ホイッスルはいらない。
音を増やすと、選手は余計なことを考える。
明日は地区予選前の確認試合。
勝敗は二の次だが、逃げ癖は今日で切る。
「今日は、無理をしない」
そう言うと、選手は必ず勘違いする。
だから、私は続ける。
「無理を“隠す”な」
空気が一瞬、止まる。
結城真帆が息を吸う。
黒瀬澪は表情を変えない。
朝霧柚葉は、膝の位置を無意識に確かめる。
——隠すな、だ。
私は選手を甘やかさない。
理由は簡単だ。
甘やかすと、壊れるからだ。
「黒瀬。朝霧。1on1」
二人が前に出る。
距離が、少しだけ近い。
黒瀬は、正しい。
技術も判断も、今のチームでは頭一つ抜けている。
だが、正しさは、時々、人を切る。
朝霧は、未完成だ。
才能はある。
だが、恐怖を知ってしまった。
——恐怖を知った才能は、扱いが難しい。
開始。
黒瀬が仕掛ける。
迷いがない。
朝霧が守る。
一拍、遅れる。
シュート。
決まる。
「次」
黒瀬の声は短い。
勝つ人間の声だ。
次。
朝霧が仕掛ける。
私は、彼女の膝を見る。
踏み込む前の、ほんの一瞬。
迷いが消えかけている。
——今だ。
だが、彼女は自分で行かない。
パス。
結城真帆へ。
シュート。
決まる。
床の音が、変わった。
勝利の音じゃない。
連結の音だ。
私は、思わず口を開いた。
「……なるほど」
選手たちが、こちらを見る。
私は短く言う。
「勝ち方は、一つじゃない」
それだけでいい。
説明はしない。
説明は、選手の想像力を奪う。
休憩。
朝霧がベンチに座る。
息は荒い。
だが、顔は逃げていない。
私は近づく。
「朝霧」
彼女が顔を上げる。
「逃げるなら、コートを降りろ」
昨日と同じ言葉。
だが、今日は続ける。
「逃げないなら、壊すな」
彼女の目が、揺れる。
「……どうすれば」
答えを求める目。
だが、私は答えを与えない。
「選べ」
短く言う。
選手は、選択で育つ。
正解ではなく、選択で。
私は立ち上がり、全体に声をかける。
「明日は、勝ちに行く」
ざわ、と空気が動く。
「だが——」
間を置く。
「壊して勝つな」
結城真帆が、強く頷く。
黒瀬澪が、ほんの少し視線を落とす。
朝霧柚葉が、膝に手を置いたまま、前を見る。
それでいい。
練習が終わる。
私は体育館に一人残る。
床の中央に立つ。
この場所で、何人も見てきた。
壊れる才能。
逃げる努力。
遅すぎた後悔。
——同じことは、させない。
出口の方で、足音。
振り向くと、篠宮蒼が立っている。
男子バスケ部。
無口な少年。
「……先生」
「用か」
「柚葉のこと」
その一言で、十分だ。
私は言う。
「守るな」
蒼が、目を見開く。
「並べ」
短く、断定する。
「守ると、選べなくなる」
蒼は黙る。
黙ったまま、拳を握る。
——いい。
言葉が少ない人間ほど、覚悟は深い。
蒼が去る。
私は天井を見上げる。
体育館の灯りは、少し眩しい。
だが、選手が見るのは、もっと眩しい未来だ。
明日。
勝負。
怪我。
選択。
その全部を引き受けるのが、コーチの仕事だ。
私はホイッスルを握りしめ、静かに呟いた。
「壊すな。だが、逃げるな」
床は、何も言わない。
だが、すべてを覚えている。




